1945年8月6日を体験したKさん [Ⅱ-199]
毎年10月に、ヒロシマ修学旅行を行います。今年も現地で被爆証言をしていただきたいと連絡をしました。そして、Kさんが亡くなられていたことを知りました。ここ数年、Kさんの体調はよくありませんでしたが、証言をしてくださいました。もう直接お話しを聴くことができなくなってしまいました。Kさんの証言を聴いた子どもたちのまとめを読みながら、Kさんのことを思い出しています。
8月6日、当時小学2年生でした。学童疎開には行かず、お寺で勉強をしていました。8時15分、大きな音がしてお寺の屋根が落ちてきて下敷きになりました。(爆心地からの距離1.5㎞)あたりは真っ黒でした。暗闇の中から僅かに見えた明かりを頼りに、建物の中から這い出した時は、もう周囲は火災が発生し、火が迫っていました。
「助けて」と言う友だちの声を後に、兵隊さんに「早く家に帰れ」と言われ、家に帰りました。家は崩壊していました。お母さんが出て来ました。「私はいいから、あなたたちは逃げて。」と言われ、その後、お姉さんと一緒に避難しました。駅の前にたくさんの怪我をした人たちがいたので、いっぱい布を探して来て、絞ってやけどしているところなどを拭いてあげたら骨が見えてしまったけれど、みんな我慢していて何も言いませんでした。お腹が出ている人や、真っ黒に焼けている人などがいて、もう広島じゃないみたいで、泣きそうでした。「お母さ~ん!!!」と言ったら、奇跡的にお母さんが見つかりました。川を見たら、たくさんの死体がありました。
その後、親戚の家に泊まらせてもらって、次の日家に帰りました。その時にもまだ駅にたくさんの人が救護を待っていましたが、そのほとんどが亡くなっていました。その後、お寺に行きたくて行くと、庭には誰もいませんでした。川や畑などで、食糧を調達しました。それでまた帰ろうとしたら、行きに誰もいなかったお寺の庭にたくさんの人がいました。
それから、またお友だちを探しに行きました。そしたら兵隊さんに会ってお手伝いをしてほしいと頼まれました。瓦礫の中の人を集める仕事でした。ちょっとしたら悲しく、辛くなってきて、手伝いをやめました。その後、兵隊さんたちは、亡くなった人たちを燃やしました。その時、小さかったので、なんで真夏なのに炎があがっているんだろうと思っていました。兵隊さんは、火の中に人を入れはじめました。「なんでそんなことするの?」と聞いたら、兵隊さんは泣きながら謝りました。
その当時、原子爆弾を知らなかったので、ピカッと光ってドーンと落ちるから、ピカドンと呼んでいました。小学4年生になって「原子爆弾」を知った。アメリカはにくくてにくくてしょうがなかった。
Kさんは、最後に言いました。いつも笑顔でいてください。笑顔は大切です。チャンスがあれば、いろんな話を聴いてください。友だちを大事に。家族を大事に。先生を大事に。そして最後に、今生きていることを大切にしてください。
Kさん、これまでありがとうございました。今後もKさんの証言を探し(まとめてこなかった後悔をしています)、また他の方の証言をまとめる努力をし、伝えていきたいと思います。自分のできること、まわりの人と平和をつくることを積み重ねていきたいと思います。そして、核兵器のない世界を実現していきたいです。
松井一実広島市長は「平和宣言」(2019年8月6日)のはじめに、「今世界では自国第一主義が台頭し、国家間の排他的、対立的な動きが緊張関係を高め、核兵器廃絶への動きも停滞しています。このような世界情勢を、皆さんはどう受け止めますか。二度の世界大戦を経験した私たちの先輩が、決して戦争を起こさない理想の世界を目指し、国際的な協調体制の構築を誓ったことを、私たちはいま一度思い出し、人類の存続に向け、理想の世界を目指す必要があるのではないでしょうか。/特に、次代を担う戦争を知らない若い人にこのことを訴えたい。そして、そのためにも一九四五年八月六日を体験した被爆者の声を聴いてほしいのです。」と述べていました。あなたは現実をどう捉えていますか、未来をどうしていきたいと思いますかと聞かれました。私は、Kさんや他の方の証言を歴史に残し、未来をかえていきたいと思います。