2025.12.4

スキージャンパー 内藤智文さん [Ⅱ‐447]

 桐朋でともに過ごした人が、卒業後にどんな人生を歩んでいるか。その歩み、そして現在から、たくさんのことを教えられ、学んでいます。

 朝日新聞のスポーツ欄に「W杯情報」が掲載され、そこに初等部出身の内藤さんの名前を見ます。

 11月29日、朝日新聞朝刊には、「公務員ジャンパー 五輪が夢の着地点」、「32歳 意地でつかんだW杯切符」、「コロナ下で解雇 飛び続けるための選択」の見出しで、内藤さんの記事が書かれていました。

 記事は、「夢か、安定か。/両立が難しいのは知っている。それでも、スキージャンプの内藤智文はどうしても、二つを同時に追いかけてみたい。」からはじまって、困難にぶつかりながら二つを両立しようと、同時に追いかけている様子が描かれていました。

 「五輪が近づくにつれ、代表争いは激しさを増している。この夏、サマーグランプリの代表に内藤は入れなかった。/それでも、あきらめない。」、「五輪派遣基準を突破していないし、やることは多い。が、派遣基準をクリアすれば、あとはW杯ポイントの争いになる」/静かに、しかし情熱を胸に。夢はあきらめない。」など、彼らしいなと読みました。

 ここまでの道のりは、「正社員として働いていたが、2020年秋、コロナ禍の影響で解雇された」、「スポーツ技術員として働きながら、五輪の夢を追ってきた。ただ、立場は短期契約。「安定」は遠かった」など。歩み続けている。そして、今回、五輪代表に選ばれようと。「『人生の大勝負』と言われると、ちょっと。ただ、期待に応えたい気持ちはある。強い思いで臨んだら、たぶんうまくいかないと思っているので、気持ちを押さえて、という感じです」という。

 記事には、「W杯への切符をつかんでみせたのは、エリートではない現実に対する「意地」でもある。「練習できないのはしょうがない。もちろん、した方がよいですけど。全然練習できなくとも、ある程度は飛べる」「一度決めたことは、最後まで貫く性格だ。だからこそ、どれだけ苦しくても歯を食いしばって、飛び続けてきた」などと書かれていました。

 内藤さんのジャンプとの出会い。記事に、「東京都調布市出身。ジャンプとの出会いは、1998年長野五輪だった。両親に連れられ、原田雅彦らの大ジャンプで日本が団体金メダルをつかむ瞬間に立ち会った」ことが書かれています。幼稚園時代、長野オリンピックでジャンプを見たこと、それから小、中学生でジャンプをし、その後も歩み続けます。

 内藤さんが小学生の頃に見せたねばり強さ、うちに秘めた思い、ご家族の支えを思い出します。

 

 2021年『桐朋教育』(桐朋教育研究所発行)でインタビューをさせていただいた時に、「社会人になって大きかったことは、練習の計画や方法などをすべて自分で立てなければならないということです。また、自分だけでなく、多くの人の期待を背負って取り組んだことも大きかったです。フルタイムで仕事を持ち、時間の制約の中で競技を続ける。何を大切にするか、どうすれば無駄を省けるか、真剣に考えました。それが自分を高めることにつながったのでしょう。」と、自身に向き合い、まわりの願いを受けとり、成長し続ける姿に、私はとても感動しました。

 そのインタビューの最後には、「オリンピックだけでなく、もう一つ大きな夢があります。それは世界で一番大きなジャンプ台で飛ぶことです。ワールドカップでは二百五十メートルのジャンプ台もあり、そこで飛ぶことが小学生の時からの夢です。」と、大きな夢を語ってくれました。

 もうすぐその夢をかなられると思うと、ワクワクして、応援を続けます。すごいなあ、智文さん!

 

 今度、トライアスロン 高橋侑子さん(桐朋小出身)のことを書いてみたいと思います。

一覧に戻る