2025.6.25

「おばあちゃんの歌」、『核兵器と戦争のない世界をめざす高校生』、東京大空襲の証言に学ぶ [Ⅱ‐429]

1、城間 一歩輝(いぶき)さんの「おばあちゃんの歌」を読む

沖縄全戦没者追悼式で、城間さんが「おばあちゃんの歌」を読みました。何度も読み返しました。

「おばあちゃんの歌」 豊見城市立伊良波小6年・城間一歩輝

毎年、ぼくと弟は慰霊の日に/おばあちゃんの家に行って/仏壇に手を合わせウートートーをする

 

 一年に一度だけ/おばあちゃんが歌う/「空しゅう警報聞こえてきたら/今はぼくたち小さいから/大人の言うことよく聞いて/あわてないで さわがないで 落ち着いて/入って いましょう防空壕(ごう)」/五歳の時に習ったのに/八十年後の今でも覚えている/ 笑顔で歌っているから/楽しい歌だと思っていた/ぼくは五歳の時に習った歌なんて覚えていない/ビデオの中のぼくはあんなに楽しそうに踊りながら歌っているのに

 

 一年に一度だけ/おばあちゃんが歌う/「うんじゅん わんにん 艦砲ぬ くぇーぬくさー」/泣きながら歌っているから悲しい歌だと分かっていた/歌った後に/「あの戦の時に死んでおけば良かった」/と言うからぼくも泣きたくなった/沖縄戦の激しい艦砲射撃でケガをして生き残った人のことを/「艦砲射撃の食べ残し」/と言うことを知って悲しくなった/おばあちゃんの家族は/戦争が終わっていることも知らず/防空壕に隠れていた/戦車に乗ったアメリカ兵に「デテコイ」と言われたが/戦車でひき殺されると思い出て行かなかった/手榴弾を壕の中に投げられ/おばあちゃんは左の太ももに大けがをした/うじがわいて何度も皮がはがれるから/アメリカ軍の病院で/けがをしていない右の太ももの皮をはいで/皮ふ移植をして何とか助かった/でも、大きな傷あとが残った/傷のことを誰にも言えず/先生に叱られても/傷が見える体育着に着替えることが出来ず/学生時代は苦しんでいた

 

五歳のおばあちゃんが防空壕での歌を歌い/「艦砲射撃の食べ残し」と言われても/生きてくれて本当に良かったと思った/おばあちゃんに/生きていてくれて本当にありがとうと伝えると/両手でぼくのほっぺをさわって/「生き延びたくとぅ ぬちぬ ちるがたん」/生き延びたから 命がつながったんだね/とおばあちゃんが言った

 

八十年前の戦争で/おばあちゃんは心と体に大きな傷を負った/その傷は何十年経っても消えない/人の命を奪い苦しめる戦争を二度と起こさないように/おばあちゃんから聞いた戦争の話を伝え続けていく/おばあちゃんが繫いでくれた命を大切にして/一生懸命に生きていく

2、『核兵器と戦争のない世界をめざす高校生』に学ぶ

『核兵器と戦争のない世界をめざす高校生たち 平和集会・平和ゼミナールの50年』を読みました。本書には、高校生平和ゼミナール(以下、高校生平和ゼミ)の活動として、「被爆者の体験を聞き、その継承につとめること」、「学び、調べ、表現する」、「地域を掘り起こす」などの取り組みが書かれています。

たとえば、2001年9月テロ事件、その後の報復戦争、日本の自衛隊派遣について、高校生平和ゼミでは国際法と国連憲章の学習や憲法9条の学習を行い、報復戦争の即時中止をアメリカ大統領に申し入れてほしいと訴える署名運動を行いました。「日本政府は憲法第9条を生かし、戦争とテロをなくすために行動」を求め、「イラク攻撃反対全国高校生平和集会」(1250人の参加)を開催し、声をあげました。

2020年2月、ロシアのウクライナ侵攻に対しては、「軍事侵攻と核兵器使用の威嚇に抗議し、ただちに平和的解決がされるよう世界各国が最大の努力をすることを求めます」との抗議声明を出し、3月抗議文をロシア大使館に渡します。それ以降も学び、「プーチン大統領、すぐに戦争をやめてください!」緊急署名に取り組みます。ロシア大使館近くで抗議集会を行いました。

2023年には、イスラエルに対する抗議行動、イスラエル大使館に抗議文を届けました。ガザにもウクライナにも平和を! 高校生たちは声をあげています。

全国高校生平和集会は、51年間続いています。2024年3月(ビキニ事件から70年)、全国高校生平和集会in焼津2024集会アピールでは、平和のために学習と行動を呼びかけました。それは、

1.被爆者や戦争体験者のお話を聞き、沖縄の現実を学び、「自分事」としてとらえ、核兵器と戦争のない世界をつくるために、私には何ができるか考え、行動をしましょう。

2.「日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准を」高校生署名に取り組み、政府に届けましょう。

3.ウクライナやガザなど世界の紛争をやめさせ、平和な世界をつくるために、いっしょに声をあげましょう。

でした。

本書の中で、高校生平和ゼミ世話人 沖村民雄さん(元桐朋中学、桐朋高校教員)は、「高校生たちは、いじめや不登校などに傷つき、受験競争に翻弄されながら、戦争体験者の証言や沖縄の現実にふれ、学校生活や将来のことについて語り合いながら、生きることの意味、学ぶことの意味を問いつづけてきた。(中略)高校生の活動を支えてきたのは『自分たちにも平和のためにできることがある』という思い、確信である。」と述べていました。

これからも、高校生が「学び、調べ、表現する」ことで自己を成長させ、仲間と連帯し、主権者として育つ姿に学びたいと思います。

 

3、東京大空襲の証言に学ぶ

6月21日(土)、土曜参観を行いました。6年生は、保護者の方と一緒に「東京大空襲」の証言を聞きました。話してくださったのは、竹内静代さん(当時14歳)、元木キサ子さん(当時10歳)、二瓶治代さん(当時8歳)でした。竹内さん、元木さん、二瓶さん、ありがとうございました。

3名の方から、学校としてこのような取り組みを続けていることをこれからも大切にしていってほしいと励まされました。

6月21日、土曜参観より

以下、コラム394「戦争の惨禍」再録

現在、世界では戦争があり、止めることができず、命が奪われ、傷ついています。

戦争について学び、平和を実現したいと強く願います。

(略) 

竹内さんは、『あのとき子どもだった―東京大空襲21人の記録』(東京大空襲・戦災資料センター編、績文堂出版、2019年)に、「「明日」は「未来」であり「希望」です。ここまで歩いてきた73年の道。紆余曲折はあったけれど、とにかく戦争をしないで歩いてきた道です。平和な73年の道程です」と書いています。戦争はしない、世界の平和を実現したいと、竹内さんの「希望」に自分の気持ちを重ねます。

東京大空襲

1945年3月10日午前0時すぎ、東京大空襲がありました。

『あのとき子どもだった―東京大空襲21人の記録』には、

「約300機のB29が東京上空にあらわれ、大規模な空襲を行いました。(略)この空襲は、夜間に、それまでより低い高度(1600~2200m)から大量の焼夷弾をばらまき、人口の密集した住宅地を焼き払うことを目的としていました。」

「3月10日の空襲では、このM69焼夷弾が1538トン、約32万発も投下されました。爆撃していた時間から計算すると、1秒間に30発以上のM69焼夷弾が落ちてきたことになります。この焼夷弾が直撃して亡くなった人もいます。」

「焼夷弾が落とされた時間はわずか2時間半ほどでしたが、それによって発生した火災は、明け方になって、もう燃えるものがなくなってようやく静まりました。この日の死者は約10万人といわれています。家や財産を焼かれた被害者(罹災者)は100万人に達しました。」

「30代くらいまでの男性の多くは軍隊に行っていたので、空襲で被害をうけ犠牲となったのは、女性・子ども・高齢者など、国内(銃後)に残っていた、戦う力をもたない民間人が中心でした。なかには、それまで疎開していたのに、卒業や進学のために東京に帰ってきて命を落とした子どももいました。また、東京で暮らしていた、あるいは働かされていた朝鮮人たちも被害を受けました。4万人余りが被災したと言われていますが、犠牲者の数など、くわしいことはわかっていません。」。

などと書かれ、たくさんの命が奪われました。

3名の方の証言から

竹内静代さん(前掲書に竹内さんが書かれており、参照させていただきました。)は、自身の「子ども時代」の話をしてくださいました。1年生の時の進軍歌、4年生の時の「皇紀2600年の奉祝歌」のお話、「一系の天子」「大内山松の緑」「肇国の大精神」など国史の授業で習ったことばの書初め、修身の時間は声を張り上げて教育勅語を暗唱したそうです。ラジオから鳴り響く軍艦行進曲、軍歌など、アナウンサーは<鬼畜米英><進め一億火の玉だ><国民精神総動員>などと勇ましいことばを発したそうです。

学校、社会が戦争に突き進む日常があったことを知り、その恐ろしさを感じました。

「明日も学校へ行ける。明日も先生や友だちに会える。明日が確実にやってくる。昨日から今日、今日から明日へと普通につづく生活は当たり前だけれど、その当たり前がとても貴重だと思うのです。」(前掲書)と書かれ、「当たり前」を大切にしていきたいと思います。

元木キサ子さんの証言は、本コラム[Ⅱー372](2023年11月)で紹介させていただきました。元木さんは、本校の元保護者で、『私の戦中記 子どもに語る母の歴史』(桐朋学園初等部PTA編集部編、1973年)に「空襲」をお書きになりました。元木さんに許可をとって、全文を掲載させていただきました。

二瓶治代さん(前掲書に二瓶さんが書かれており、引用させていただきました。)は、「仲良しの昌夫ちゃんの死、昌夫ちゃんのお母さん、学童疎開から帰ってきたばかりの昌夫ちゃんのお兄さん、妹、おばあちゃんも亡くなりました。防空壕を出ようとした二瓶さんに「ここにいなさい」と云ってくれたお隣のおばさんご一家も、友だちの久代ちゃんもみんな死んでいました。前の日の夕方まで学校ゴッコや戦争ゴッコなどをして遊んでいた、大切な大切な友達でした。「じゃあ、またあしたネ」と云って別れた友達でした。やさしかった近所のおじさんや、おばさんもどこかに消えてしまいました。/こうしてこの日は私のすぐそばで大勢の人が死んでゆきました。」と述べています。かけがえのない日常が一晩でなくなってしまった悲しみや辛さ、その思いをずっと持ち続けていることを考えます。

日本も戦争で、他国へ空襲を行い、命を奪いました。今回読んだ『東京大空襲を忘れない』(瀧井宏臣著、講談社、2015年)には、「1938年2月から44年12月にかけて、中国の臨時政府がおかれていた重慶とその周辺を爆撃し、200回以上の空襲で2万人以上を虐殺したのです」などと書かれています。これからも調べて、理解していきたいと思います。

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