宮城県の大川小学校に行きました [Ⅱー353]
8月1日、宮城県石巻市の大川小学校に行きました。
大川小学校は、海から約4㎞上流の距離にあり、海抜1.1mの場所です。近くに、川幅600mの北上川、農業用水用の富士川が流れていました。
2011年3月11日、午後3時30分すぎ、津波が大川小学校を襲いました。
■河川津波と陸上津波(以下、■と太字の文は、掲示板にかかれたもの。写真は8月1日撮影)
追波湾で記録された高さ13m以上の津波は、河川津波となり北上川と富士川を遡上、陸上津波は河川津波とは時間差で、長面・尾の崎を襲い、山へぶつかり方向や高さを変えながら釜谷へと押し寄せました。
■学校周辺の被災状況
津波は、家や車や土砂、そして長面海岸の数万本の松の木を巻き込み、黒い壁となって北上川を遡りました。やがて堤防から溢れ出た津波は町を学校をのみ込んだのです。全長566mの新北上大橋は、左岸側155mが津波により落橋し上流へ押し流され、間垣の河川堤防は、約1100mに渡って決壊しました。
北上川の越流津波と陸上遡上津波の複合津波でした。浸水深8.7m、津波高9.8mで、泥砂、流木などが流れてきました。児童78名、教員10名が三角地帯に避難途中で、北上越流津波で流されました。児童74名、教員10名がお亡くなりになりました。子どもたちの遺体がたくさん埋もれていたという場所にも行きました。ご遺族が「ここまで逃げておれば助かった」と言われている裏山にものぼりました。
右 グランドから裏山を撮影。真ん中付近に、津波の高さを示す看板。その上のコンクリート部分(横一直線に見えるところ)から、左の大川小学校を撮影。
大川小学校に避難した住民193名のご遺体もあったと聞きました。
■校舎に残る津波の痕跡
あの日、学校では、川からと陸からの津波が校庭でぶつかり渦を巻きました。校舎2階の4年生教室は、津波の威力で床が持ち上げられ鉄筋がむき出しとなり、想像を絶する凄まじい力が加わった事がわかります。そして2階の天井には、黒い津波の痕がくっきりと残り、校舎を襲った8.6mの津波の高さを物語っています。
■ねじり倒された渡り廊下
目の前にあるのは、校舎と体育館をつなぐ渡り廊下です。コンクリートの柱の根元は鉄筋がちぎれ海側に倒されました。津波の凄まじい威力とあの日の出来事を今日に伝える確かな証です。
■屋根は流され基礎があらわになった体育館
渡り廊下のつきあたりには体育館がありました。屋根は津波ですっぽりと流され、学校から約500m東側で見つかりました。現在は、ステージと倉庫などの一部、床基礎だけが当時の姿をとどめています。
■在りし日の学校
曲線を生かしたモダンな校舎と体育館を結ぶ渡り廊下はガラス張りで、透明のトンネルでつながっていました。入学式や卒業式、運動会といった行事には児童たちが様々な飾り付けを行いました。
中庭は、休み時間には、一輪車や縄跳びの練習場所になります。高学年の子が低学年の子に教えてあげたり、時には、芝生の上でお花見給食を楽しんだりと思い出が詰まった大切な場所です。