修学旅行2 本川小学校平和資料館見学 [Ⅱー406]
本川小学校は、爆心地から410メートルの場所にあります。当時、児童218人が即死(「広島原爆戦災誌」)するなどたくさんの方が犠牲になりました。奇跡的に助かったのが、居森清子さんと和子さんでした。
「本川国民学校でたった一人生き残った」居森さんについて、パネル展示(上の写真)されていました。「私たち(居森さんたちー中村)は火の粉が飛んできてどんどん熱さがせまってくるので、頭から水をかぶりながら(本川でー中村)長い時間じっと水につかっていました。」「私たちはいかだにつかまり、『友達の分までがんばろう』と言い聞かせました。死体がすぐそばを次々と流れていきましたが、必死だったので怖さは感じませんでした。午後3時すぎ、火の手が少しおさまったころ、和子さんと2人で校庭にあがりました。そこに黒い雨がふってきました。」「一週間ほどそこにいた(避難所ー中村)のですが、何も食べることができず、吐いてばかりいました。熱も高かったように思います。後から考えると、原爆の影響だったと思います。和子さんはお父様が連れて帰られましたが、まもなく亡くなったということを大人になってから知りました。和子さんは生きていると思っていたので、それを知ったとき、とてもショックでした。」などと書かれていました。*中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター「連載被爆70年」に、「居森清子さん(80) 本川国民学校で被爆」の記事があります。
ガイドのお一人が、『いわたくんちのおばあちゃん』の作者である天野夏美さんでした。資料室やパノラマ(平和資料館に展示していた被爆直後の広島市街地を再現した2代目のパノラマ(69年製作)ー上の写真左)の前で、当時の様子、居森さんの話をたいへんていねいにしてくださり、心に響きました。
資料館で天野さんが書いた『いわたくんちのおばあちゃん』(天野夏美/作、はまのゆか/絵、主婦の友社)を購入し、帰りの新幹線で読みました。
いわたくんのおばあちゃんは、絶対に家族と一緒に写真を撮らない。なんで撮らないのか「ぼく」は知っている。
1945年8月初め、いわたくんのおばあちゃん(ちづこさん)の家族は疎開する前に、家族全員の写真を撮った。
8月6日午前8時15分、「世界で初めて人の上に原子爆弾が投下された」。いわたくんのおばあちゃん(ちづこさん)は、「ひとりぼっち」になった。大切な家族を失った。
戦争が終わって何カ月かたった頃、写真館のおじさんがちづこさんに家族で撮った写真をくれた。「家族みんなで 写真をとった あの日。/でも、写真を 見ることが できたのは/ちづこさん ただひとり だったのです」
いわたくんちのおばあちゃんは、「いっしょに写った家族が/みーんな 死んでしまった/あの八月が 忘られへんで、」「ずーっと 家族と いっしょに いたくて、/ずーっと 家族の笑顔を 見ていたくて、」「だから いっしょに写真を とらんのよ。」
「ぼく、戦争/せんけえね。」「ぼく、おとなになっても 戦争せんよ。/ほんとよ。」
あとがきで、天野さんは、「いわたくんのお母さんは、/子どもたちに原爆の話を伝えるとき、/こんなふうに結びます。」「『戦争なんてずっとむかしの話』、なんて思わんでね。/ひょっとしたら、『未来の話』になるかもしれんのよ。/『未来』、それは、君たちみんながつくっていくものだからね。」と書いています。