2023.9.16

平和をつくる[Ⅱー358]

6年生夏休み課題レポート集を読ませていただきました。レポートには、戦争体験の聞き取り、地域の戦跡をめぐって、各地の記念館へ行く、戦争について調べたことなど書かれていました。保護者、ご家族の皆様にもいろいろと助けていただき、ありがとうございました。

今回、戦争体験の聞き取りを行った人のレポートより、その内容を紹介させていただきます。読ませていただいて、私自身がたくさんのことを教えられました。もし皆様に読んでいただけたら、一緒に〈戦争〉について考え、〈平和〉をつくることをひろげていけるのではないかと考えました。

広島より山岡さん(被爆2世)が来てくださいました。〈戦争と平和〉について学びました。ありがとうございます。

■おばあちゃんから話を聞いた

私の祖母(81歳)に戦争の話を聞きました。/おばあちゃんが生まれた日は、日本にはじめて飛行機が飛んできて空襲があったそうです。

おばあちゃんのお母さんは、おばあちゃんを生んだばかりで、空襲警報が鳴っていても逃げることもできず病院にいたそうです。八王子空襲があったのは、昭和20年8月3日の夜中で、終戦の日の12日前だったそうです。夜中にB29がたくさん飛んできて、八王子中を焼夷弾が落とされたそうです。この時、八王子は町中火の海になったそうです。

おばあちゃんのお母さんは、おばあちゃんをおんぶして、火事になっていない京王線の線路の上を北野の方へ走って逃げたそうです。その時おばあちゃんのお母さんは、おばあちゃんに「八王子が燃えているのをよく見ておきなさい」と言って、おばあちゃんの頭からかぶせてある水でぬらした小さなお布団をめくったそうです。おばあちゃんは布団の隙間からこわごわ空を見たそうです。その時、八王子の街が真っ赤に盛り上がっていたそうです。

今でもおばあちゃんは、その時の光景は頭の中に残っているそうです。おばあちゃんのお母さんは70歳をすぎてから本をつくり、全国の大学、図書館に送り、「戦争は絶対してはいけない」という気持ちを込めて書いたそうです。

■祖父母から聞いた話

戦争が激しくなり、勉強もできる状態ではなかった。日本軍の24部隊が成東に来たことで、学校が部隊の生活拠点となり、学校の教室が軍に取られてしまった。

祖父母達は、学校の外の寺子屋で勉強することとなった。/ある日、B29が隊列を組んで成東上空にやってきた。成東駅には大きな弾薬庫があり、その弾薬庫が狙われたのです。町では、弾薬庫が大爆発すると、町周辺が爆風に襲われ大破することから、防空壕に避難するよう警戒警報が鳴らされた。祖父母は自宅の防空壕に逃げ込もうと兄と一緒に避難したが、多くの患者が防空壕に避難していたため入れず、兄が祖父母の手を引き、家の押し入れの布団の間に押し込んでくれました。

その直後に家は爆風に襲われ、壁や窓が破壊され、粉々になりましたが、兄の機転で兄と祖父母はなんとか一命を取り留めました。

爆発後、町には多くの亡くなられた方々だけではなく、怪我人が大勢いました。手や足を失った人々が大勢担ぎ込まれ、父、母、姉の家族総出で手当に当たったそうです。(この時、上の兄たちは出征していました。)この時、祖父母は毎日が本当につらい生活で、なんでこんな戦争をしたのかしみじみ思ったそうです。

■アルバムから考える戦争

ぼくのひいおじいちゃんは、今から20年前に亡くなりました。なので直接話を聞いていません。おじいちゃんやおばあちゃん、お母さんや、おばあちゃんのお兄さんから話を聞いたり、ひいおじいちゃんが残してくれたアルバムと日記で、ぼくはたくさんのことを知りました。

1度目の召集の時と、2度目の時では様子が全くかわったことが分かりました。1度目の時は、現地の人と運動会を開いている様子の写真があったけれど、2度目の時は食糧も武器も弾薬もつきて、マラリアの治療薬も消毒もなく、精神力だけで戦って生きていたことが書いてありました。読んでいると、苦しくなるくらい悲惨な日々だったと想像できました。また、マラリアになった仲間や負傷した仲間の遺書を受けとり、その内容を日記に記していました。

ひいおじいちゃんも負傷しました。西部ニューギニア島で、右大腿部に弾丸が貫通したそうです。傷がなかなか治らず、気がついたら船で日本に向かっていて、記憶がなかったとのことです。日本に帰ってきてから終戦後もずっと仲間たちと連絡をとり続け、名簿を毎年更新していました。とても几帳面で、まじめな性格なのが分かりました。同時に、共に戦い、日本に帰れなかった仲間たちへの思いも苦しみも書いてありました。今を生きているぼくたちには、分からない苦しみで、戦争をすることで、失う心や命があることを強く感じました。

戦争は領土を拡げるために行っていたのだと思うけれど、失う物が多すぎるので、話し合いで日本の技術や作物と物々交換するwin-winの関係を築くことができたら良かったと思います。

■祖父に聞いた戦争の話

戦争当時、祖父は10歳だったそうです。/三鷹に住んでいたころは、周りにお家が少なく、畑に囲まれていたそうです。

防空壕は庭を井戸の水が出るくらいほって、竹でかべを作り、石で床を作った物だったそうです。階段も作り、厚い板を防空壕の入り口にかぶせ、30㎝ほど土をのせていたらしいです。防空壕の中には、かんづめやいつもは食べられないお菓子が置いてあり、時々食べる事が出来たので嬉しかったそうです。

ラジオから警戒警報や空襲警報が鳴ると、急いで防空壕に入り、警報が解除されるのを息を殺して(時々お菓子を食べながら)待っていたそうです。その時代は、防空壕の中でラジオを聞く事が出来なかったため、サイレンで警報が解除されたらしいです。警報を知らせてくれるラジオが命のつなだったそうです。/防空壕の中にあるのは、懐中電灯やロウソク、かんづめとお菓子だけでした。

「1t爆弾」という爆弾が、祖父の家の目の前の家に落ち、音を聞きつけ、助けに行ったそうです。その時は、その一家のご主人を抜いた5人が、祖父と家族が土を掘り起こしたりしましたが、助かりませんでした。ご主人は、忘れ物を取りに行っていたので、骨折はしましたが助かりました。

また、玉川上水の土手に爆弾が落ち、土手と道路がえぐられたそうです。消防車が助けに来た途中、穴に落ちて一人が亡くなったそうです。

当時は、窓ガラスの内側と外側の両方に厚いテープをはっていたらしいです。*図版あり。なぜなら、爆風が来てもこのようにしてはると、ガラスが割れない可能性が高くなるからです。なので祖父の家はガラスさえ割れなかったそうです。

敵が時限爆弾を落として行ったので、井之頭公園に2日間野宿をしたらしいです。時限爆弾は、落ちると土にもぐり、10~20時間後に爆発するそうです。なので、野宿している間に、家の庭にもぐった時限爆弾を取り除いてもらいました。ちなみに3つほど落ちていたようです。

その後、お父さんが平塚の基地に勤務したので、寒川に移り、小学校も移りました。その小学校は海添いで、敵が近所までよく来ていたそうです。艦載機が朝の10時ごろ、しょっちゅうやって来ていました。その時は危ないので、学校はお休みになり、はだしで走って家に帰っていました。家までの1.5㎞をはだしで帰るのですが、家にたどりつくまでに艦載機がやって来るそうです。そのころは5月で、父は畦道を走っています。田んぼには水がはっていました。艦載機が面白半分で、低空飛行をして、近づいておいかけてきたらしいです。パイロットの青い目が見えるくらい近くまで来ていたそうです。艦載機が機関銃の弾を連続で発射してきたので、田んぼの水面に弾があたり、はじけた水のあとが自分に追ってくる感覚だったそうです。(まだまだ続きます)

 

ここには紹介できなかった方のお話もたくさんあります。お話をしてくださった皆様、ありがとうございます。

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