2025.11.6

ヒロシマ修学旅行② [Ⅱ‐442]

 前回のコラム(№441)で、「なぜヒロシマに行くのか」について書きました。

「日本は世界で唯一原子爆弾の被害にあった国です。広島、長崎は80年経った現在でも、そのことに苦しみ続けている人たちがいる地です。その被害の大きさ、残酷さを知り、なぜそのようなことが起きたのか学びます(次回のコラムで報告予定)。また、空襲や原爆などの被害を受けた一方で、日本には他国に対する加害の経験も持っています。未だに中国各地で堀り出される毒ガス兵器が、なぜそこに埋められていたのか。大久野島を見学し、学ぶことで解き明かしていきます。」

 今回のコラムでは、大久野島での学習(修学旅行 3日目)を報告します。

 

  大久野島は、瀬戸内海にある周囲約4キロの島です。忠海港からフェリーに乗って大久野島に着きました。そして、遺跡見学、毒ガス資料館見学、山内静代さんのお話を聞くなどをしました。

 大久野島は、1929年より旧日本軍が秘密に毒ガスを製造し、そのことを隠すために地図から消された島でした。大久野島でつくられた毒ガスは、戦争中に中国で使われ、人々の命を奪い、苦しめました。戦後、中国に毒ガスを遺棄し、人々の命を奪い、苦しめてきました。

 

島内遺跡見学 ―子どもたちが見たこと、聞いたこと、考えたこと

〇発電所の跡は、想像よりはるかに大きく、ここで風船爆弾を子どもたちが作っていたのだと、少し悲しくなりました。

〇幹部用防空壕跡

・幹部用防空壕は、コンクリートでできていて、上に土を盛ってできており、とても強固に造られていた。そしてぼくがインスタントカメラでフラッシュをたいてとった時、中が少しだけ見えた。とても奥行があり、とても広く、幹部の人たちがいかに優遇されていたかを知った。

・めっちゃ幹部が優ぐうされている。普通の人のは地面に穴を掘っただけなのに、奥まで掘って、さらに横にも広がっていて、コンクリートでできてるとか、格差がひどい。

・こんな小さな防空壕で大丈夫だったのか、などとも思いました。先生の話を聞くと、とても深く、その奥に丸くまんじゅうみたいな形をしたものがあるというが、暗くて肉眼では全く見ることができません。国民はこんな立派な防空壕ではなく、土に穴を掘り、そこに土や枯れ葉をかぶすだけで身を守っていたと聞いた時、とても驚きました。軍のえらい人は身を守るものがあるが、国民は自分たちでつくるだけのもので、ひどい差別だと感じた。

〇毒ガス貯蔵庫跡

・本当に多くの毒物をかくしていたことがショックでした。実際に見ると、本当に大きくて、これだけの量を残していて悲しかったです。

左 長浦毒ガス貯蔵庫跡 島内で一番大きい貯蔵庫。巨大な貯蔵タンク跡とコンクリートの台座が残っている。約100トン入るタンクが6基置かれていた。戦後処理の際、毒性を取り除くために火炎放射器で焼き払い、黒くただれた壁面が残る。戦後、ここに残っていた毒ガスは土佐沖に海洋投棄された。(「大久野島遺跡めぐる」大久野島活性化協議会発行 編集 毒ガス島歴史研究所、おおくのしま戦争遺跡の保存を進める会 を参照)

〇毒ガス資料館

・地図から消された時の大久野島の様子や毒ガスの作用と種類、人体実験に使われた方の被害の状況など、衝撃的な内容が多く、日本は被害を受けただけでなく、加害もしていたことを改めて知り、ショックを受けました。この出来事は、決して二度と起こしてはいけない、忘れてはいけないことだと思いました。

 

山内さんの話を聞いた子どもたち

・(当時の学校の)先生が「化学兵器は、人道兵器だ」と言っていたこと。間違ったことを先生が教えるなんて、とてもビックリです。

・(山内さんが、毒ガス製造に関わった藤本さんにお話を聞いて)藤本さんが「化学兵器は、人道兵器」と教わったという事に驚きました。他の工員たちも、藤本さんのように教えられて毒ガスをつくり、病気になっていったと思うと、国の人たちはとてもひどいと思います。毒ガス製造をしていた頃の藤本さんと同じ14歳の時に被害にあった李慶祥さんとの面会は、藤本さんの勇気と李さんの優しさがあったからだと思います。李さんの「日本へのにくしみは、信頼になりました」という言葉にとても感動しました。

・私的には、学校の生徒が先生たちに連れ出され、毒ガスを造らされて、服の間から毒ガスが入り、被害(死者や痛み、病気)が出てしまったりして苦しむということに衝撃を受けました。本当に可哀想だと思いました。

・大久野島のこと、毒ガス被害について、とても理解が深まりました。中国で遺棄された毒ガスのこれまでの被害は学習してきましたが、まだ全て見つかっていないことを知り、これ以上毒ガスの被害にあう人がいないといいなと感じました。毒ガスを造っていた側の被害も大きく、大久野島ではほとんどの人が体調不良になっていたことが怖かったです。何を造るかも知らされず、島自体が地図から消されて戦争に利用されていた大久野島は、昔の日本の被害者であると感じました。日中戦争の中で使われた毒ガスは9万人以上もの被害を出していたことを初めて知り、大久野島を通して日本の加害者としての側面を知れたと感じます。

 山内さん、ありがとうございました。

 山内さんは、岡田黎子さんより聞いた話をしてくださいました。岡田さんは、学徒動員で大久野島で働き、直接毒ガスを製造することはなかったそうですが、「気球爆弾」をつくったそうです。岡田さんは、『毒ガス島歴史研究所会報』3号に書いています。

「私は太平洋戦争の末期に大久野島へ学徒として動員されました。私の学童期はずっと戦争中で『軍国主義教育』を受け、戦争するための人間として育てられました。そして学校では、戦争は正しいことだと教えられ、お国のため天皇のために戦争で戦って殺したり殺されたりすることは、日本国民として最も名誉なことだと教え込まれました。

そして、太平洋戦争も末期になってきますと、中学2年生以上の生徒は、軍需工場で働くことが義務づけられました。個人の自由は抹殺され、大久野島で何がおこなわれているのか、戦争の実態はどうなっているのか、真実は何も知らされないまま、無理やり戦争へと巻き込まれていきました」

 

『ぼくは毒ガスの村で生まれた。あなたが戦争の落とし物に出会ったら』(合同出版)より引用させていただき、学習をすすめました。

 2006年5月、吉林省敦化市で小川で水遊びをして事故にあった劉浩さん、チチハル市でドラム缶の毒ガスで事故にあった馮佳縁さんたちが日本にやって来ました。(略)来日の目的は、毒ガス事件の様子や被害者の気持ちを日本人に訴えるためでした。

 校庭のどろんこ遊びで毒ガス事故にあった佳縁ちゃんは13歳になっていましたが、疲れやすく、風邪をひきやすい体になっていました。なかなか病気が治らないために、周囲がこわがり、伝染病ではないかといううわさまでたったといいます。(略)

「少し歩いただけでも呼吸が苦しくなって、疲れてしまいます。3年たった今も、足の痛みはなくなりません。大好きな歌も、すぐにのどが痛くなって歌えなくなりました。声も変わってしまったみたいです。それに、大きな水ぶくれが気持ち悪いといって、友だちが遊んでくれなくなりました。伝染なんかしないのに、大人の人も近づいてきません。とてもさみしい……。長距離選手になりたかったのに……」佳縁ちゃん

 

 午後は、4グループに分かれて活動をしました。

  下左 釣った魚を夕食時に唐揚げでいただきました。

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