平和を願い、創り出す旅 [Ⅱ-207]

 「最初で最後の修学旅行。悔いのないようにすごそう!」という子どもたち。修学旅行に向けて、運営委員の人たちが中心となり、目標や活動などを学級学年で話し合い創りました。

 学習目標は、○原爆の実態を学び、事実をひとつひとつ受けとめる。○現地の物をしっかり見る。○被爆者の方からちゃんと話を聴き、疑問を残さない。○学んだことを、他の人に伝えられるようにする。生活目標は、○時間を守る。○回りの人に迷惑をかけない。○皆が楽しみ過ごせるように考える。でした。現地においても、自分たちの修学旅行を自分たちで創るという気持ちを大切に、いろいろな場面で学びました。

 

 1日目、平和記念資料館の見学。大変混雑していましたが、一人ひとりが音声ガイドを持ち、当時の様子を聴きながら展示物と向き合いました。

 その後、増岡清七さん(当時14歳中3。爆心地から1.5㎞で被爆。「大やけどを負い、友人たちとともに、比治山方面に避難。多門院付近で、救援を受け、救護所に移送されて、九死に一生を得る。爆心地から800mほどの入舟町の自宅は全壊。母親は即死。療養中で広島を離れていた父親が、その焼死体を発見した。…」)、伊藤佐津子さん(当時11歳小6。勤労作業中、「突然の閃光、爆音に何が何だか解からなくなりましたが、全員宮の森へ逃げました。体に異常はありませんでしたが、そこからはすぐに出来た原子雲やその下で広範囲に燃え上がる煙、落下傘が2つ降りてくる様子に恐怖心いっぱいで12時頃まで見ていました。…」)、笠岡貞江さん(当時13歳中1。爆心地から3.8㎞、自宅で被爆。「突然、目の前のガラス窓一面が、真っ赤、いや日の出の太陽にオレンジ色を混ぜたようなきれいな色になりました。その瞬間ドーンと大きな音がしたと同時にガラスが割れ、粉々になった破片が私に向かって飛んできました。爆風の凄い圧力で後ろに押され、私は一瞬何も分からなくなりました。…」)より被爆証言を聴きました。

 2日目、平和公園碑めぐり。三登さん、山口さん、峯岡さん、松田さん、山岡さん、中川さんに案内をしてもらいました。6つの班は、自分がスケッチをしたい記念碑(原爆死没者慰霊碑、原爆の子の像、平和の鐘、平和の時計塔、平和の灯、被爆アオギリ)でわかれました。爆心地にもっとも近い本川小学校(校舎は全焼、壊滅。約400名の子どもたちと10名の教職員の尊い命が一瞬のうちに奪われた。)平和資料館にも行きました。

 その後、宮島、厳島神社を見学して自由時間を過ごしました。

 3日目は、大久野島で毒ガス資料館見学、山内正之さんより話を聴きました。その後、グループ別活動をたのしみました。

 子どもたちが、どんなことに心を動かしてきたのか、このあとのまとめ、発表から学んでいきたいと思います。

 広島駅から原爆ドームまでの市内電車では、途中で乗車されたお年寄りに席を譲る姿や声をかけられてこたえている様子なども見られ、嬉しく思いました。

 修学旅行では、いろいろな方に大変お世話になりました。ありがとうございました。

 帰りの電車で、『原爆の子-広島の少年少女のうったえ』(長田新編、岩波文庫)を読みました。

 「その時私は、いなかでおばあさんとすんでいた。……それ(八月六日)から一週間ぐらいたってから、おばあさんがかえってきたので、私が『お母ちゃんは』ときくと、おばあさんは、『せなかにせおうてきた』というので、私は喜んで『お母ちゃん』とさけんだ。けれど、おばあさんのせなかには、リュックサックしかなかったので、がっかりした。すると、お姉ちゃんや、いなかの人がなきだした。私はなぜだろうかと思った。けれど、私にはわからなかった。するとおばあさんは、リュックサックの中から、おこつを出して、みんなにみせた。それは、お母ちゃんの金歯と、ひじの骨だけだった。それでも、私は何のことかわからなかった。そして、一年たっても、二年たっても、お母ちゃんはかえってこなかった。そして三年たったら、私は小学校の二年生になった。その時はじめて、お母ちゃんが死んだということが、やっとわかってきた。それからというものは、お母ちゃんがこいしくてたまらなくて、毎日のようにお母ちゃんのおはかにまいった。」(小6 佐々木啓子さん、同書)

 「私の傷あとは、一生かかっても、とれないものであった。なぜこのように傷あとを気にするのでしょう。それは、みんなから『ピカドン傷』といってからかわれ、またののしられ始めたからです。その時私は、こんなことぐらいと思って、父にも母にも言わないでだまっていた。……また広島に舞いもどってきた。そこでも私は、近所の人や同級生や下級生までに馬鹿にされ、いじめられた。……新制中学に入学してから、またしても悲しみがふえた。……これから先のことを考えると、生きていくことが恐ろしい。」(高2 藤岡悦子さん、同書)

 「当時まだ学齢以前の幼児であるか、それとも小学生・中学生・女学生として勉学の途上にあった少年・少女たちの純真で、無邪気で、感受性の強い、柔らかな魂が、あの原子爆弾で何を体験し、何を感じ、そして何を考えているかを知」(同書)りたいと強く思います。

第1次考査の受付時間について

 標記の件、今月下旬から月末までに、メールにてお知らせするとしています。

 現在、最終的なチェックを行っているところです。準備が整い次第、メールを発信いたしますので、今しばらくお待ちください。

 もし、31日を過ぎてもメールが届かない場合には、翌、11月1日に、学校まで電話にてお問合せ下さい。

 

 

6時間授業クラス(5年生)の下校について

 現在、やや強い雨が降っていますが、この後は小やみになっていくことが予想されています。本日6時間授業のクラス(5年生)も、下校は通常通りとします。

 電話連絡網も使用しません。

 心配な方は、迎えに来ていただいても結構です。その場合には、行き違いのないように、その旨事前に学校あてにご連絡ください。

5時間授業クラスの下校について

 現在、やや強い雨が降っていますが、本日5時間授業のクラスも、下校は通常通りとします。

 電話連絡網も使用しません。

 心配な方は、迎えに来ていただいても結構です。その場合には、行き違いのないように、その旨事前に学校あてにご連絡ください。

 

4時間授業クラスの下校について

 今後、数時間で極端に強い雨が降る予報がありませんので、本日4時間授業のクラスの下校は、通常通りとします。

 心配な方は、迎えに来ていただいても結構ですが、行き違いのないように、その旨事前に学校あてにご連絡ください。

 電話連絡網は使用しません。

 

 

本日の下校対応について

 現在、東京都の一部に大雨に関する警報が出ている地域があります。

 本日の下校対応を、以下の通りとします。

① 授業、活動は平常通りとします。

② 下校時間帯の雨の降り具合が、子どもだけで帰るのは避けた方が良いと学校が判断した場合には、状況が良くなるまで、子どもたちを学校に留めおきます。

 この場合には、電話連絡網とホームページを使ってお知らせします。

③ ②の場合でも、お迎えがある場合には、下校させます。

④ 判断する時間(電話連絡網が回り始める時間)の目安は、次の通りです。

・4時間授業のクラス  13:20

・5時間授業のクラス  14:10

・6時間授業のクラス  15:00 

 電話連絡網に備えてください。

 

 

早めに下山します。(3年生の遠足)

高尾山に遠足に出かけている3年生からの連絡がありました。

昼食時から、少し雨が降り始めており、予定を早めて下山する方向で行動しているとのことです。解散時間が1時間ほど早くなる見込みです。

対応のほどよろしくお願いします。

尚、別途電話連絡網使用した連絡も行っています。

 

学び合う漢字学習

3年生の国語の一コマです。国語の時間に毎日少しずつ漢字の学習を進めています。

6人の班で学習をします。漢字1字につき教える担当は2人。学ぶ担当は4人。日替わりで交代して取り組みます。

教える担当の人は事前に自主学習で練習してきて先生に文字のポイントを習ったり、丸つけをしてもらったり、質問したり、自分で考えて教えるための準備をします。

事前の学習が成立していないと友だちに教えることが出来ないことや、逆にしっかり準備ができているとうまく教えられることに気が付きます。

もちろん、しっかり準備をしてもなかなかうまく教えられないこともあります。どうしたら伝わるか。がんばった人ほど失敗を次に生かそうと工夫します。ペア同士で相談します。

 

じっくり座って一から教わることで学び、正しく理解し書けることももちろん大事です。(日々のノートチェックは教員が一文字ずつ点検)このことは当然大事にしながら、自分たちで学び合っていくことで、漢字学習をより身近に感じながら、習得に向けて学び合う心地よさを味わってほしいと願っています。

3年生から始まる辞書引き学習、自主学習の質の向上、計画的に準備することなど、3年生になって学んできている要素がいくつも含まれています。

学習をみんなで作っていくために、日ごろから声をかけ合うこと、確認し合うことを意識して、隣の人と、班の人と、友だちと、お互い支え合っている姿が、ますます頼もしくなっている3年生です。

さあ、次は何の漢字を学ぶのかな?

 

2020年度入試 提出書類の受付について

書類のご提出、ありがとうございました。

書類を確認いたしましたご家庭には、受領完了のメールをご登録のアドレスに送らせていただいております。

万一、未だ受領完了のメールが届いていない場合は、恐れ入りますが本校までご連絡いただけますと幸いです。

今後、10月末日までに試験時間を含んだご案内のメールを送付します。

よろしくお願いいたします。

 

広島修学旅行 [Ⅱ-206]

 台風の被害にあわれた方、亡くなられた方がたくさんいます。子どもたちとかかわりがある方にも被害にあわれた方がいるかもしれません。そうした方のことを心にとめて、6年生との授業「トピックス」をはじめました。 

 もうすぐ広島修学旅行に行きます。平和記念資料館、原爆ドーム、被爆証言、平和記念公園碑めぐり、本川小学校、宮島、大久野島など、現地で人よりモノより学びます。

本書は、アーサー・ビナード 作、岡倉禎志 写真、童心社。「もの」がカタリベとなり、読者にはっきりきこえる言葉を発する

 

 子どもたちと学び合っていきたい、考え合っていきたい。そのような気持ちで、10月、子どもたちとの「トピックス」授業では、3日目、4日目に過ごす大久野島にかかわる歴史を学び合っています。はじめに、2003年、2004年に起きた中国での毒ガス事件を取り上げました。テキストは、『ぼくは毒ガスの村で生まれた。あなたが戦争の落とし物に出あったら』(化学兵器CAREみらい基金編著、合同出版)を使用しました。ここでも少し取り上げます。

 戦争が終わって60年近くたってからも、自分たちと同じくらいの年齢の子たちが毒ガスによる被害にあった事実を学びました。その毒ガスが大久野島でつくられたのです。戦後も毒ガスが使用されています。世界中からこのような兵器を失くしていかなくてはならないと考えます。

 2003年、2004年、中国での毒ガス事件。夏休み、周桐君(当時13歳)、劉浩君(当時9歳)が小川で水遊びをしていました。裸でどろんこ遊びをしていた周君が、土手に鉄の固まりがささっているのを見つけました。それを引き抜くと、ずいぶん錆びて、腐って薄くなったところは、穴が空いていました。小枝で表面についた泥をこそげ落とし、穴に詰まっていた泥を掻きだしました。中から黒い液体が飛び出し、そばにいた劉君の足にかかりました。夕方、家に帰った2人ははげしい痛みに襲われました。黒い液体が着いた皮膚は腫れあがり、大きな水ぶくれができました。その水ぶくれが破れると、そのあとは真っ黒になっていきました。

 毒ガス液で汚染された湿った土は、さまざまな場所に運ばれていきました。中学校では、校庭の整地のために土が運び入れられ、校庭にはたくさんの山が出来ていました。この山には、ツンと鼻をつくような臭いがする黒っぽい土が含まれていました。その校庭では、朝から蓋尊旭ちゃん(当時12歳)が友だちと遊んでいました。午後からもまた校庭で、馮佳縁ちゃん(当時10歳)も一緒でした。二人は家に帰ってから、手足に痛みを感じました。痛みは次第に酷くなり、やがて大きな水ぶくれができてきました。

 土の山で遊んでいた高明ちゃん(当時12歳)は、左足に水泡がたくさんでき、数カ月もの間歩けなくなってしまいました。当時、高明ちゃんの両親は失業中で、借金をしないと高明ちゃんを入院させることもできませんでした。果物さえ買ってあげることができなくて泣いているお母さんに高明ちゃんは、「もしわたしがおてんばでなければ、土で遊んだりしなかったし、お母さんを悲しませることもなかったのに」と自分を責めています。

 馮佳縁ちゃんは、「少し歩いただけでも呼吸が苦しくなって、疲れてしまいます。3年たった今も、足の痛みはなくなりません。大好きな歌も、すぐにのどが痛くなって歌えなくなりました。声も変わってしまったみたいです。それに、大きな水ぶくれが気持ち悪いといって、友だちが遊んでくれなくなりました。伝染なんかしないのに、大人の人も近づいてきません。とてもさみしい…。長距離選手になりたかったのに…」と言いました。

 こうした事実を知った子どもたちは、自分の年齢に近い子たちが、また日常のあそびの中で被害があったことに、心を震わせます。

 「高明ちゃん(当時12歳)が『もしわたしがおてんばでなければ、土で遊んだりしなかったし、お母さんを悲しませることもなかったのに』と、自分を責めていると最後書いて終わってましたが、決して、高明ちゃんのせいじゃないのに、自分を責めるようなことに毒ガスのせいでなるのはひどい。」

 「僕たちと同じくらいの年の子たちが何らかの形で(この時には、日本が条約違反の発覚を恐れ、遺棄したことは学んでいません)残った毒ガス(マスタードガス)のせいで、体に大きな傷を負って、本当に悲しいことだと思うし、残念だと思う。それに12歳の女の子が、自分がおてんばだったからという理由で、一生悔やんでも悔やみきれない気持ちになるなんて事はあってもならないと思う。」など。

 被害のあった毒ガスは、日本の大久野島で製造されたものです。子どもたちは、その後、高明ちゃんたちはどうしたのか。中国で捨てられた毒ガスは、まだ中国にあるのではないか。日本で毒ガス製造にたずさわった人たちに被害が出ていることなどを知りたい。日本でも毒ガス事件があったという事実をもっと知りたいなど、今後も課題をもって学んでいます。ぼく自身、もっと学んでいきたいと思っています。