2024.11.4

修学旅行3 広島平和記念資料館、原爆ドーム [Ⅱー407] 

2日目、朝8時30分より、広島平和記念資料館の見学を始めました。10時過ぎまで見学時間を設定しましたが、イヤホンガイドを聞きながらじっくり展示物に向き合うと、時間が足りなくなりました。写真、展示物と解説、イヤホンガイドの吉永小百合さんの詳しい説明やご遺族のことばが心に響き、当時のことを思い出して描いた絵とことばに立ち止まり、何度も涙がこぼれました。

 

資料館入口にある地球平和監視時計は、10月24日、広島への原爆投下から28934日、最後の核実験からの日数 163日を示していました。 

-原爆をうけた三輪車(広島平和資料館 学習ハンドブック表紙写真)。当時3歳11カ月の銕谷伸一(てつたにしんいち)ちゃんは、この三輪車に乗るのが大好きな子。8月6日の朝、伸一ちゃんは、家の前でこの三輪車に乗って遊んでいる時に被爆しました。体中に大けが、大やけどを負った伸一ちゃんは「水、水……」とうめきながら、その夜、亡くなりました。伸一ちゃんのお父さんは、たった3歳の子がひとりぼっちでお墓に入るのはさびしいだろうと思い、亡くなった伸一ちゃんと三輪車を一緒に庭にうめました。

-それから40年たって、お父さんは伸一ちゃんの骨を掘り出してお墓に入れ、三輪車を広島平和資料館にあずけることにしました。(広島平和記念資料館学習ハンドブックより引用)

*掘り起こした時、鉄かぶとの中には伸一ちゃんの丸い頭の骨が残っていました。/伸一ちゃんのほか、倒れた家の下敷きとなった長女の路子さん(当時7歳)と次女の洋子ちゃん(当時1歳)も亡くしました。

イヤホンガイドから流れる、泣きながら語っている父親のことばに涙がこぼれました。

 

私は、展示物を見て、解説を読み、イヤホンガイドのことばを聞いています。そして、展示物からの声を感じました。伸一ちゃんの三輪車ならば …(三輪車から、)ぼくを 好きで たくさん乗ってくれたね。ぼくに乗ってくれた 伸一ちゃんが また乗ってくれるのを ずっとずっと待っている。一緒に あそびたい …などと。

何回も、アーサー・ビナードさんの「声なき『ものたち』の声」の本『さがしています』(アーサー・ビナード・作 岡倉禎志・写真)を読んできました。私も「声なき『ものたち』の声」を聞きたいと思います。

『さがしています』には、広島平和記念資料館所蔵の「カタリベ」たちの「声なき『ものたち』の声」が表現されています。アーサー・ビナードさん曰く「『もの』がカタリベとなり、読者にはっきりきこえる言葉を発するためには、さまざまな力添えが必要」で、それがされていて、「それぞれの息づかいと、豊かな表情がつたわる写真」が迫ってきます。本書の中身を少し紹介させていただきます。

<岡原政太郎さん> 当日、爆心地から300mの歯科医師会館で仕事をされていたそうです。文と政太郎さんの義歯の写真があります。

アーサー・ビナードさんは、「おもいのと あついのと くやしいのと みんな いっぺんに くずれおちてきて ぐっぐっぐーーっと マサタロウさんの 口が まるごと きえちゃった。(1行あき)ぼくらはさがしているんだ。」と表現しています。

<平柿保さん> 爆心地から500mで被爆されたそうです。文と保さんのメガネの写真があります。

ぼくが いつも とまっていた おじさんの 鼻が きえてしまった。

ウランの 核分裂を はじめたら どうやって おわりに できるか……さがしているけど 見えないんだ。

アーサー・ビナードさんは、「声なき『ものたち』の声」をたくさん聞いて表現されています。私も、もっともっと聞きたい。

 

 

原爆ドームについて

1日目の碑めぐりやスケッチで、2日目は平和資料館2階から、何回も原爆ドームを見ました。帰ってから、国語教科書の「平和のとりでを築く」(大牟田 稔)を読みました。原爆ドーム保存について書いてあったことを思い出しました。教科書には、

-原爆ドームを保存するか、それとも取りこわしてしまうか、戦後まもないころの広島では議論が続いた。保存反対論の中には、「原爆ドームを見ていると、原爆がもたらしたむごたらしいありさまを思い出すので、一刻も早く取りこわしてほしい。」という意見もあった。

-市民の意見が原爆ドーム保存へと固まったのは、一九六〇年(昭和三十五年)の春、急性白血病でなくなった一少女の日記がきっかけであった。赤ちゃんだったころに原爆の放射線を浴びたその少女は、十数年たって、突然、被爆が原因とみられる病にたおれたのだった。残された日記には、あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世にうったえかけてくれるだろう--、と書かれていた。この日記に後おしされて、市民も役所も「原爆ドーム永久保存」に立ち上がったのである。

-痛ましい姿の原爆ドームは、原子爆弾が人間や都市にどんな惨害をもたらすかを私たちに無言で告げている。未来の世界で核兵器を二度と使ってはいけない。いや、核兵器はむしろ不必要だと、世界の人々に警告する記念碑なのである。

*楮山さんは当時1歳で、1・3キロほどはなれた平塚町(現、中区)の自宅で被爆しました。日記には、「あの痛々しい産業奨励館(原爆ドームのこと)だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」と書かれていました。楮山さんが16歳に白血病で亡くなる前の年につづった日記の一部だそうです。保存か壊すかの結論が出ない中、地元の子どもたちの団体「広島折鶴の会」はこの言葉に大きな刺激を受け、原爆ドームの保存運動のための活動を始めました。保存への機運は高まり、広島市議会は66年に永久保存を決定しました。(中国新聞 広島メディアセンター参照)

 

見るたびに惨状を思い出し、辛いおもいをする人がいると思います。見るたびに、2度とこうしたことを起こさないと誓う人がいます。

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