2019.7.5

知ってほしい。忘れないでいたい [Ⅱ-197]

 6月22日土曜参観懇談会、6年生は3グループに分かれ、親子で、竹内静代さん、西尾静子さん、元木キサ子さんの話を聴きました(今回のコラムでその一部をご紹介します)。その後、一人ひとりが学んだことをまとめ、27日に、竹内さん、西尾さん、元木さんにも参加していただいて、クラスで共有をしました。まとめる過程、報告し合うこと、友だちや3人の方の話から深く考えるなど大切な時間でした。

竹内 静代さん(当時14歳)-当時の学校の様子もたくさん話してくださいました 

 戦争についての情報源はラジオと新聞です。ラジオから流れていたのが軍国歌謡や軍歌です。たとえば「勝ちぬく僕等少国民 天皇陛下の御為に 死ぬと教えた父母の 赤い血潮を受けついで」(「勝ちぬく僕等少国民))。「軍艦マーチ」が流れると、戦果を知らせる大本営発表がありました。終戦の半年前でも「…本土来襲の敵機動部隊に対する昨16日の迎撃戦果中現在迄に確認せるもの次の如し。飛行機撃墜147機、損害を与えるもの50機以上、艦船大破炎上大型艦船1隻。我方自爆未帰還計61機、地上における損害は僅少なり」。147機を撃ち落とし、大型艦船を炎上させたというのです。ラジオを聞いていて、日本は戦争に勝ちまくっていると信じて疑いませんでした。

 配給が乏しくなり、食べる物も少なくなりましたが、「戦地の兵隊さんを思え」と言われて必死に我慢しました。「欲しがりません、勝つまでは」、「進め一億、火の玉だ」、「勝って兜の、緒を締めよ」町にはリズミカルな七五調のスローガンがあふれていました。 

 国民学校での生活は、まず宮城遥拝をしました。全校児童が、皇居の方角に向いて最敬礼(伸ばした両手がひざに来るまで頭を下げるおじぎの仕方)し、「おはようございます」と挨拶します。学校の玄関の横には奉安殿(御真影と呼ばれた天皇の肖像写真、教育勅語の謄本がしまってある収蔵庫)がありました。奉安殿の前を通るときは、立ち止まって最敬礼をしなければなりません。

西尾静子さん(当時6歳) -その日は誕生日。防空壕の中、出た時のこと

 ドンドンドン。扉を叩く音がしました。「中に入れてください」「扉を開けてください」。

 外から声がします。私は子ども心に「開けてあげればいいのに」と思いましたが、地下室にいる大人たちは決して開けようとしません。

 「扉を開けろ!」「中に入れろ!」叫び声に変わりました。でも、地下室の大人たちは黙ったまま、扉を絶対に開けませんでした。もし、扉を開ければ、外の火の手がバーッと部屋に入ってきて、みんな焼け死んでしまうからです。大人たちは「自分たちはまだしも、子どもたちを死なせるわけにはいかない」と考えて、開けなかったのです。しかし、扉を開けないということは、外にいる人を見殺しにすることになるわけですから、その苦悩はきっと想像を絶するものだったでしょう。

 長い、長い夜でした。少し明るくなっていましたから、朝の5時半ぐらいでしょうか。ようやく火の手もおさまり、地下室に避難していた70人は助かりました。外に出てみようとしても、地下室の扉は押しても引いても開きません。ずいぶん時間がかかって、ようやく開いたのですが、そこには、死体の山ができていたのです。「扉を開けろ。何に入れろ」と叫び、扉をドンドン叩いていた人たちの死体です。全身黒こげで、丸太のようでした。誰が誰だかわかりません。重なるようにして死んでいました。

元木キサ子さん(当時10歳) -戦争のあと、「戦災孤児に」

 防空壕の中、心臓の音は頭を突きぬけ、寒さと恐ろしさに震えたまま、両親と末の弟が来るのを、今か今かと待っていました。突然、防空壕に忙しげな靴音が近づくと、知らない大人の大声、「何ぐずくずしている! 早く逃げないと焼け死ぬぞ」。恐怖と寒さでおびえ切っていた私は、両親たちの来ないうちに、一年生の弟と夢中で防空壕を飛び出してしまいました。これが取り返しのつかない結果になりました。

 …空襲から祖母の家までの4・5日間、私は一滴の水も、食べ物も口にせず、トイレにも一度も行っていません。

 祖母の家には、母の兄弟が集まっていました。両親たちと一緒に逃げた先生が、祖母たちに状況を話し、そのあと、私と弟に伝えられました。両親たちは、防空壕からいなくなってしまった私と弟を捜しながら逃げたため、逃げきれず、火に巻かれ、菊川橋のたもとで亡くなられたでしょう。…その時です。突然、祖母が泣きながら、私に言いました。「なぜ、一緒に逃げなかった、だからお母ちゃんが死んだ! お前らが死んで、お母ちゃんが生きていればよかったンだ」10歳の私の心に、この言葉が、突き刺さったままになりました。

 …戦争で両親を奪われた子どもにとって、それは想像できない過酷な「生きるための戦争のはじまり」だったのです。

 当日の語り、『あのとき子どもだった-東京大空襲21人の記録』(績文堂出版)、『東京大空襲を忘れない』(瀧井宏臣、講談社)より引用させていただき、まとめています。

 話はかわりますが、6月30日の東京新聞朝刊に中央大学の目加田教授が「十万人の犠牲をもたらした東京大空襲から終戦までの間、本土の二百カ所が無差別空襲を受け、一千万人近い人々が被災した。空襲を逃れた後も戦後孤児となった子供たちが時に物乞いし、時に「ごみのように扱われ」ながらも必死に生きてきた様子は「東京大空襲74年 孤児たちの闘い」(3月10日30面)に詳しいが、「親を戦場に駆り出し空襲という戦禍を招いて多くの孤児を生んだ国は、彼らの実態調査すら満足にしていない」(3月11日26面)/戦争で犠牲になるのは市井の人たち。今日では国際法違反となる無差別空襲から八月の広島・長崎原爆投下まで、「神国」が降伏を決断する機会は幾度もあったのに、戦争を続け、国民の命を二の次にした」と書いていました。両日の新聞をあらためて読みます。

 ※写真 1番上は、竹内さん、西尾さん、元木さん。2番目は、5歳児が園庭のプラムでジュースを作っています。3番目は、5歳児全員で「カッコウワルツ」演奏と、桐朋学園大学音楽学部の学生さんが小3生に演奏をしてくれました。4番目は、園児と児童のまじわりと、園庭砂場でゴローンでした。

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