2026.7.7

お世話になった先生方から [Ⅱ‐466]

 6月、ご退職された教職員の方の集いに参加しました。お会いし、お話して、たくさん励まされました。ありがとうございました。

 先輩方より、「他校と違う、独自性を。その良さをさらに追求して!」「しぜんひろばに行ったら、カワセミがいたよ。これからも自然を大切に!」など言っていただき、嬉しい時間でした。現在を大切に、未来を築いていこうと思います。

2階に張り付いていたクワガタを見つけて、落として捕まえたんだ! 

 これまでをともに過ごし、励ましてくださった先生方のメッセージに勇気づけられます。背筋が伸び、このような生き方をしたいと思います。

『あかるい日本つくろうよ♪』〈初等部のうたより〉

 年が明けて間もなく、ある記事が目に留まりその映画を見に行きました。『女性の休日』です。1975年10月24日にアイスランドで全女性の90%が参加して行われた女性のストライキをアメリカ人映画監督がドキュメンタリー映画にしたものです。

 16年間ジェンダーギャップ指数世界1位(WEFによる)のアイスランドにも、その始まりの日があったわけで、黙っていて自然に1位であり続けているのではなかったのです。2025年は50周年ということで、日本でも3月8日の国際女性デーにかけて様々な団体が全国各地でイベントやアクションを展開しました。

 毎年ジェンダーギャップ指数が下位の日本は、女性首相、女性都知事を擁してはいますが、賃金格差、雇用状況、(家父長制における)家事・育児・介護、ハラスメント等々、女性が安心して生きていくには程遠い社会になっています。

 学生時代に「女性論」をかじった者としてはこの現実を前に1人の人として、女性として、教員として、母親としてするべきこと、できることは何か、と問い続けています。

 私達の学園でも、この間、女性初の役職者が選出されました。初等部でも様々な多様性の教育に取り組んできています。学園で生活する園児・児童・生徒・学生の皆さんに、授業や生活のあらゆる場面ですべての性の大人がお互いの生き方を大事にしながらフェアに関わり、共に働く姿を感じ取ってもらえたら、次代があと一歩豊かになれると思うのです。

 この度、次の道を目指すことに致しました。これも男女雇用機会均等法世代の1つの生き方へのチャレンジと自負しています。

 立場や生活の場は変わっていきますが、引き続きご縁のあった皆さまと共に「みんなの幸い」について考え続けていきたいと思います。

   PTA代表委員の皆さん、ありがとうございます

 内外の政治情勢から経済や社会、教育や文化のあらゆる部面が大きく揺らいでいる現代。決して大げさでなく、本格的な戦争の時代の前ぶれのような、世界が未曽有の危機下にあることは誰もが感じているところです。

 国家の論理に回収されない「市民」という自覚的目線がことのほか大切な時代だと考えます。

 学園の歴史をひも解けばわかるように、桐朋女子は前身の山水高女時代も含めて、「戦争と平和」の昭和という時代が作った学校です。2024年1月、多摩の全26市が、平和文化振興に向けた共同宣言(平和宣言)を発表しました(平和首長会議議長(広島市長)の呼びかけに賛同した「多摩26市平和ネットワーク」=国内初の自治体間平和ネットワーク名による)。中でも桐朋学園のある調布市は、いち早く「非核平和都市宣言」を制定した自治体です(1983年)。中略

 このような時代だからこそ、私学である桐朋学園には調布市や多摩26市平和ネットワークと同様の理念を再確認し、協働し、国家に徒に回収されない「市民」という目線を明確に堅持しながら、健全で良識ある教育活動につとめていただきたい、と願っております。中略 

 この国の社会や教育や文化がどうなってゆくのか、過去をふり返り想像力を働かせることが今、何よりも大事です。「歴史は繰り返さないが同じ韻をふむ」(M.トウェイン)。

 今から81年前、縁故疎開先の広島で、若いいのちを原爆により断ち切られた15歳の山水高女生のことを、先の「桐朋教育」57号で紹介しました。先日、2026年度新執行長に選任された●●さんが、仙川キャンパスの被爆桜の由来(広島市爆心地から2キロ圏内の安田女子高校より寄贈のソメイヨシノ2世)について、生徒会誌「思奏」に書いて紹介してくれました。(Ⅱ‐458参照)

 女子部門・男子部門・音楽部門を問わず、私学である桐朋学園がもっとも大切に守らなければならない不変の校是は、こうした歴史の積み重ねに由来するものです。皆さまと思いを共有できますように。

*広島で亡くなった山水高女生徒のこと  戦況が厳しくなり、動員のために勉強もままならぬ中、故郷や親族のもとに転向する生徒が連日のごとく増えてきた。鈴木信子さん(一年菊・二年藤・三年楓組)もそのようなお一人で、四月に故郷の宮島に戻り、広島市内の学校に転校されてすぐ、原爆によって若い生命を失ったという悲しい記録が残る。長く寮にいて先生方に可愛がられ、相良校長〈山水高等女学校の初代校長、相良達夫氏〉時代の「針供養」という学校行事を楽しんだ記録がある。温和な性格を伺わせる「祖母のこと」と題した作文が「山みづ」に遺されている。『桐朋教育』№57 特集「学園史資料との対話」41ページより

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