平和のつくり手として社会に参加する根っこを育てていこう[Ⅱー318]
<修学旅行> 10月20日~23日、6年生は広島へ修学旅行に行ってきました。行く前に、「前の前の6年は広島に行けなくて、前の6年は短縮だったから、自分たちは今まで通りに行けるのは本当にうれしい」「みんなで一緒に学んだり、遊んだりすることが楽しみ」「友だちと一緒に新幹線に乗るのが初めてなので、すごくドキドキしています」「実際に被爆した建物を生で、自分の目で見ること!!」など、いろいろな気持ちを学年で交流しました。
4日間天気がよく、たくさんの人に支えていただき、平和公園の碑めぐり(山岡美知子さんら6名のガイドの方とともに)、笠岡貞江さんの被爆証言、平和記念資料館見学、宮島散策、大久野島毒ガス資料館などの見学、島内アクティビティなど、予定した全ての活動を全員で行うことができました。夕食後、その日の振り返り発表を聴くと、一人ひとりが自分の心が動いたことを率直に伝えていて心に響きます。この学年は、「5年思い桐遊ぶデー」「6年八ヶ岳合宿」「運動会」など、自分たちの行事を自分たちの手で運営してきて、修学旅行においても見事に実現させました。素晴らしいと思います。
<大久野島の歴史を学ぶ> 大久野島で山内正之さんが戦争と平和について話してくれました。「広島の原爆被害についてはたくさんの学校が学んでいます。しかし、大久野島の歴史を学ぶ学校は少ないです。」と仰っていました。その歴史に少し触れます。
多くの自然と海に囲まれた平和でのどかな島が、3度戦争利用されました。1)1897年、軍都広島、軍港呉を守るための要塞が島に造られました。22門の大砲が設置され、その跡が残ります。2)1927年~1944年まで毒ガスを製造しました。次の段落以降で触れます。3)そして1950年からの朝鮮戦争で、米軍の弾薬供給基地として利用されました。1951~1956年、この島はアメリカの管理下でした。
現在、たくさんの観光客の集まる島になっています。かつてこの島は、「毒ガス製造の秘密が守りやすい。毒ガス製造の過程で事故が発生しても周りへの影響が少ない。島は本土からあまり離れていないので、毒ガス工場で働く人が通勤しやすい」(『日本陸軍火薬史』)などの理由から毒ガス製造場所に選ばれました。大久野島は国土地理院の地図から消されました。のべ6700人が集められ、たくさんの子どもも動員されました。毒ガスの危険性を知らされず、指示された作業を行い、死亡者、気管支炎、肺炎、失明状態など毒ガス被害を受けました。しかし、秘密厳守が徹底され、友人、家族、先生、夫婦でも話してはいけませんでした。毒ガス障害で「医務解雇」となり、島から追放された人もいました。敗戦後、気管支炎や癌で死亡した人がいます。大久野島で仕事をしていた人たちは、軍から大久野島のことは絶対言わない、毒ガスを造っていたことがわかると連合軍に拘束され裁判にかけられるのではないかという不安、世間に知られると家族が変な目で見られ、差別や偏見を受けるのではないかという不安から口を閉ざしました。日本は毒ガス使用を認め、謝罪、補償をしていません。
この島で造られた毒ガスは、中国で「少なくとも2000回使用し、8万人以上の人たちを毒ガスで殺傷」(※)しました。毒ガスは国際条約で使用禁止のため、秘密に使われました。大久野島の毒ガス資料館には、参謀総長からの「使用の事実を秘匿し、其の痕跡を残さぬように」という「指示」も展示されていました。敗戦後、国際条約違反の毒ガス使用を隠すため証拠隠滅が行われました。そのため実態が分かりません。1946年、東京裁判ではアメリカが自国の利益のため、日本の国際条約違反の毒ガス使用を訴追せず、日本の毒ガス使用について公表されませんでした。
1995年、日本は化学兵器禁止条約を批准、97年発効となりました。その条約にもとづき、日本は中国の遺棄毒ガスを発掘、回収し、無害化処理する義務があります。その作業は現在まで続いています。
2000年代に入り、中国では道路工事、建物建設工事、下水道工事などで、土地を掘ったりしている時に、日本軍が証拠隠滅のため中国に遺棄した毒ガスが出てきました。亡くなった人、健康を害し、高い医療費負担、働くことができなくなって生活が困窮など、被害者を出しました。中国の子どもが、日本が遺棄した毒ガスとは知らず、毒ガスのついた土で遊ぶなどで被害にあいました。被害を受けた馮さん(当時10歳)は「少し歩いただけでも呼吸が苦しくなって、疲れてしまいます。…大好きな歌も、すぐにのどが痛くなって歌えなくなりました。…大きな水ぶくれが気持ち悪いといって、友だちが遊んでくれなくなりました。…」と語りました(13歳の時)。
私たちは、戦争による被害と加害の真実を学び、2度と戦争をしてはなりません。大久野島の歴史を学ぶことは、真実を直視すること、歴史を心に刻むことです。「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」(1985年、敗戦から40年。―第二次世界大戦をどうみるか― ヴァイツゼッカ―氏のことば)
※『大久野島の歴史』山内正之著