広島修学旅行 ー大久野島にかかわって‐[Ⅱー284]
広島修学旅行では、3日目に大久野島に行きました。戦争の〈被害〉〈加害〉の事実を学びました。
修学旅行前の授業では、2003年、2004年、中国の小・中学生の人たち、大人の人たちに起きた〈被害〉を取り上げました。約60年前にあった戦争の〈被害〉を、河原や庭などで遊んでいた中国の子どもたちが受けました。現在、歴史を学んでいる子どもたちと、ほぼ同年齢の子どもたちでした。その〈被害〉をもたらしたのが、日本です。戦争中、大久野島での毒ガス製造、毒ガス遺棄などにかかわることです。
〇2003年、中国黒龍江省でのこと。工事現場から出た黒っぽい土で、蓋尊旭さん(当時12歳)、馮佳縁さん(当時10歳)がどろんこ遊びをしていました。その土は湿り気があって、粘土のようにいろいろな形を作りやすかったそうです。家に帰ってから、2人は手足に痛みを感じました。痛みはしだいに酷くなり、やがて大きな水ぶくれができてきました。
工事現場の土を家の庭に運んだ人もいます。子どもたちは、土の山で遊びました。高明(当時9歳)の足は、水疱ができ、数か月もの間、歩けなくなってしまいました。(『ぼくは毒ガスの村で生まれた。あなたが戦争の落とし物に出あったら』化学兵器CAREみらい基金編著、吉見義明監修、合同出版より学ぶ)
〇2004年、中国吉林省でのこと。周桐さん(当時13歳)、劉浩さん(当時9歳)が小川でどろんこ遊びをしていたところ、鉄の固まりを見つけました。河原まで運び、周りの泥を小枝でこそげ落とし、穴につまっていた泥をかき出しました。すると中から黒い液体が飛び出し、劉さんの足にかかりました。足にかかった黒い液体を手でこすってふきとった際、手にも液体がつきました。周さんは、鉄の固まりを抱き抱えたとき、鉄の固まりから真っ黒な液体がこぼれ出て、太腿にかかりました。その後、2人は激しい痛みに襲われました。皮膚は腫れあがり、大きな水ぶくれができました。(同上)
◇子どもたちと、「黒っぽい土は、何だろうか?」「鉄の固まりは、何だろうか?」「鉄の固まりの中から出た真っ黒な液体は、何だろうか?」と考え合いました。
◆この学習の前までに、日本の中国での戦争についての学んできた子どもたちからは、「鉄の固まりは『不発弾』ではないか?」「(夏休みの研究で)大久野島の毒ガス製造を調べた。中国での使用を知った。鉄の固まりは砲弾で、中身は毒ガスではないか?」「中国で見つかったドラム缶の中身は、毒ガスだったと思う」など、いろいろな考えが出されました。
子どもたちが触った土は、毒ガス液の入ったものでした。鉄の固まりは、戦争に使われた大砲の弾でした。戦争に使われた大砲の弾の中に、毒ガス液がつまっていました。
〇2006年、劉さん、馮さんたちが日本にやってきました。
「少し歩いただけでも呼吸が苦しくなって、疲れてしまいます。3年たった今も、足の痛みはなくなりません。大好きな歌も、すぐに喉が痛くなって歌えなくなりました。声も変わってしまったみたいです。それに大きな水膨れが気持ち悪いといって、友だちが遊んでくれなくなりました。伝染なんかしないのに、大人の人も近づいてきません。とてもさみしい…。長距離選手になりたかったのに…。」(馮さん)
「最初に水疱ができたときには、これが重大な障害になるなど考えてもなくて、ちょっとした炎症か蕁麻疹だと思っていました。ところが、いつまでたっても治らないし、どんどん酷くなっていきました。2カ月間入院して、退院してからも風邪をひきやすくなり、また、一度風邪をひくとなかなか治りません。風邪は誰でもひくものですが、月に2回も3回もひくのです。それに持久力がなくなって走ることが苦手になったばかりでなく、集中力がなくなってしまったために、学校の成績が下がってしまいました」(劉さんのお父さん)(同上書より引用させていただきました)
その後の学習では、「なぜ約60年後に毒ガスの入ったドラム缶や砲弾が出てきたのだろうか?」「毒ガスの入ったドラム缶や砲弾をなぜ中国に捨てたのか?」「現在はどうなっているのか?」「日本国内で製造されていた毒ガスについて」「毒ガス製造の秘密。その苦しみや製造時における被害など」「日本の中での毒ガス遺棄と毒ガス〈被害〉についてー新聞記事から」などを考え合いました。
戦争中、毒ガス兵器が広島の大久野島で秘密に製造されており、その毒ガス兵器が、中国との戦争で使われていたこと、戦後60年以上たってから戦争の〈被害〉を受けている人がいるなどを知り、大久野島に行ってきました。
修学旅行ではたくさんの人にお世話になりました。ありがとうございました。1日目の碑めぐりでは、山口さん、松田さん、山岡さん、峯岡さん、青木さん、森河さんにお世話になりました。2日目の被曝証言を笠岡貞江さんにしていただきました。平和記念資料館や本川小学校平和資料館、毒ガス資料館など、いろいろな人にお世話になりました。