2022.11.6

授かった命のかけがえのなさを感じて [Ⅱ‐319]

毎年12月~1月、「自分史」に取り組んでもらいます。読ませていただいて、かかわる人たちの愛情を感じます。子どもたち一人ひとりに、自分は大事に育てられたことを感じてほしいです。この取り組みを通して、命の尊さを感じ、大切にしてほしいと願います。

写真は全て、10月幼稚園の様子です。

「自分史」はどのようなものか、2020年度の6年生「自分史」から紹介をさせていただきます。

誕生する前~生まれてから  Sさん

私は、自分がお腹の中にいる時の様子や、誕生後の親戚の反応など、色んなことを母や、その周りの人に聞いてみました。

まず、自分がお腹の中にいた時のことです。/私はお腹の中でよく動き回ってたので、お母さんはいつもふり回されてたそうです。つわりが続いて一日中船酔い状態。食べられる時も限られた(動けない時もあった)ので、「思いついたものを食べる!」とマックのポテトを食べていたとか、つわりでずーっと辛いのにマチュピチュにも行った、とか、お母さんの性格だけあって色々と衝撃でした(笑)。

出産は計画分娩だったそうです。いきむ時、お父さんは体を支えてあげる、という役なのに、逆に押さえつけてたそうです。そんな事もあり、まだかまだかと生まれるのを待っていた時、胎児(自分)が動き回りすぎて、へその緒が首に巻きついてしまって、ほぼ窒息状態になっている、と、病院の人達が慌てていて、上に乗ってお腹をおもいっきり押すなど、6人がかりで頑張り、最後は新生児(私)の頭を分娩吸引機(トイレで使うのみたいなやつ)で引っぱり、麻酔を入れてから約8時間かけ、〇年◇月△日、□時◎分、ようやく私は生まれました。生まれた瞬間の様子をお母さんに聞いても、「必死だったからよく覚えてない」と言われたが、お父さんに聞くと、「〇〇は生まれた時、鼻の下に赤いアザがあったよ。」とか「ママは麻酔が効きすぎて車いすだったよ。」など、色んなエピソードを語ってくれました。/私はこの話に感動したけど、お母さんは、「私もみんなもとにかく必死だったから、感動のエピソードは何もないわよ!!」なんて言ってました(笑)。

次は、私が生まれてきた時の親戚達についてです。/それは、お母さんの実家に、両方の祖父母や兄弟が集まり、私のお七夜を祝った時でした。母「みんな祝ってくれてありがとう…!」母の友人「〇□(お母さんの名前)にも子どもが生まれたのかぁ…」など話してる時、父方のちょうと…いや、かなり天然な祖母が、とんでもない発言をしたのだった。/「今日は〇〇ちゃんの初七日に呼んでいただいてうれしいわ!」この後みんなは大爆笑。なんでかわかりますか? 祖母は「お七夜」ではなく、「初七日」と言いました。お七夜の意味は「子どもが生まれて七日目。お七夜には、赤ん坊に名をつけたり、祝うことが多い。」と辞書に書いてあり、初七日の意味は、「人の死んだ日を含めて数えて七日の日」という意味。/「これじゃ私、生まれる前に死んじゃうじゃん!!(笑)」/その話を聞いて、笑ってしまいました。/まあ、そんなユニークな親戚をもって生まれた私の性格が良い意味で変なのは、恐らく宿命なんでしょうね(笑)。

最後は、私の名前の由来についてです。/それは、私が生まれる数か月前のこと。私の両親と父方の祖父が決めたそうです。(この段落の内容は、その人が誰なのかわかってしまうため、略させていただきました。すみません)

長い間(そして今も)振りまわし続けたお母さん、本当にごめんなさい。産んでくれてありがとう!

左の写真は、おいしいご飯をつくっておいしく食べているところです。右の写真は、畑で大きなカマキリを捕まえて、たくさんの人が集まってきたところです。

生まれる前からその後  Uさん

〔生まれる前〕 姉が生まれて、両親はもう一人欲しいと思っていましたが、次の赤ちゃんがなかなか出来なかったそうです。だから、僕がお腹に出来た時はとても喜んで、生まれてくるのを楽しみに大事に毎日過ごしたそうです。/生まれる前の検診に毎回ついて来ていた姉は、お医者さんに「性別は男の子ですよ。」と言われた瞬間に、「女の子がよかった。」と突然泣きだしたそうです。母は男の子だとわかった時は逆に嬉しかったと言っていました。

〔生まれた後〕 陣痛が始まって、母はギリギリまで家でがまんしていました。生まれる時、僕の頭が大きかったので、頭が抜けなくて大変だったことを今でもよく覚えてるそうです。/生まれてすぐに一度戻っていた姉と祖父母もかけつけてくれました。僕は生まれた直後から目がパッチリと開いていて、最初の写真はカメラ目線だったと父が写真を見せて教えてくれました。僕もその写真を見たら本当にカメラ目線でおもしろかったです。

生まれた頃はよく泣く子で、母が休めないからと、看護師さんがカンガルー抱っこをしながら仕事をしてくれていました。そこに来た父が看護師さんも大変だなと思っていたら病室に僕の姿はなく、抱っこされていたのは僕だったのです。まさか自分の子どもだとは夢にも思わなかったと言っていました。/家に帰ってどうなるか母は心配に思っていましたが、母乳を上手に飲めるようになったおかげで、静かになり、人見知りもしないでよく寝る子で助かったと言っていました。寝てる時はどんな音をたてても、お風呂に入るよと言っても、無理矢理服を脱がせても、寝ていて起きなかったそうです。

〔初めての風邪〕 生まれた年の年末に、風邪をこじらせて高熱が続いてしまったそうです。まだ半年で危ないからと大学病院に入院することになりました。僕はまだ小さいので、母が付き添うことになり、その時の大みそかと元日を病院で過ごすことになりました。小さい体に色々な器具がつけられていたそうです(写真あり)。/母が少し家に帰っている時に代わりに祖母が来ていました。祖母が粉ミルクを飲ませた直後、アナフィラキシーショックを起こして、僕についていた機械が「ピンポン、ピンポン」と大きな警報音をたてて鳴り出しました。僕はアレルギーで呼吸困難になってしまいました。あわててお医者さんや看護師さんが病室に入ってきて注射や点滴をして僕は助かりました。/ちょうどその時病室に戻ってきていた母は、その様子にとても驚いたことを今でもよく覚えているそうです。

〔初めて歩いた時〕 僕は生まれて1年で歩き出しました。初めて靴を履いて歩いた時僕は軽い靴なのに重たそうに歩いていて、姉が手をつないで一緒に歩いてくれたそうです。その姿がかわいかったそうです。

〔お気に入りの人形〕 僕にはお気に入りの人形が2つありました。犬の人形と、サンタクロースの姿をした人形でした。その2つの人形をずっともっていたそうです。犬の人形のしっぽと足を、サンタクロースの人形のぼうしをなめていたそうです。なめすぎて、どんどん汚れて黒くなってしまっていますが、今でも大事にかざってあります(写真あり)。その話を聞くと、その頃の記憶を思い出して、なつかしく思いました。

繰り返しになりますが、一人ひとりの「自分史」を読ませていただいて、かかわる人たちの愛情を感じてきました。子どもたち一人ひとりは、「自分史」に取り組みながら、自分は大事に育てられたことを感じていると思いました。これからも、授かった命を大切に活き活きと輝かせてください。

 左の写真は、おいしいケーキをつくって満足したところです。右の写真は、今年も豊作の柿です。子どもたちは長竿での柿もぎを経験し、柿の絵を描く活動もいいなと思っています。

11月20日は、創立記念日です。その前後に、桐朋学園初代校長、理事長で哲学者の務台理作先生の著作を読むことにしてきました。今年は、ロシアのウクライナ侵略があり、戦争が私たちの間近に感じられます。このようなときこそ、務台先生の著作から教育基本法と日本国憲法や平和、平和教育について学んでみたいと考えました。読んだ論文は『務台理作著作集第7巻 倫理と教育』より、「ヒューマニズムと時代の支え」「平和の問題とヒューマニズム」「平和論」「教育基本法 教育の目的」「平和教育の基本的条件」などです。学んだことを今後時間をとってまとめます。

桐朋学園は、務台先生が深く関わった教育基本法の精神を教育理念に据えました。教育基本法について、先生によれぱ「敗戦の悲劇の谷間から平和日本の再建をめざして出立した事実にもとづいて、教育基本法第一条は、教育の基本的目的を人格の完成においたのである」「この大目標のもとに『平和な国家と社会の形成者』を育成する」「平和な文化的な国家--すなわち戦争放棄をあえて決意した国民によって建設される国民国家(国民社会を含む)の中で、国民の手によって進められるべきものである」「平和な文化的な国家を戦争放棄を決意した国民の手により進める枠(中村)の中で、各個人は、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた人間として、心身ともに健康であるように育成されるべきである」と学びました。先生が大切に考えられたことを教育実践を通してすすめていきたいと思います。

 このところ空をみあげることが増えました。

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