2026.2.18

自分史[Ⅱ‐454]

 6年生「自分史」の取り組みを紹介します。この取り組みは、保護者の方のご理解、ご協力、一人ひとりがご家族の話を聞き取り、まとめる努力があって行うことができます。皆さん、ありがとうございます。ここではお二人の「自分史」を紹介しますが、一人ひとりが違い、かけがえのない「自分」を表現しています。

   先日の雪。園庭としぜんひろばより

 たいへんお世話になった元園長・校長の齊藤孝さんが、入学式で「チューリップのうた」を歌われたことがありました。歌に込めたおもいとともに心に残っています。「チューリップの花は、一本一本ちがいますが、どの花もきれいです。それと同じように、子どもたちも一人ひとり顔がちがうように同じではありませんが、どの子もそれぞれちがった「よさ」をもっています。それぞれにちがった「よさ」こそ、かけがえのないその子の価値なのです」ということでした。「かけがえのないその子」は、「自分史」を読ませていただいて感じます。かけがえのないその子その子の命が語られ、表現されています。

 齊藤さんは先ほどのことばに続けて、「しかも、その価値はすべて対等です。そして、それぞれの「よさ」の違いが、他者を排するものではなく、ともに生きるために、お互いに認められ、良さをのばしあうことができる関係を創り出していくことが、いまとても大切なことであると思います」と仰っていました。そのような園、学校にしたい、少しでも近づきたいと願って、これからも取り組みを続けていこうと思います。

 では、お二人の「自分史」を紹介します。ご家族はよく覚えておられ、丁寧に話してくださいました。深い愛を感じます。話を聞いてまとめる過程で、ご家族のおもいを受けとっていると思いました。そして、これからを大切に生きていくことにつながると思います。掲載をありがとうございました。

  生まれる前からおてんば                   六年生  

 お母さんは、私がおなかの中にやって来た時、人生最高の奇跡がおきたと心から神さまに感謝したそうです。なぜなら、お母さんは高校生の時に体をこわしてしまい、その後大人になってからも婦人科の先生に赤ちゃんを授かる事は恐らく無理でしょうと言われていたからだそうです。

 なので、その事がうれしくて何がなんでも幸せに育ててあげたいと思ったそうです。

〈おなかの中であばれる〉

 妊娠五か月目の、四月十九日お母さんがお風呂に入っている時に初めておなかを私がけったそうです。

 成長とともにたくさん動く、とっても元気な子で、ついに私はある日の健診で逆子になっていました。お母さんは、逆子を治すためにはり治療にかよってがんばって治しました。私はおなかの中にいる時から、おどっていたのかもしれません。

〈私の赤ちゃんは、犬?!〉

 ついに出産予定日が近づいてきたある日の夜、お母さんはおかしな夢を見ました。それはなんと、犬が生まれてくる夢だったのです。生まれて来た子を先生から見せられると、それは黒くてもじゃもじゃの犬でした。

 その夢を見た次の日から、お母さんの陣痛が始まりました。お母さんは、もじゃもじゃの子が生まれるのでは! とドキドキしたそうです。

〈大きなおなかで歩いて病院〉

 私は、予定日より六日早く生まれました。陣痛がいよいよ本格的に始まった時、お母さんは家に一人でした。病院に電話をし、徒歩五分の病院に一人で十分かけてゆっくり歩いて行ったそうです。大きいおなかでなぜ歩いて行くのかなと思いましたが、歩けば陣痛が進むので歩いて来てくださいと先生に言われたそうです。お母さんは、「いままでで一番慎重に歩いた」と話してくれました。

〈やっぱりもじゃもじゃ!〉

 病室で少し横になって陣痛の間隔が狭くなり、分娩室に移動して「痛かったら無痛分娩にきりかえましょう。」と言われたけど、お願いするタイミングが分からない内に九時間三分で、あっという間に生まれてきました。先生から、「元気な女の子ですよ~」と言って、おなかの上にのせてもらった時、最初に見えたのが黒くてフサフサの頭で、お母さんは本当に犬なのかと思いびっくりしたそうです。

〈哺乳びんはいやだ!〉

 私は母乳を直でしか飲まない子で、哺乳びんで、粉ミルクはもちろん、母乳を入れてもぜったいに飲んでくれなかったそうです。なので、お母さんは完全母乳直飲みで育ててくれたそうです。

 しかも、飲みながらねてしまったらから授乳をやめようとすると気付いて泣いてしまい、お母さんは、ねられなかったそうです。

〈名前について〉

 ここも丁寧に書かれていました。紹介したいのですが、誰が書いたのかわかりますので、できません。どのように命名したのか、どのような意味があるのか、願いを込めたのかなどが書かれています。そして、「私は、名前をけっこう気に入っています!」など、自分の気持ちを書いて、「これからも名前を大切にしようと思います。」と書いていました。

〈ガタガタ前髪〉

 ある日、私がもうすぐ2さいになる夏の終わりごろ、私がくしゃとした顔をして首をヨコにふっていて、お母さんは前髪がはっとうしいのかなと思い前髪を切ってくれました。ですが、その前髪を見てびっくり。なぜかというと、まっすぐ切ったはずが、半円形で、まん中がみじかいガタガタ前髪になっていたのです。

 それ以来、お母さんは私の前髪を切る事をやめました。

〈ぐるぐるミートソース〉

 1さい半ごろのある日の夕食で、大好きなミートソースをお母さんが作ってくれました。まだ、フォークもスプーンもうまく使えず、手づかみで食べる事も多く、手も口も食たくも毎日大変な事になっていたのですが、この日はとくにすごくて、ミートソーススパゲッティをぐちゃぐちゃにしながら手で食べていました。お母さんがはフォークの練習をさせようと、「ぐるぐるするのよ」と言うと、右手と左手にフォークとスプーンをにぎりしめて私は、首をぐるぐるして「ぐるぐるぐる~」とさけびながらスパゲッティをとばしたり、手でスパゲッティをつかみ、「ぐるぐる♪」と言いながらブンブンして笑っていました。けど、お母さんはおこりませんでした。そして、写真や動画をスマホでとりはじめたのです。お母さんは一緒に「ぐるぐるぐる」と言いだしました。今でも、その動画を見るとおもしろくてたまりません。

〈しゅわしゅわれもん〉

 ベビーカーでお散歩していた時の事。のどがかわいて、お母さんとカフェに入って、私は、ベビーカーのお茶を飲んでいました。お母さんは、カフェでレモンスカッシュを飲んでいて、どうやら私はそれがすごく飲んでみたかったらしく、お母さんのレモンスカッシュを見て、「のむ! のむの!」と言い出しました。なので、お母さんはちょっだけ私にくれました。私は一口飲むといかにも「すっぱい!」という顔をしました。でも、次のしゅん間、「すきだけどすっぱい! もっとのむ」と言いました。こうして2歳半の炭酸デビューをしたのでした。

〈だれかたすけてくださーい〉

 歩ける事が楽しくなってきたころ、あるお散歩の時、ベビーカーでおでかけしていつもは、私が「あるく!」と言うと歩かせてくれたけどこの日はお母さんが急いでいて、「ごめんね!」と言って歩かせてもらえなく、私はどうしても歩きたくてぐずぐずし出しました。

 やっとおちついたかと思うと次のしゅん間、背中をピーンとのばして、私は大きな声で「だれかたすけてくださーい!!」とさけんでしまいました。お母さんは、「すみません! 私の子です!」とあせってその場をはなれました。

 こうして私は自由にのびのび育てられました。

 

  自分史                     六年生

 二〇十三年□月◎日午後△時□分、僕は産まれた。体重は□グラムで、すごく軽い方だったらしい。だが、今生きているから大丈夫であったのだろう。

 僕が産まれる前、両親は性別が男子でも女子でもいいから、とにかく元気に産まれてきてくれることだけを願っていたと聞いた。それが一番の願いだったようで。

 そして、産まれる一ヶ月前まで、僕はお腹の中で逆子の状態だったとのこと。お母さんは、逆子を治すために体操を続け、夏の暑い日にもかかわらず、お灸も頑張って、「無事に産まれてきてほしい」という思いで、毎日努力していたと聞いた。その後、逆子が無事に治り、普通分娩ができると判ったとき、お母さんはほっとしたそうだ。

 ところが、予定日まで十日となったある日、お母さんは突然、強い頭痛と高血圧になってしまった。急な体調の変化により、予定とは違い、緊急帝王切開をすることになり…。お父さんは心配したけど、僕とお母さんの命を守るために、同意書にサインをしたとのこと。

 お腹から取り出されたばかりのボクを見たとき、お母さんは「かわいい」と言ったそうで、その言葉を聞いて、僕は産まれた瞬間から愛されていたのだと思う。深夜にも拘わらず、千葉県から祖父母が病院に駆けつけ、僕に会いに来てくれたとのこと。家族みんなが僕の誕生を喜んでくれたと聞いた。

 僕は少し小さく生まれたけど、その後の成長は順調で、できることが一つずつ増えていくたびに家族はとても喜んでくれたようだ。ただ、赤ちゃんの頃の僕は、二時間おきに泣くことが多く、お母さんはほとんどまとまった睡眠が取れず、夜中に何度も起きて僕の世話をする毎日はとても大変だったらしい。僕は下におろすとすぐに起きてしまう赤ちゃんだったため、お母さんはほとんど抱っこかおんぶをしたまま家事をしていたと聞いた。

 さらに、なかなか寝ない子だったため、お父さんも車のシャイルドシートに僕を乗せて、寝るまで近所をドライブしてくれたと話してくれました。

 一歳二カ月のころ、僕は初めて風邪をひいて、それがとても重くなり、肺炎になって入院することになった。病院では、体を固定されたままレントゲンを撮ったり、点滴をされたりして、まだ小さかった僕にとってはつらい状況で、その様子を見ていた両親は、かわいそうでたまらなかったようだ。退院した時、家族は心からほっとしたと話してくれた。

 また、外を歩くときは、ただ歩くだけではなく、見えるものを一つ一つ言葉にして教えてくれたようで、「今日は暖かいね」「鳥の声が聞こえるね」など、周りの様子を話しかけてくれたそう。そのおかげか、僕はだんだんと言葉が増え、よくしゃべる子になっていった。未だに、「寝ている時以外、ずっとしゃべっている」と呆れられている。

 二歳ごろになると、僕は少しずつ自己主張が強くなってきて、何でも「自分でやる」と言い、周りの言うことをなかなか聞かなかったようで、両親から見ると大変な時期だったのだと思う。

 思い通りにならないと泣いたり、怒ったりすることもあり、家族は辛抱強く待つしかなかったようで、僕の気持ちを尊重しながら、できるまで見守ってくれていたと聞いた。

 家族で外食する時は、落ち着いて籍に座っていられず、騒いでしまうことがあったため、周りに迷惑にならないよう両親が交代で外に出て僕をあやしてくれていたと話してくれた。

 これは今の自分にもつながることだけど、僕は興味を持ったことにとことん没頭する子どもで、小さいころも好きな遊びや気になることに集中して、ついつい時間を忘れてしまうことがあったみたいだけど、いつも家族が近くで見守ってくれていた気がする。

 こうして生まれる前から三歳ごろまでの話を両親から聞くと、僕はいつも家族に大切にされながら成長してきたのだと分かった。

 生まれる前から元気に産まれてきてほしいと願われ、無事に生まれたことを喜ばれ、病気の時には心配されながら支えられてきた。最近怪我をして、家族に心配をかけることも多いけど、これまで特に大きな病気をすることもなく生活してきたと思う。

 よく両親からは人間が無事に生まれることは奇跡に近くて当たり前ではないと言われるけど、自分史を作っていて、そのことが何となく理解できた気がする。

 僕に限らず、人間は生まれて成長するまでの間に家族や、それ以外の多くの人の愛情を受けているものだと思う。

 六年生になって学校では過去の戦争のことも多く学ぶ機会があって、その戦争の世界では多くの人々が残酷に亡くなっている。そして、それは今もまだウクライナなど同じ地球の中で起こっていることにとても恐怖を感じてしまう。

 自分と同じように奇跡の中で生まれた命、愛情に囲まれながら成長してきた人間の命をどうか大切にする世界であってほしいと強く感じた。

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