桐朋小だより

2020.5.11

全学年

おすそ分け

休校期間が長くなり、今は新しい学年、クラスに進級した子どもたち。

そんな中、元のクラスの子どもから手紙が届きました。どのお手紙もうれしいです。書いてくれたこと、出してくれたこと。手紙を書く時に少なからず相手のことを考えながら書いてくれている。もうそれだけで笑顔になります。

でもこれは開けてびっくり。誕生日の日ぴったりに、お誕生日おめでとうのメッセージと、時間と心をこめてくれたのが瞬時にわかる手作りギフトだったからです。

なぜ、このことを書いているのかと言うと・・・

今、皆さんはきっと現在の状況に「慣れ」たくないものの、「慣れ」てきてしまう部分も少なからずあるかと思います。

「慣れ」るということは、現状を受け入れ、周りが見えてきて適応できてきた時に到達する感情の表れであると同時に、「慣れ」ると現状の様々な事柄に対しても「慣れ」て、それが当たり前に近づき、鈍感になっていく面があると考えています。

例えば、子どもが生まれた時。初めてつかまり立ちができた時。初めてお話しできた時。トイレがうまくできた時。一人で通学できて下校できた時など、初めてのことは慣れるものではない忘れ難い刺激的な幸せです。

では、子どもがお手伝いをしてくれた時、お願いを聞いてくれた時、出来なかったことが出来るようになった時、喜ばせようとちょっとしたサプライズをやった時、これが日々繰り返されていくと、どうでしょうか。「慣れ」てきてしまう部分がある気がします。(もちろんそうでない人もたくさんいます。)

そういう部分を自分も持ち合わせていると理解した上で、いつも刺激的とは難しいですが、「慣れ」ないで、ささやかな幸せを感じることができる心であり続けたいと願っています。そのためには、「ありがとう」の気持ちを忘れないことだと思っています。当たり前ということはない。そこには想いがこめられているんだと。

おめでとうの言葉だけでは満足しにくい世の中かもしれません。プレゼント=「物」。購入したものになりがちかもしれません。もちろん「物」でも、ささやかな幸せはうまれるでしょうし、実際うれしいですし、それはそれで刺激的ですし、確かに想いが込められていると思います。

でも手作りの「もの」にはその人「らしさ」がはっきり現れます。見た目や雰囲気で誰が作ったのか、知っている人であればおよそわかります。でも「物」ではおそらくそこまでわかりません。

「誕生日を覚えていてくれてありがとう。」

「何人かに協力してもらって作っていることが分かるよ。声をかけたこと、協力してくれた人もありがとう。」

「思いついて、「やろう」と動いてくれてありがとう。大変だったよね。」

「どんな気持ちで作ったり、けずったりしたんだろう。」

「送る時どんな気持ちだったかな?しかも日にち、ねらって送ったよね?」

「届いたかどうか、もしかして考えてくれているかな?大丈夫、受け取ったよ、ありがとう。」

「きっとお家の人も力を貸してくださったことでしょう。ありがとうございます。」

他にもありがとうがたくさん出てきます。もっと話を聞きたくなります。

お家の中でささやかな幸せを日々の中で見つけたり、相手に意図的に贈ったりできることは素敵なことだと思います。そして、幸せを見つけたら、伝える。幸せをもらったら、相手だけでなく、誰かにおすそ分けする。ご家庭はもちろん、友だち関係でもこんな風に、心配りができることや、特別な何かではなく日常の中の当たり前と思うことの中から見つけられたら、「慣れ」たくない部分に「慣れ」て行きにくいのではないかと思うのです。

引き続き「慣れ」たくない日々が続きます。

その中で、ささやかな幸せを受け取ったので、おすそ分けのつもりで書きました。ありがとう。

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