歴史学習で「加害」もとりあげて [Ⅱ‐477]
10月下旬、6年生は広島修学旅行に行きました。3~4日目、竹原市の大久野島で活動をしました。
(1)「私ももっとたくさんの人に、日本の加害の面を知ってほしいと思いました」
大久野島で、山内さんから戦争における「被害」「加害」についてのお話を聞きました。太字は、子どもたちの感想です。
私が、山内さんのお話で心に残ったことは、「日本の加害の面も知らないと、本当の意味で戦争を知ったとは言えない」という言葉です。/以前、前の六年生が書いた「平和ポスター」に、「日本は被害ばかり主張する」という言葉が書かれていて、それを見てドキッとした時と同じような気持ちになりました。
確かに平和記念資料館などの被害を訴える施設にはたくさんの人が来るのに、それに比べ、大久野島はあまり知られていないと感じます。かくいう私も平和学習を始めるまで大久野島という単語を聞いたことがありませんでした。
日本の加害の歴史は、被害と同じか、それ以上に目をそむけたくなる事実なのかも入れません。私ももっとたくさんの人に、日本の加害の面を知ってほしいと思いました。この修学旅行で大久野島に行けたことは、本当に幸運なことだと思います。これから五年生や保護者の方々へ広島と大久野島、被害と加害の面を責任を持って伝えたいと思います。
検定教科書*では原爆被害など「被害」について取り上げますが、「加害」のことはほとんど触れていません。戦争と平和に関する資料館には、自分たちが受けた戦争の悲惨さや原爆など戦争被害の資料は展示されていますが、日本の戦争加害のことはほとんど展示されていません。
歴史を振り返れば、国際条約違反である日本の毒ガス加害に関して、日本の戦争責任を裁いた1946年の極東軍事裁判(東京裁判)では、アメリカの意向で裁判にかけられませんでした。日本政府も戦後、その事実を公表せず、その責任を取ろうとしなかったなどがあります。
「非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」と、ドイツ元大統領ヴァイツゼッカー氏のことば。ドイツでは政府が自分たちの犯した戦争加害の罪を忘れないように、強制収容所施設を保存、ナチスドイツに殺害されたユダヤ人ヨーロッパ人の記念碑を誰の目にも触れる場所に作っています。教科書で加害の歴史を取り上げています。
*検定教科書
東京書籍6年歴史編 「空襲で日本の都市が焼かれる」<東京大空襲を経験した元木さんの話>「原爆投下と戦争の終わり」「戦争のぎせいになった子どもたち」。/教育出版社会6 「戦火に焼けた日本」「中国との戦争が始まる」「アジア・太平洋に広がる戦争」<戦争と広がり>欄に「植民地であった朝鮮の人々に対して、名前を日本式に変えさせたり、日本軍の兵士として戦地に送り出したりした」「国内の労働力不足を補うために、朝鮮や中国から多くの人々を日本に連れてきて、鉱山などで厳しい労働にあたらせた」と記述。他「子どもたちと戦争」「沖縄・広島・長崎、そして敗戦」。/日本文教出版社会6 「アジア・太平洋に広がる戦争」「満州事変と孤立する日本」<ナンキンの占領>の写真、解説で「ほりょにした兵士をはじめ、多くの人々の生命をうばいました」と記述。他「空襲で焼きつくされる国土」「戦場となった沖縄」「広島・長崎への原爆投下と日本の敗戦」//日本標準社会科資料集 「アジアの人々が受けた被害」強制連行、創氏改名など、「被害」として書かれている。「被害」「犠牲」という記述。
(2)大久野島 毒ガス製造「加害」「被害」
・1929年~1944年、大久野島で毒ガス製造。製造した毒液は合計約6616トン。
・毒ガス使用は、国際条約違反。
・1937年日中戦争~、中国各地で使用。戦後の調査で、中国で2000回以上使用、8万人以上を殺傷。
・毒ガス製造には13、14歳の中学生や高等女学校の生徒も動員。毒ガスに関係した人が約7500人。
・1945年敗戦後、中国、日本で毒ガス遺棄。
・1946年、極東軍事裁判。国際条約違反の毒ガス使用を裁判にかけなかった。毒ガス使用事実は公にされず。
・1974年黒龍江省、遺棄した毒ガスによる被害。2000年代に、中国の子どもたちへの被害。
・1997年、化学兵器禁止条約発効。日本は中国に遺棄した毒ガスを廃棄する義務。
山内さんのお話の感想から。
〇毒ガスを製造するために大久野島へ行ったのは、男の人だけではなかったと初めて知りました。子どもたちも働かされて、すごく辛い思いをしたと思いました。それに加え、両親にも苦しみを与えていてひどいなと思いました。しかも小学生も畑や山に行って働いているとはびっくりです。もし私が戦争の時生まれていたら、私も働いていたかもしれません。そう思うと辛いし、嫌だなと思います。しかも子どもたちは秘密を守るのも辛いのに、毒ガスを作るのは危険な仕事だった。防毒着を着ても、被害がある毒ガスなのに、皮膚が膨れあがったりしていた。私がその被害を受けていたら耐えられないと思います。後略
〇毒ガスを使ってはいけないのに、どうして使ったのだろうと疑問を持っています。どうしてウソをついたのだろうかと。日本は毒ガスを中国などの国に埋めたりしてきて、後で何も知らない子たちが見て、触って毒がついてしまったらどうしようと考えなかったのかな? あとで被害を受けた人たちがかわいそうでした。/何も知らされずに、毒ガス工場に来た子どもたちもかわいそうです。口止めをされて、何も話さなくなり、お母さんたちが心配するのも無理はありません。私もその母親だったらものすごく心配するに決まっています。後略
〇前略 特に子どもたちも働かされ、やったことを誰にも言えず、苦しんでいた子がいたことが辛かったです。また、働いている人たちや働くために勉強している人に、「毒ガスは苦しまないで死ねる。良い兵器なんだ」と教えられていたことがひどいと思いました。後略
〇前略 山内さんのお話の中で一つ新視点が見つかりました。それは毒ガス工場で働いている家族のことです。家に帰った自分の子どもが暗い顔をして何も言わなかったら、親からすればきっとすごく心配だと思うし、不安だと思います。でも子どもも何も話せないからきっと苦しいだろうな~と思います。後略
〇日本は大久野島で毒ガスを製造していたことは知っていましたが、6616tも毒ガスを製造していたことは知らず、中国に2000回以上も毒ガスを使用したことにはとても驚きました。そして、毒ガスの製造員は完全に安全な装備をしていなかったため、製造員にも被害がたくさんあったなんて全く知らなくて、戦争(毒ガスをつくること)をすることは、本当に被害が大きく二度と使用してはいけない兵器だと改めて思いました。後略
〇大久野島については、ニュースで可愛いうさぎがたくさんいて、観光客に人気があること、昔悲惨な毒ガス工場があったことは知っていたけれど、実際にその島に行ってみて、山内さんからお話を聞いたり、資料館に行ったら、全く別の場所に来たのではないかと思うほど、残酷で悲しい話ばかりでした。/化学兵器は、子どもやお年寄りなど民間人にも大きな被害を出し、敵ばかりではなく、味方である製造している人の健康も大きく害していて、その後遺症は今も続いていると聞いて、本当に悲しくなりました。回収しきれていないたくさんの残骸も、まだ中国に眠っているとも聞きました。戦争が終わって80年以上の時が経っても、人を苦しめ続けているなんて本当に恐ろしいことです。/ウクライナや中東は、戦争が終わった後同じように苦しむのかな、今後どうなるんだろうとも考えました。
感想を読ませてもらうと、子どもが働かされていたこと、大久野島での「毒ガス製造・秘密」を話せず苦しんだこと、子どもの様子を家族が心配したことなどに、たくさんの人が心を動かして、心を寄せていることがわかりました。

(3)「加害」に向き合い、謝罪する人がいた! それは、平和を紡ぎ出す、希望
大久野島で製造した毒ガスによって、特に中国の人たちを苦しめ、悲しませたことや、戦後も毒ガス兵器の遺棄、証拠隠滅により、中国の人たちを苦しめ、悲しませていることを知った山内さんたちは、中国の被害の事実を学ぶ旅を続けてこられました。
2004年、中国河北省北坦村へ行きます。村人の虐殺に使われた毒ガスが、大久野島で製造したものでした。村で毒ガス被害の様子を聞きます。この旅に、毒ガス製造工員であった藤本安馬さんが参加されました。「ぜひ、自分も北坦村を訪問し、村人に謝罪したい。自分が作った毒ガスによって村人が虐殺されたことは慚愧に堪えない。被害者に直接お会いして謝罪したい」と言います。
そのことを知った子どもたちの感想です。
〇毒ガスを作る学校のような場所で、化学兵器はいい物などと洗脳のようなことをされて、作ったり、中国などの人を殺してしまったことに対して、謝りに藤本安馬さんが中国などの国に行ったことを聞いて、そういうふうに今になってからでも謝りに行ける人とか日本にいとがすごくうれしかったです。
〇元毒ガス製造工員の藤本安馬さんが、その道しかないから毒ガス製造工員になった。そのせいで中国の子どもたちまでも苦しませてしまった。もし自分がその藤本安馬さんの立場だったら、藤本安馬さんみたいに謝りに行けたのかな。/考えてみたら、自分は行ったら責められる気がして、言えないかもしれないと結論に至りました。それでも、藤本安馬さんは、その気持ちはあったとは思うけど、それをはるかに超える大きな「申し訳ない気持ち」が藤本安馬さんの心の中にはあったのではないかと思いました。
〇藤本さんが、昔大久野市まで毒ガスを製造していた後、大人になって中国の人へ謝罪したくて中国の色々なところで謝罪したのがとても優しくて勇気のある人だなと思いました。
