いま、戦争と平和に向き合うこと [Ⅱ‐437]
9月24日の朝日新聞は、「パレスチナ承認150カ国超」「世界がパレスチナに目を」「国家承認 市民から歓迎の声」などの見出しで、本文は「パレスチナ自治区ガザでの人道危機が極めて深刻化するなか、侵攻を続けるイスラエルに圧力を強める狙いがある」などと書かれています。破壊し、命を奪い続ける戦争。痛み、苦しみ、悲しみ。何としても止めなくてはなりません。
昨年度6年生が広島でスケッチし、ことばを書いたポスター
先週、今年も広島から被爆体験伝承者の山岡美知子さんが桐朋小へ来て、6年生、保護者、教員に話をしてくれました。私たちは、毎年、山岡さんに学んでいます。広島修学旅行では、山岡さん、山口さんをはじめたくさんの方に碑めぐりガイドをお願いしています。
被爆体験伝承者は、被爆者の高齢化が進み、被爆体験を話される方が少なくなってきている中、将来にわたり被爆者の体験や核兵器廃絶と平和への思いを語り継いでいくことが必要であることから、広島市が2012年度から開始した「被爆体験伝承者」養成研修に参加された方です。山岡さんは、その1期生。2008年から原爆ドーム周辺で被爆の実相を伝えるボランティア活動をはじめ、被爆体験伝承者としては2015年から活動をされ、全国の学校、桐朋小へ来てくださっています。皆さんのところへもぜひ!
9月22日、広島から山岡さんが来てくださいました
ここからは「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー 受け継ぐVol. 14」(2018.5.17)での山岡さんのことばにも学んで書いてみます。
山岡さんは、ピースボランティアとして平和記念資料館や平和公園をガイドし、被爆体験伝承者1期生として国内外の人たちに被爆の実相を伝えて続けています。
山岡さんは、ボランティア活動を始めて、被爆の実相について勉強をすればするほど、詳しい情報が知りたいと思うようになりました。今回のお話も、ご自身が学びを深め、より詳しい内容をわかりやすく話してくださいました。山岡さんは、知れば知るほどこれは後世にきちんと伝えていかないといけないという気持ちになり、戦争や歴史についても自分がしっかり学んで考えておられます。
山岡さんは、伝承者は客観性をもって正しく情報を伝えていくことが重要であると考えて、例えば「原爆による熱線は3000-4000度です。鉄の溶ける温度は1500度。皆さん考えてみてください。どのくらいの温度だったでしょうか。」…と、ここで話を止めません。聴衆の想像にお任せしてしまうことになることをせず、「熱線が出た時間は0.2~3秒。一瞬です。熱線があたっていない場所はやけどにはなりません。」と、事実を伝えていこうとされています。
新しい情報をインプットするために、広島に関することが書かれた新聞やインターネットの記事には常に目を通すようにしているそうです。ただし、掲載されている情報は鵜呑みにせず、最終的に自分が調べたことを資料館の学芸員などに確認をしていただき、自分の話に取り入れるように心がけておられるそうです。
ご自身は体験をしておらず、被爆体験を聞くだけで、被爆者の想いまで継承できているのか不安になることがあるそうです。話を補うために、伝承活動で使う資料の中に被爆者ご自身が描いた絵を多く取り入れています。今回もたくさんの絵を見せてくださいました。私は一つひとつの絵にとても心をゆさぶられました。山岡さんは、その絵を通して被爆者の想いを感じ取っていただけないだろうかと考えています。
「私はこれからも、無差別にたくさんの方が犠牲になった原爆の事を原爆ドームの前で伝えたいと思っています。」 [Ⅱ-174]を再掲載
今年の修学旅行も、被爆証言の会の山岡美知子さんたちに平和公園碑めぐりをお願いしました。たいへんお世話になりました。以前に、山岡さんが教えてくださったことを本コラムに掲載させていただきます。
原爆ドームの前で
被爆2世 山岡 美知子
最初に、私が原爆ドームの前で英語ガイドを始めた理由を述べたいと思います。私は7年前主人を亡くしました。二人の子どもはそれぞれ結婚して家庭を持っていました。私はそれまでの自分の人生を振り返り、その後何を糧にして生きたら良いのかを考えていました。ちょうどその時、友達に平和公園でガイドをしないかと誘われて、ガイドのようなことを始めました。
私は広島で育ちながら、両親が被爆者で母の妹が原爆で亡くなったこと以外、原爆についての知識は全くと言っていいほどありませんでした。
学生時代、私は英語が大嫌いで、英語からは完全に逃げていたように思います。広島平和記念公園には、驚くほど多くのの外国の方が来られていました。私は英語できちんとガイドをしたいという思いを抱くようになりました。しばらくして、毎日英語でドームの前でガイドをしていた、
胎内被爆者で元高校英語教師の三登さんと出会いました。この出会いをきっかけに、英語の勉強も少しずつ始めましたが、なかなか思うようにいかず、何度かやめようと思いました。でも、原爆のことをあまりよく知らないままでガイドをスタートしたのですが、私のぎこちない英語での説明でも一生懸命聞いてくださるので、ガイドを続けることができたのです。しかしある日、外国の方に、「家族に被爆者はいるのですか」と尋ねられました。「います」と答えると、「なぜその事を伝えないのですか」と言われ、私ははっとしました。それ以後は必ず母の被爆体験を話すようになりました。
さて、英語が大嫌いな私がなぜ英語で被爆の実相や母の被爆体験を説明することができるようになったかを述べます。最初は中学校で習う基本的な文法、例えばbe動詞と一般動詞の違いや受動態さえもわからない状態でした。何回も同じ文を音読して、ただただ覚えるだけでした。質問されても聞き取れず、意味も分らず、笑ってごまかしていました。これではいつまでたっても前に進まないと思い、聞き取れない質問は紙に書いてもらい、三登さんにその質問の意味や答えを英語で教えてもらいながら、ガイドの勉強を続けました。最初は、簡単な英単語で説明していましたが、適切な単語を使わなければ、伝わらない事がわかり、難しい単語も覚えるようにしました。そうするうちに、外国人のあらゆる質問に答えたい、英語で私の思いをきちんと伝えたい、ここ広島で起きた事を説明して核兵器の恐ろしさを伝えたいという思いが強くなってきました。この思いによって、英語が上達していったのだと思います。学生時代には、英語は私にとっては入試のためだけのものでしたが、今では自分の思いを伝える大切な道具になりました。
パソコンもできない私でしたが、原爆のことを伝えたい気持ちが人一倍あり、今でも夜遅くまで、パソコンや英語の勉強を続けています。パワーポイントを使って母の被爆証言ができるようにもなりました。
この7年間で約90カ国、1万人の外国の方に原爆の実相や母の被爆体験を伝えていました。来年4月の末には、2015年NPT再検討会議に出席のためにニューヨークへ行きます。初めての参加ですが、原爆のこと母の被爆体験を伝えたいと思っています。
私は英語でガイドを続けて本当によかったと思っています。もし一人でガイドをしていたら、今日まで続けることはできなかったでしょう。10人のガイドの仲間がいたからこそ続けられたと思うし、三登さんが私の英語の支えになってくれたことに感謝しています。ガイド仲間からは、一人では得られないような原爆に関する情報や最近の世界状況について、得ることができました。今でもお互いに情報を交換して研修をしています。
私は広島市の被爆体験伝承者の1期生です。3年間の研修を終えて、来年度から被爆体験伝承者として広島市から委嘱されて、被爆の実相や母の被爆体験を日本語と英語で話をします。被爆体験のない私ですが、被爆者の思いや、被爆の実相をきちんと伝えたいと思っています。
次に私の母の被爆体験をお話します。母と母の妹は親元を離れて、爆心地から3.5km離れた所で生活していました。母は20歳、妹は中学1年生でした。
8月6日の朝、母の妹は爆心地から1,2kmで行われる建物疎開作業に行きました。原爆が爆発した時、家の中にいた母は爆風で飛ばされて気を失いました。時間ははっきりと覚えていないそうですが、気がついて外へ出て見ると、あちらこちらからうめき声が聞こえました。広島市の中心を見たら、黒い煙でおおわれ、火災がいたる所で発生していました。中心部から沢山の人が逃げてきていました。その様子はお化けのようだったそうです。ほとんどの人は、何も身に着けておらず、中には腕の骨が見えている人もいました。皮膚も肉も全部ぶらさがっており、「助けて、助けて」と言いながら避難していました。体は、すすで真っ黒になって、皮膚はまるでボロ布のように下がっていました。母の眼の前で何人も何人も倒れて亡くなったそうです。「怖かった!本当に怖かった!」と母は言っていました。母は帰ってこない妹が心配でたまりませんでしたが、火事のために市内中心部に入る事は出来ませんでした。その日の夜も、市内は赤々と燃え続けました。
母は、今でも赤く染まった夕焼けを見るたびに、原爆の事を思い出すそうです。母だけではありません、多くの被爆者が、ふとした時、あの場面、あの状況を思い出すそうです。今でも、原爆ドームを見たくない、平和記念公園に行きたくないと言う被爆者もいます。
次の日には、火災はほとんど収まっていました。爆心地から半径2km以内は幾つかのコンクリートの建物を残しほとんどの木造建築は爆風で壊され、そのあと発生した火事で焼け野原になりました。母は帰って来ない妹を捜すため、市内中心部の建物疎開現場に行きました。市内中心部は瓦礫と死体でいっぱいでした。その恐怖の中で妹を必死で捜しましたが、あまりにも沢山の死体で、足が前に出なかったそうです。死体を素手で起こしては顔を確認し、その当時胸に名前・住所を書いた布を服に縫いつけていた名札を目当てに、妹を捜したそうです。母だけではありません。皆、家族や友人を必死に捜していました。焦げた死体に白く光るものがあるので近づいて見ると、ウジ虫だったそうです。まだ生きている人の傷口にもウジ虫がわいていました。母は、焼け野原になっている市内で、偶然にも娘達を捜している父親に会ったそうです。父親は、母の無事な姿を見て本当に喜んだそうです。二人は別々に妹を捜しました。
母の足元で「水、水」と助けを求めて、かすかな声でじっと見つめる被爆者の姿は、忘れたいけど忘れることができないと言っています。水をあげると、ショック死するから与えないで、と言われていたそうです。「水をあげればよかった!」と、いつも母は涙を流して私に言います。「助ける事もどうする事も出来なかった。何にも出来なかった」とも言っていました。
母は、あちこちで死体が焼かれている市内を、妹の名前を呼びながら捜し歩きました。死体を焼く臭いは、本当にくさかったそうですが、人間って不思議なもので、少しずつその臭いに慣れたそうです。そうするうち、母は妹が通っていた学校の生徒は広島湾に浮かぶ似島に運ばれたという話を聞きました。戦争中、似島は検疫所があったので、たくさんの被害者が似島に連れて来られたそうです。8日、ようやく島にいる妹を見付けて自宅に連れて帰りましたが、2日後に亡くなったそうです。
母は、家の近くの空き地に穴を掘って妹を火葬しました。そのため、お墓の中に遺骨を納めることができました。親戚の人が、「あんたの所はいいね。うちのお墓の中には、遺骨が入っていない。原爆死と書いているだけよ」と言います。このように、広島のお墓には、遺骨が見つからないために何も入っていないお墓がたくさんあります。どこでどのように死んだのか、いまだに分からないのです。
今、平和記念公園になっている地域は、当時は約4,400人が暮らしていた町でした。それが、一発の原爆で人々はほぼ全滅し、町は焼け野原となりました。戦後、そこに土を盛って、平和記念公園が造られました。地域内にあった大きな遺骨は原爆供養塔の中に納められていますが、小さなお骨はまだ公園の下に眠っているそうです。そういう意味で、平和記念公園は大きなお墓だと私は思っています。よく広島はきれいに再建されたね!と言われますが、まだどこかで遺骨が眠っているかもしれません。広島は、まだまだ犠牲になった方の想いが残っている場所だと思います。
施設に入っている89歳の母は、今は話ができる状態ではありませんが、「広島は地獄のようだった。表現する事はできないし、その情景をみた人しかわからないだろう・・・・」とよく言っていました。
「過去を振り返らない者は、同じ過ちを繰り返す運命にある」という言葉があります。多くの人々が、戦争で亡くなり、傷つき、苦しみました。取り返しのつかない過去の失敗を繰り返さないためにも、「歴史を勉強し、過去をふり返ること」は大変重要な事です。
私はこれからも、無差別にたくさんの方が犠牲になった原爆の事を原爆ドームの前で伝えたいと思っています。