2026.8.8

8月6日、9日 [Ⅱ‐468]

 8月6日の平和式典では、こども代表、広島市長、広島県知事、内閣総理大臣、国連事務総長(中満泉さん代読)のことばを聞き、考え続けています。8月9日は、長崎市長、被爆者代表の方たちのことばを聞きました。

 「戦争は単に過去の出来事ではなく、自分が生きている現在とつながっている問題」(明治大 山田朗さん)と捉え、「戦争記憶の継承」をどのようにすすめていけばよいのだろうと、本や報道などと向き合っています。

 雑誌『世界』9月号では、「特集1 終わらない戦争を生きる」が掲載されています。映画や漫画で知った武田一義さん(『ペリリューー楽園のゲルニカー』漫画家)が、「体験していない者に、戦争は描けるのか」、「戦場の死を、どう記録し、伝えるか」、「何を受け取り、何を渡していく?」などの話をされていました。東京大学名誉教授の加藤陽子さんが『歴史の本棚』を出され、「戦争の教訓ー人は過去から何を学び取ったのか」「歴史を読むー不透明な時代を生き抜くヒントを探す」など、一回読んだだけでは頭に入っていかない内容もあり、じっくり読んでいます。

 8月1日から、全国の教育研究大会に参加をしました。分科会では、全国の先生たちと、戦争・平和・命について考え合いました。2学期に向けて学び、「戦争記憶の継承」をどのように行っていくのか研究をすすめ、試行錯誤しながら実践しようと思います。 

しぜんひろばで育つ被爆アオギリ二世

 さて今年の平和式典では、どのような内容を話されていたのか、一部分を以下に掲載します。

 声に出して読み、考えます。

■こども代表 柿崎由宇さん、河野和希さん 「平和への誓い」より

 もしも「大切なもの」が一瞬で消えてしまったら、どんな気持ちになるのでしょうか。

 私たちが笑い合っているときにも、尊い命が失われている現状があります。

 今もどこかで、当たり前の日常がうばわれています。

 ぼろぼろになった制服。/黒く焦げたお弁当箱。

 それは、当たり前の毎日を生きていた証です。

 

 昭和20年(1945年)8月6日、午前8時15分。

 たった一発の原子爆弾が、人々の暮らしを、人生を地獄に変えました。

 髪は焼けちぢれ、全身の火ぶくれが破れ、火傷(やけど)した皮膚が垂れ下がった人々。

「痛いよ。苦しいよ。」

「助けて、お母さん。」

「死にたくない。」

「助けてあげられなくてごめん。」

 死んでしまうつらさ、生き続ける苦しみは、想像することさえ恐ろしいことです。

 私たちには、被爆体験を直接聴くことができる最後の世代として、当時の記憶を事実として受け止める使命があります。

 目をそらさず、知ろうとすること。/悲しい現実でも向き合うこと。

 そこには、「生きたかった人々」、「生き続けた人々」の思いがあります。

 私たちには、広島のこどもとして、行動する責任があります。

 相手の気持ちを想像し、意見の違いがあっても認め、受け止めること。/平和への思いを、自分なりの方法で表現すること。

 一人一人の小さな行動が、平和への後押しとなります。

 平和とは、誰かからあたえられるものでなく、世界中の人々で創り上げるものです。

 こどもである私たちも、その一員として平和への一歩を踏み出します。

 かけがえのない「大切なもの」を、確かな希望を、未来へ届けるために。

 被爆アオギリ二世

■広島市長 松井 一實さん 「平和宣言」より

 皆さん、ここで再度、あの惨禍を生き抜いた被爆者の体験に耳を傾けてください。当時16歳だった女性は優しかった姉のことを振り返ります。まるで骸骨のように皮膚が崩れてなくなり、唇のない口から歯がむき出しになっていた姉の顔は、悪夢のようで信じられなかった。また、3歳で被爆した後に次々と病に襲われ、55歳で白血病を発症し原爆症と診断された女性は、いつも次にどんな病気がくるのかという恐怖と隣り合わせの日々だったといいます。また、別の当時9歳だった男性は、多くの一般人が犠牲になっているロシアによるウクライナ侵攻を目の当たりにし、争いが起きない世界を創るため、自分の中の争いの心を乗り越え、相手の考えを受け入れる気持ちを持ってほしい、とりわけ若い世代には、そのために身近なことから考えてほしいと訴えます。

 市民社会は、こうした被爆者の声や被爆者の思いを伝承する活動に鼓舞され、核兵器廃絶と平和を願う行動の輪を、国境を越え世代を超えて広げてきました。しかし、多くの為政者は現実的な対応として核抑止力に依存し続け、暴力を肯定する国際社会が出現し、核兵器のない世界は遠のくばかりです。戦争の記憶が薄れることで核兵器の使用が容認されかねない時代を生きる私たちは、今改めて、国連を創設し核兵器廃絶を決意した過去の教訓を学び直す必要があります。そして、一人一人があらゆる暴力を否定し、核兵器廃絶という理想を理想で終わらせない国際社会を創り上げるための行動を起こす必要があります。

 そこで、若い世代の皆さんに提案があります。価値観の異なる人々との国境を越えた交流を深めてください。そうすることで、嬉しさや楽しさ、夢や希望を共有することができます。既に世界の多くの若者が、広島を始め様々な場で被爆の実相を学び、交流を深めています。皆さんも平和のために日常生活の中でできることを実践し、自らの思いを発信することで、その行動の輪を広げていってください。こうした取組は、お互いを認め合う平和文化を世界中に根付かせ、核兵器廃絶を国際社会の常識にすることにより、為政者が核抑止力に依存することを認めない環境づくりにつながります。広島市は、平和首長会議の8,589の加盟都市と連帯し、平和文化を世界中に広め、次の世代に伝える活動を後押しするとともに、「ヒロシマの心」を世界に訴え続けます。

 「世界の為政者の皆さん」と、「日本政府には、日本国憲法が掲げる崇高な理想を深く自覚し、国際社会において名誉ある地位を占めるための歩みを止めないでいただきたい」は、略します。

 本日、被爆81周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、力を尽くすことを誓います。そして、改めて市民社会に呼び掛けます。世界中の皆さん、被爆者の切実な思いが込められた「ヒロシマの心」を胸に、共に行動することで世界を変えていきましょう。

  しぜんひろばの様子

■広島県知事 横田 美香さん 「あいさつ」より

 強烈な威力は、一瞬にして多くの人々を焼き、建物や生活基盤を破壊し、太陽を遮りました。その年のうちに14万人の方が亡くなり、その後も多くの方々が命を落としました。

 生き延びた被爆者も、受けた傷や放射線による影響、そして心の傷を抱えながら、苦しみ続けておられます。昨年の被爆80年に、「戦争がどんなに悲惨なものか、子供たちにどうしても知ってほしい」と、初めて言葉を絞り出した被爆者。「生き残ったことも地獄」と多くの方々が、語ろうにも語れない体験をされてきました。

 被爆者の言葉、そして声にならない思いに、私達は真摯に耳を傾けなければなりません。

 核兵器により全ての人を傷つけ、全てのものを破壊することに、何の意味があるのでしょうか。

 核抑止力への依存が、今なお、世界の安全保障政策において大きな位置を占めていることに、悲しみと怒りを感じざるを得ません。核による脅し、先制攻撃も厭わない考え方、それによる核武装の強化が核兵器使用のリスクを高めています。核抑止は核兵器を使用することを前提にしない限り成り立たず、各国の不信や軍拡競争を助長し、世界を不安定化させるという根本的な矛盾をはらんでいます。核抑止力を求めること自体が新たな戦争を引き起こしている現実を直視し、核抑止から脱却すべきです。

 人は皆、平和に安全に生きたい。その願いは人類共通のものです。私たちは対立を超えて助け合い、共に豊かになる道を歩むことはできないのでしょうか。

 ある被爆者は「終戦直後、あのときほど人々の優しさ、温かさを感じたことはありません」と語っています。

 原爆投下直後から、救援のために多くの人々が広島市内に入り、自ら被爆しながらも廃墟の中にあって、失われた命や九死に一生を得た人々に寄り添い支えました。人間同士が支え合う精神が信頼と希望の灯を点し、復興を前に進め、今のこの広島があります。

 今、世界に求められているのも、対立や暴力ではなく、信頼と協力によって平和を築いていく、この精神です。/不信と憎悪を乗り越え、国家間だけでなく、人と人とのつながりにより、対話と協力による安全保障を実現し、誰もが人間らしく暮らしていける世界を築いていくために、世界のあらゆる叡智を集めなくてはなりません。

 今年亡くなられた被爆者・森重昭さんは、「原爆の悲劇に国境はない」と訴えられました。核兵器が傷つけるのは、特定の国民ではありません。そこに生きるすべての人々、そして未来の世代までも深く傷つけます。

 人類と核兵器は、共存できません。

 核兵器を無意味なものに変える行動を世界のリーダーに、そして世界の皆さんに求めます。/核兵器を廃絶するために、共に行動していきましょう。広島県は、これからも被爆地の声を世界に届け、核兵器のない平和な世界の実現に向けて行動し続けていく事をここにお誓い申し上げ、平和へのメッセージといたします。

■内閣総理大臣・高市早苗さん 「あいさつ」より

 我が国は、『非核三原則』を堅持しており、「唯一の戦争被爆国」として、「核兵器のない世界」の実現に向けた努力をたゆまず続けていく使命を担っています。

 今、世界の安全保障環境は一段と厳しさを増しています。/先般の『核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議』において見られたように、「核兵器のない世界」に向けた道のりは、決して平坦(へいたん)なものではありません。

 しかし、だからこそ、我々は、その歩みを止めるわけにはいきません。

 「核兵器のない世界」の実現に向けた国際社会の取り組みを主導すべく、『NPT体制』の維持・強化を訴えながら、「ヒロシマ・アクション・プラン」の下で現実的かつ実践的な取り組みを続けていく決意です。

 また、被爆の実相を世代や国境を越えて広く伝えていくことは、核軍縮に向けたあらゆる取り組みの原点として重要です。

 核兵器使用の惨禍や平和への思いを、長年にわたり語り伝えてこられた被爆者の方々、そしてその記憶や思いの継承を担われている若い世代の方々と共に、被爆の実相の理解促進に向けた努力を尽くしてまいります。

 被爆者の方々に対しましては、保健、医療、福祉にわたる「総合的な援護施策」を進め、ご高齢になられた被爆者のお一人お一人に思いを致し、必要な支援が確実に届くよう、対応を重ねてまいります。

 特に、「原爆症の認定」について、申請された方々の心情を思い、被爆者の方々に一日も早く結果をお知らせするため、できる限り迅速な審査を行うよう、努めてまいります。

 広島の皆様は、被爆により深く傷つきながらも、そこから力強く立ち上がり、平和への思いを発信し続けてこられました。

 そしてそれらは、世代を越えて、広がっています。

 本日、原爆慰霊碑に奉納されました死没者名簿は、今回初めて、公募により選ばれた若い世代の方々が、被爆者の方々とともに記帳に携わられたと聞いております。

 広島の記憶とともに、平和への思いが、しっかりと次の世代に繋がれていることは、市民の皆様の不断のご努力の賜です。

 その歩みに深く敬意を表するとともに、私もまた、ここ広島において、安全で安心して暮らせる社会を次世代に贈る責任を痛感しつつ、「核兵器のない世界」と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを、お誓い申し上げます。

 

■国際連合事務総長 アントニオ・グテーレスさん 「あいさつ」より

 81年前、この地が炎に包まれた経験から、私たちは何かを学んだのでしょうか?

 人類は平和な未来を選ぶのでしょうか?

 それとも、核による破滅という暗い影の下で生き続けるのでしょうか?

 私たちは今、地政学的な分断が深まり、不信感がつのり、競争が激化する時代にいます。

 核による惨禍を未然に防いできた規範と方策は、今、危機に瀕しています。

 数十年にわたって続いた核兵器削減の潮流が逆行しつつあります。

 核実験禁止という国際規範も脅かされています。

 世界の軍事費は急増し2025年には2兆9000億ドルに達しました。

 力の誇示と強制のため、核兵器による恫喝も横行しています。

 広島の教訓は、核兵器の恐ろしさだけではありません。核兵器の脅威が、そして使用が考えられない世界を築く必要性を教えてくれました。

 平和とは恐怖と力によって得られるものではありません。

 平和とは信頼によって築かれるものです。

 対話、外交、国際協力への継続的な投資によって。

 国際法への揺るぎないコミットメントによって。

 すべての国、特に核兵器保有国が、リスクを軽減し、信頼を再構築し、完全なる軍縮に向けての行動をとることによって。

 グローバルな軍縮体制を強化することによって。

 そして、核兵器こそが究極の安全保障であるというゼロサム思考を断固として拒否することによって ―― 実際、核兵器は安全保障の対極に位置するのです。

 国連は、世界から戦争という惨禍を根絶するために設立されました。/そして、1946年の第一回国連総会における最初の決議は、核兵器の廃絶を述べています。/その約束は未だ果たされていません。しかしそれは、決して不可能というわけではありません。

 広島は、不屈の精神、復活、そして希望の象徴として、私たちに力強いメッセージを伝えてくれます。

 最も暗い時代を経験しても、私たちは異なる未来を選択し、築き上げることができると、広島の人々は世代を超えて、私たちに示してくれるのです。

 原爆投下から81周年を迎えるにあたり、確固たる意志と信念を持って行動しましょう。

 分断ではなく対話を、対立ではなく協力を、無意味な競争ではなく共通の安全保障を選びましょう。

 そして、広島の悲劇が二度と繰り返されない世界へと、一歩一歩歩んでいきましょう。

 

■8月9日 平和祈念式典 長崎市長 鈴木史朗さん 「平和宣言」より

 1945年8月9日、米軍機が投下した一発の原子爆弾は一瞬にして長崎のまちを破壊し、その年の終わりまでに人口の3分の2にあたる15万もの人々が死傷しました。

 13歳で被爆した故・吉田勝二さんは、地獄のような惨状をこう語っています。

 爆心地の方に向かうと黒焦げで炭化した人、目が飛び出ている人、内臓が飛び出した人、手足がない人たちが右往左往していた。浦上川にたどり着くと、ここも焼けただれた多くの人が、油と血と汚れた水、その水を飲みながら次々に亡くなっていった。私は、全身血だらけ、皮膚は剥がれ体の下の方にだらりとぶら下がっていた。顔も皮膚は付いていたものの、どす黒く焼け焦げていた。

 吉田さんの顔には生涯消えることのない大きな火傷の痕が残り、周囲からの視線に苦しみ続けました。辛うじて死を免れた人々も、心身に深い傷を負い、放射線の影響でがんなどが発症することへの不安と恐怖を一生抱え続けています。

 今、地球上に存在する核弾頭は、1万2千発以上。

 なぜ、これほど残酷な兵器に固執する国があるのでしょうか。

 国際社会に蔓延する相互不信と対立・分断を背景に、大国の「力による支配」が横行しています。核保有国が当事者となったウクライナや中東の紛争も未だ予断を許さない状況です。さらには、核兵器の近代化や増強など、核軍縮に逆行する動きが加速しています。こうして、相互不信と対立・分断を一層深刻化させる悪循環に陥っているのです。

 これは、核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議が核軍縮に向けた成果文書を3回連続で採択できなかったことでも浮き彫りになっています。

 核兵器に依存する国は、核兵器を実際に使用しなくても、保有することで他国に攻撃を思いとどまらせることができるという「核抑止論」を主張します。しかし、戦争という極限状況の中で自国の存亡を懸けた究極の判断を迫られたとき、それでもなお「核のボタン」を押さないと、誰が言い切れるのでしょうか。

 広島・長崎への原爆投下は、人間が人間への核兵器使用という一線すら越えてしまう現実を突きつけました。

 人間の命も尊厳も木っ端微塵に破壊する核兵器の威力を身をもって知る被爆者や被爆地は、その体験から確信をもって訴えます。

 核抑止論は、極めて危うい。核兵器は「必要悪」ではなく「絶対悪」であり、人類と核兵器は決して共存できない、と。

 一つの地球に暮らす「地球市民」の皆さん。平和な世界をつくるために、私たちにはできることがあります。

 「平和の原点は、人間(ひと)の痛みがわかる心を持つこと。」/これは吉田さんが被爆体験を語るとき、いつも伝えていた言葉です。

 相手の立場や苦しみに心を寄せ、分かり合おうと努力することは、対立や衝突を避けるための大事な一歩となります。それが人と人、国と国、それぞれの場面で信頼を育み友好関係を築く礎になるのです。

 吉田さんの言葉を心に刻み、行動につなげていきましょう。

 「すべての国の指導者の皆さん」「核保有国と核抑止力に依存する国の指導者の皆さん」は略します。

 とりわけ日本政府は、今年初めて開催される核兵器禁止条約再検討会議に参加し、唯一の戦争被爆国としての歴史的使命を全うすべきです。不戦の決意が込められた日本国憲法の平和の理念と非核三原則を堅持し、国際社会の緊張緩和と軍縮に向けた外交を強化してください。北東アジア非核兵器地帯の実現などを通じて、核兵器に頼らない安全保障政策への転換を求めます。

 さらに、平均年齢が86歳を超えた被爆者への援護の充実と、未だ被爆者と認められていない被爆体験者の一刻も早い救済を強く要請します。

 原子爆弾で亡くなられた方々とすべての戦争犠牲者に、心から哀悼の誠を捧げます。

 被爆者の声を直接聞くことのできる今だからこそ、未来へ向けて被爆の記憶と被爆者の思いをしっかりと受け継いでいきます。

 「長崎を最後の被爆地に」。この誓いを永遠の事実とするために、長崎は世界中の平和を求める人々と連帯し、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて、決してあきらめず歩み続けていくことをここに宣言します。

 

■被爆者代表 本村チヨ子さん 「平和への誓い」より

 被爆81年という歴史の転換期を迎え、私達被爆者が一人もいなくなる時代がそこまで近づいてきました。

 1945年8月9日午前11時2分、私があの巨大な光と爆風を経験したのは、国民学校に入学したばかりの一年生、まだ、小さな幼い6歳の時でした。当時、私は爆心地から約4.5キロ離れた福田村小江郷に住んでいました。

 あの日、母と祖父、叔母の3人は田んぼに出かけており、家の土間では祖母がお昼の支度をしていました。私はひとり、縁側で遊んでいた時、目の前に大きく異様な火の玉が炸裂しました。その瞬間、家屋が倒壊し、硝子障子が倒れ、大音響とともに私の小さな体は庭先に叩きつけられました。うずくまる私を見て祖母がとっさに駆け寄り、私の上に覆いかぶさりました。何が起こったのか分からないまま祖母に横抱きにされて、防空壕に逃れました。異様な火の玉と轟音、爆風、そしてその後の静けさが子ども心に強く焼き付いています。しばらくして母たちが帰宅し、長崎に原子爆弾が落とされたことを知りました。その後、海辺の小さな集落では毎日のように遺体を焼く火と形ばかりの葬儀が絶えませんでした。とっさに私を庇い、背中に大きな傷を負った祖母は、十分な手当ても受けられず、一度も仰向けに休むことができないまま、翌年の3月に帰らぬ人となりました。これが6歳の私の遠い、しかし鮮明な記憶です。

 あの日から81年、被爆当時は焦土と化し、動くものは何ひとつなかったここ浦上の丘一帯も見事な復興をとげました。一見平和な光景ですが、一方世界はどうでしょうか。

 新聞やテレビでは、毎日のように争いのニュースが絶えません。ロシアとウクライナの戦争は、いまだに終息が見えません。

 こうした国々の指導者の方々には、毎日の暮らしに喘ぐ人々の姿が目に入らないのでしょうか。幼い子が泣きながら裸足で彷徨う姿が見えないのでしょうか。そして祖母の命と引き換えに81年間、十字架を背負って生きてきた私の記憶はただの昔話なのでしょうか。

 昨年の12月、私は14日間、車椅子に頼りながらアメリカを訪れ、ロスアラモス国立研究所などを見学しました。案内してくれたかたと対話を重ねるうちに「ここで働く者の誰一人として平和を願わない人はいない」と力強く語ってくださいました。私は「どうか核を兵器として使わないでください」と伝えるのが精一杯でしたが、人と人が分かり合うためには対話しかないことを改めて実感しました。また、私はパールハーバーも訪れました。穏やかな海を見つめながら、なぜ戦争が始まり、多くの命が奪われなければならなかったのかを思い続けました。

 私は平和とは命を守ること、命とは何よりも優先されるべきものだと思います。

 私は残された時間を、命の限り平和を叫びつづけること、そして戦争が再び起こらないよう、祈り続けることを、一瞬にして原爆の犠牲となられた、この丘に眠る多くの御霊に誓います。

 

 7月28日に発生した熊本地震により、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りします。また、被災されたすべての皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

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