親子で学ぶ [Ⅱ‐476]
6月土曜参観、6年生は親子で東京大空襲の体験を聞く機会をもちます。お話をされた竹内さん、元木さん、二瓶さんと出会い、戦争によって、傷つき、命が奪われ、苦しみ、悲しむ人たちがいたことを知ります。東京という地域でも戦争があり、その事実を知ります。親子で体験を聞いて、少人数グループで感想や意見を聞き合うことで、さらに考えます。
子どもたちにとって、目の前に、81年前の東京大空襲でたいへんな経験をされた人がいます。その人の顔を見て、その人の声、様子などを通して経験を聞いて、心揺さぶられたようでした。
親子の少人数グループでの交流、お互いに思ったことを聞き合います。友だち、親の気持ち、考えを知ります。自分の願いを相手に伝えるために、考えます。/お互いの話を聞いて、交流する中で、新しい自分がつくられていくのではないかと思います。
写真はすべて、一昨日のしぜんひろばで柿とりをたのしんだ時の様子です
〇竹内さん(1931年生まれ、被災年齢14歳、被災地江東区北砂町) 子ども時代、学校のこと。空襲の激しさと二度の被災などを話してくださいました。
〇元木さん(1934年生まれ、被災年齢10歳、墨田区菊川) 学童疎開のこと。空襲のこと。戦災孤児として生きたことなどを話してくださいました。
〇二瓶さん(1936年生まれ、被災年齢8歳、江東区亀戸町) 3月10日未明のこと、焼け跡に立った時のこと。妹さんのやけどのことなどを話してくださいました。
ご自身の声で、ことばで、直接話してくださることや、写真や焼夷弾など資料も見せていただいて、体験とつなげられて、たいへん心に響きます。
*竹内さん、元木さん、二瓶さんは、いろいろな場で証言をされています。『あのとき子どもだったー東京大空襲21人の記録』東京大空襲・戦災資料センター編、績文堂出版、『東京大空襲を忘れない』瀧井宏臣、講談社などに体験をお書きになっています。二瓶さんについて書かれた絵本もあります(Ⅱ‐465参照)。

親子で話を聞き、感想を交流する。そしてまとめる
子も親も自分の気持ち、考えを出して、聞き合うことで考えを深めています。まとめることで、振り返り、自身の考えに気付きます。グループでの話を聞き、まとめを読ませていただいて、私自身が子どもたち、保護者の方よりたくさん学ばせていただきました。ありがとうございます。
◇Aさん ―そもそも戦争は怖すぎるから、オレなら一瞬で疎開しに行く。あと、元木さんは、よく戦争のことを話せるのは、スゴイと思った。オレなら、トラウマになって、話せなくなりそう。生きたまま焼かれていくなんて怖すぎるヨ。/親がいないとなったら、めっちゃ悲しいと思う。
Aさん親 ―お話の中で特に心に残りましたのは、国が戦災孤児を家畜のように「1匹、2匹」(「上野駅での浮浪児の数えられ方が1匹、2匹と物扱いされていたことは存ぜす」他の方も発言)と呼び、裸にして牢屋に入れて収容したというお話です。
軍人の方々は孫まで恩恵を受けられるのに、戦災孤児に対して国が行ったことは大きな声で語られることがなく、国を訴えていた人たちも亡くなってしまっているという現実に胸が痛みました。中略
戦争はない方が良いに決まっていますが、戦争をビジネスと考えて積極的に行おうとする動きがあることも知った上で、子どもたちの生きる世界を守るために私たちにできることを一つ一つ考え合っていきたいです。
私事ですが、私の他界した父は戦争中B29に追いかけられ、隣を一緒に走っていた親友を失った経験をしていました。また祖父は戦後3年間シベリアに抑留されていましたが、命からがら逃げ出し、貨物船に飛びのって日本に帰国したそうです。今つないでもらっている命は戦争を乗り越え、様々の苦難から生きのびた祖父の大切な命であること、それを息子たちにつないでいること。これは家族でも話していることなので、この命の使い方を、これからも大切に考えていきたいです。
◇Bさん -戦争後の子どもたちが、戦争孤児となってしまったのが悲しいです。うろうろして、スリをしたり、食べ物を盗んだりしていた、というのが、かわいそうです。なぜならば、その戦争がなければ親がちゃんといて、食べ物にも困っていなかったはずです。
その戦争では、多くの皆の幸せを奪ってしまったと思います。そして、1匹、2匹と、子どもを数えられることも、つかまえられて衛生や環境の悪い所に裸で入れられることもなかったと思います。でも大人も結構余裕がなかったと思います。食べ物もまだ少ないし、 自分も死ぬかもしれない、となったら、余裕がなくなる。それで1人、2人とは数えられなかったのでは? と思っています。皆の余裕があったら、1人、2人と呼ばれていただろうに。子どもを保護するとしても、環境のいい所でなければ、病気で死んでしまったりするのでは? どうして保護した所の環境がよくなかったのであろうか? と疑問に思っています。
Bさん親 -前略 私の祖母は東京大空襲の日たまたま高等女学校受験のため広島から上京しており四谷の方に宿泊していたそうのですが、あの夜は眠れず火中にいる人たちが無事であるよう祈っていたと言っていました。その後広島へ戻り被爆をしたわけですが、東京の空襲も同じくらい人が亡くなり、風向きや地形を計算して逃げ場をなくして焼き殺すという非人道的なものなのに、広島長崎と同じほど知られていないのはおかしいと申しておりました。核兵器は廃絶派の波を感じてきておりますが、人類は核によらずとも戦略的に一夜にして核とほぼ同数の人々を大量虐殺した親のいない子どもたちをつくってしまったということに向き合わなければならないと感じました。体験をお話されるのも色々と思い出されてお辛いと思いますのに、大変貴重な機会をありがとうございました。全て生き延びてくださったからこそです。後略
◇Cさん -想像を絶する。死体の山が目の前にあるのに、何も怖さを感じなくなっていたのは、それ程すごい状態だったんだろうな。/戦争が起こる前は、色々恵まれてたけど、戦争が起きて親が死んで売られたりした話を聞いて、戦争が起きたせいで環境が一気に変わって可哀想だと思った。
Cさん親 -前略 ご両親と一番下の弟さんを亡くされた後、祖母の家で女中のように働き続けていたことや、「なぜ一緒に逃げなかったのか。だからお母さんが死んだのだ」と祖母に言われたことなど、大切な家族・頼る親を亡くして辛い経験をされた上で、さらにとても大変な生活や苦しい思いを強いられたことに胸が痛みました。また、教師が生徒を「低能」と呼んだり、戦争孤児が「浮浪児」と呼ばれたり、人間である子どもたちを「1匹、2匹」と数えたり、人身売買の対象にされたりしていたというお話からは、今では考えられないような子どもたちの置かれた厳しい現実を知りました。
戦争によって、日本全体が苦しい状況にあり、大人たちにも余裕のない時代だったのだと思います。しかし、その中で子どもたちの存在や尊厳が軽んじられていたことを強く感じました。
平和な社会でなければ、子どもを守ろうとする意識や、そのための余裕を持つことは難しいのかもしれません。今回のお話を通して、これからの未来に向けて、私たち大人が果たすべき役割は、平和を守り続けること、そして子どもの権利と尊厳を守り抜く強い意志を持つことだと感じました。後略
◇Dさん ―防空壕に男の人は入れなかったと話されていた。それは平等じゃないし、当時の国民も男の人も入れるようにしてほしかったと思う。二瓶さんは自分で描いた空襲が起きて人々が逃げてるところの絵を見せてくれながら話してくれた。二瓶さんは当時8歳でそこらじゅうに焼けた死体がころがっているのを見てよく耐えれたなと思った。/戦争は勝っても負けても、多くの人が死んでしまうわけだから、良いことなんて一つも無いと思った。
Dさん親 ー3月10日の0時過ぎに焼夷弾が落ち始め、たった5時間には、東京下町一帯は焼け野原になっていたと話されていた。焼夷弾の残忍さと無差別に多くの人たちが殺された戦争の恐ろしさを改めて知りました。
私自身は小倉市で生まれ育ちました。長崎で投下された原子爆弾は小倉が第一目標だったので、「天候が良く、小倉に落ちていたら、生まれてなかったよ」と、よく祖母が話していて、原爆は決して他人事ではないと聞いていました。息子とは、今のあたり前に感謝をして、平和の尊さを忘れていけないねと話しました。
◇Eさん ―戦争、当時はすごく暗い時期で、悲しいと思いました。それプラスに子どもたちが戦いごっこをしていたということに私はすごくびっくりしました。私は小さい頃戦争はいけないものだと思っていました。でも当時本当に戦争を体験している子どもたちは、ごっこを作り、しかも軍人や看護師になるのを憧れていたなんてびっくりです。
あと思ったのは、3~6年までの子たちは国の決めたところに行くのに、なぜ1、2年生はだめなのだろうです。なんなら小学生という前提にすればいいんじゃない? 場所がないから? お金がないから? なぜかは分からないけど、おかしいと思いました。
日本はすごいアメリカに攻撃されてすごい何万人も死んだと強調しているけど、日本はもっとひどいことを他の国にやっていたのはどうなの? しかも本当はアメリカはビラを配っていた。それを触ってはいけないというのはおかしい。日本は自分の国の人々に死んでほしかったの? 当時の日本の政治の人たちはほんとうに間違っていたと思う。
Eさん母 ―娘にとって戦争の中で生活していた二瓶さんの話は、信じがたい事の連続だったようです。特に当時の人はなぜそう考えたんだろう、という疑問だらけでした。
戦争が勝手いると信じなければいけいなこと、戦死は名誉な事で子どもが戦いごっこ、看護師ごっこを楽しむ事、防空壕に男が入らない事、飛行機からビラがまかれ(日本は負けるから降伏して逃げなさいと書かれてある)それを拾ったら逮捕されることなど。同じ人でも生きている状況によってすっかり変わってしまうんだろうなと思いました。
◇Fさん -ぼくが竹内さんやみんなの話を聞いてもっとも思ったことは、戦争はやはりとても悲惨なものだということです。/竹内さんは短い時間でたくさんのお話をしてくださいましたが、ぼくが一番驚いたのは、焼夷弾のことです。実際の焼夷弾の大きさも初めて見たし、それが蜂の巣状につめられて325万発も2時間の間に東京の限られた地域に落とされたなんて、とても恐ろしいことだと思いました。もしも自分だったら、とても生きてはいられなさそうだし、家族の命も失くなるかと思うと、胸が痛くなりました。
交流の時に、Hが「恐ろしい思いをすると、人は感情がなくなってしまうという事が印象的だった」と言っていた。ぼくは感情がなくなったことはないけれど、もし、ぼくの友だちや家族が亡くなってしまったり、見たこともないような風景を目の当たりにしたら、ぼくも心がなくなってしまうかもしれません。
竹内さん、ぼくたちのためにたくさんのお話をありがとうございました。あの時何があったかをぼくはこれからも勉強していきたいと思います。
Fさん親 -3年前の夏、息子たちと東京大空襲・戦災資料センターに足を運び、その時に焼夷弾の不発弾が当たった痕が残るピアノを目にしました。ポツンと置かれたピアノでしたが、その傷ついたピアノが80年あまり前の3月10日、夜のすさまじさをありありと語っているようで、とても印象に残っていました。
しかし、今回、実際に竹内さんのお話を聞くことができ、その当時を生きていた方々の日常や生活を改めて肌で感じることができたように感じました。
当時の装い、流行していた歌、共に生活をされていた近しい方々のこと、そして一度しかない十代を生きていらした竹内さんの少女の思い、一つ一つのお話に心打たれました。息子も目に涙をうっすらと浮かべてお話を聞いていました。
今日の日のことは親子でずっと忘れません。後略

戦争の話を直接聞くのははじめてという保護者が増えています。子も親もはじめて戦争の経験を直接聞く、子親でともに学ぶ機会を持つ、はじめてのことに対して子親で語り合うことになります。
保護者の方の中には、戦争にかかわる話、記憶がこの機会に呼び覚まされ、それを伝えようとされることも起きます。
