あじさいがいっぱい

夏が来たかと思えば、梅雨がやっぱり戻ってきて体調管理にも気を使う毎日です。
暑すぎても、蒸しても、うんざりします。
そんな時に気持ちを引き立ててくれるのは、色とりどりの紫陽花です!

 

この写真を撮った日は、おひさまが強すぎて少し暑そうな様子でしたが、校舎の中のお花はとっても活き活きしています!

美術の時間に3年生が描いた紫陽花

 

幼稚園のお部屋でみつけた、かわいらしいカタツムリ

 

 

染紙がつるしてあって、これもお花のようでした

 

体調管理に気を使う毎日ですが、良く寝て、よく食べて、元気に夏本番を迎えましょう。

桐朋小だよりを更新しました。

「桐朋小だより」を更新しました。以下、2025年度更新記事一覧です。

タイトルをクリックすると記事をご覧いただけます。

子どもたちの様子をお楽しみください。

 

 7月 1日(火) 「あじさいがいっぱい」

 6月27日(金) 「『自分たちの手で学校をつくっていこう!』」

 6月24日(火) 「仙川オリジナル地図を作っています」

 6月20日(金) 「田んぼを作ろう」

 6月17日(火) 「今しかできないあそび」

 6月12日(木) 「おいしい梅ジュースになあれ!」

 6月10日(火) 「手拍子で応援!~中高生の体育祭~」

 6月 6日(金) 「春の遠足」

 6月 3日(火) 「カイコが生まれたよ!」

 5月30日(金) 「八ヶ岳合宿で自然を満喫プログラム」

 5月27日(火) 「パートナーさんと学校探検その2」

 5月23日(金) 「待ちに待った高尾山遠足」

 5月20日(火) 「遠足に行ってきました。」

 5月16日(金) 「ヨモギだんごづくり」

 5月13日(火) 「2年生『みんなでつくった春の遠足』」

 5月 9日(金) 「消防車の写生会」

 5月 7日(水) 「地区別懇談会を行いました」

 5月 2日(金) 「みんなで1年生を温かく迎えました」

 4月28日(月) 「子ども団始動!」

 4月25日(金) 「パートナーさんと学校探検」

 4月22日(火) 「池ぽちゃ第一号誕生!」

 4月18日(金) 「入学式を行いました」

 4月15日(火) 「3年生、始まりました」

 4月11日(金) 「新年度が始まりました」

「自分たちの手で学校をつくっていこう!」

桐朋小学校は子どもたち一人ひとりが主人公となり、自分たちの手でつくっていく学校です。

そのために、毎年、学校の目標や、「こんなことをしてみたい!」などのことを5、6年生の委員会が中心となって、全校の子どもたちで話し合っています。

1学期が始まってしばらくすると、1年生から6年生すべてのクラスで話し合いをし、「みんなの声のはっぱ」を作ります。

話し合うテーマは3つ。

・こんな学校にしたい!(オレンジのはっぱ)

・こんな遊びをやってみたいなあ(緑のはっぱ)

・「遊びのきまり」について考えたいこと、言いたいこと(黄色のはっぱ)

クラスで様々な意見を出し合い議論しながら、「クラスの意見」としてまとめていき、3枚のはっぱを完成させます。小さい学年の人も、やってみたいことはたくさん。要望として上の学年の人たちに伝える機会になり、実際に実現していくこともたくさんあります。

各クラスから集まってきたはっぱは、内容ごとに委員長会議で各委員会に振り分けられ、話し合われていきます。

そして先週、「前期子ども集会」が行われました。集会では、代表委員会がはっぱをもとに作った「桐朋小学校の今年の目標」や、各委員会の活動目標、はっぱをもとに話し合われたことが発表されました。

今年の目標は、この2つ。

・学びと遊び、どちらも大切に、みんなが学びたいことを学べて、やりたい遊びができる学校

・温かい雰囲気で、困ったことやいやなことがあっても、解決できる学校

議長をしていた代表委員からは、「みんなで一緒に学校をつくっていきましょう!」という力強い言葉も。

この目標を達成できるよう、5、6年生にはリーダーシップを発揮してもらい、全校のみんなで桐朋小学校をつくっていってほしいです。

 

 

「おばあちゃんの歌」、『核兵器と戦争のない世界をめざす高校生』、東京大空襲の証言に学ぶ [Ⅱ‐429]

1、城間 一歩輝(いぶき)さんの「おばあちゃんの歌」を読む

沖縄全戦没者追悼式で、城間さんが「おばあちゃんの歌」を読みました。何度も読み返しました。

「おばあちゃんの歌」 豊見城市立伊良波小6年・城間一歩輝

毎年、ぼくと弟は慰霊の日に/おばあちゃんの家に行って/仏壇に手を合わせウートートーをする

 

 一年に一度だけ/おばあちゃんが歌う/「空しゅう警報聞こえてきたら/今はぼくたち小さいから/大人の言うことよく聞いて/あわてないで さわがないで 落ち着いて/入って いましょう防空壕(ごう)」/五歳の時に習ったのに/八十年後の今でも覚えている/ 笑顔で歌っているから/楽しい歌だと思っていた/ぼくは五歳の時に習った歌なんて覚えていない/ビデオの中のぼくはあんなに楽しそうに踊りながら歌っているのに

 

 一年に一度だけ/おばあちゃんが歌う/「うんじゅん わんにん 艦砲ぬ くぇーぬくさー」/泣きながら歌っているから悲しい歌だと分かっていた/歌った後に/「あの戦の時に死んでおけば良かった」/と言うからぼくも泣きたくなった/沖縄戦の激しい艦砲射撃でケガをして生き残った人のことを/「艦砲射撃の食べ残し」/と言うことを知って悲しくなった/おばあちゃんの家族は/戦争が終わっていることも知らず/防空壕に隠れていた/戦車に乗ったアメリカ兵に「デテコイ」と言われたが/戦車でひき殺されると思い出て行かなかった/手榴弾を壕の中に投げられ/おばあちゃんは左の太ももに大けがをした/うじがわいて何度も皮がはがれるから/アメリカ軍の病院で/けがをしていない右の太ももの皮をはいで/皮ふ移植をして何とか助かった/でも、大きな傷あとが残った/傷のことを誰にも言えず/先生に叱られても/傷が見える体育着に着替えることが出来ず/学生時代は苦しんでいた

 

五歳のおばあちゃんが防空壕での歌を歌い/「艦砲射撃の食べ残し」と言われても/生きてくれて本当に良かったと思った/おばあちゃんに/生きていてくれて本当にありがとうと伝えると/両手でぼくのほっぺをさわって/「生き延びたくとぅ ぬちぬ ちるがたん」/生き延びたから 命がつながったんだね/とおばあちゃんが言った

 

八十年前の戦争で/おばあちゃんは心と体に大きな傷を負った/その傷は何十年経っても消えない/人の命を奪い苦しめる戦争を二度と起こさないように/おばあちゃんから聞いた戦争の話を伝え続けていく/おばあちゃんが繫いでくれた命を大切にして/一生懸命に生きていく

2、『核兵器と戦争のない世界をめざす高校生』に学ぶ

『核兵器と戦争のない世界をめざす高校生たち 平和集会・平和ゼミナールの50年』を読みました。本書には、高校生平和ゼミナール(以下、高校生平和ゼミ)の活動として、「被爆者の体験を聞き、その継承につとめること」、「学び、調べ、表現する」、「地域を掘り起こす」などの取り組みが書かれています。

たとえば、2001年9月テロ事件、その後の報復戦争、日本の自衛隊派遣について、高校生平和ゼミでは国際法と国連憲章の学習や憲法9条の学習を行い、報復戦争の即時中止をアメリカ大統領に申し入れてほしいと訴える署名運動を行いました。「日本政府は憲法第9条を生かし、戦争とテロをなくすために行動」を求め、「イラク攻撃反対全国高校生平和集会」(1250人の参加)を開催し、声をあげました。

2020年2月、ロシアのウクライナ侵攻に対しては、「軍事侵攻と核兵器使用の威嚇に抗議し、ただちに平和的解決がされるよう世界各国が最大の努力をすることを求めます」との抗議声明を出し、3月抗議文をロシア大使館に渡します。それ以降も学び、「プーチン大統領、すぐに戦争をやめてください!」緊急署名に取り組みます。ロシア大使館近くで抗議集会を行いました。

2023年には、イスラエルに対する抗議行動、イスラエル大使館に抗議文を届けました。ガザにもウクライナにも平和を! 高校生たちは声をあげています。

全国高校生平和集会は、51年間続いています。2024年3月(ビキニ事件から70年)、全国高校生平和集会in焼津2024集会アピールでは、平和のために学習と行動を呼びかけました。それは、

1.被爆者や戦争体験者のお話を聞き、沖縄の現実を学び、「自分事」としてとらえ、核兵器と戦争のない世界をつくるために、私には何ができるか考え、行動をしましょう。

2.「日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准を」高校生署名に取り組み、政府に届けましょう。

3.ウクライナやガザなど世界の紛争をやめさせ、平和な世界をつくるために、いっしょに声をあげましょう。

でした。

本書の中で、高校生平和ゼミ世話人 沖村民雄さん(元桐朋中学、桐朋高校教員)は、「高校生たちは、いじめや不登校などに傷つき、受験競争に翻弄されながら、戦争体験者の証言や沖縄の現実にふれ、学校生活や将来のことについて語り合いながら、生きることの意味、学ぶことの意味を問いつづけてきた。(中略)高校生の活動を支えてきたのは『自分たちにも平和のためにできることがある』という思い、確信である。」と述べていました。

これからも、高校生が「学び、調べ、表現する」ことで自己を成長させ、仲間と連帯し、主権者として育つ姿に学びたいと思います。

 

3、東京大空襲の証言に学ぶ

6月21日(土)、土曜参観を行いました。6年生は、保護者の方と一緒に「東京大空襲」の証言を聞きました。話してくださったのは、竹内静代さん(当時14歳)、元木キサ子さん(当時10歳)、二瓶治代さん(当時8歳)でした。竹内さん、元木さん、二瓶さん、ありがとうございました。

3名の方から、学校としてこのような取り組みを続けていることをこれからも大切にしていってほしいと励まされました。

6月21日、土曜参観より

以下、コラム394「戦争の惨禍」再録

現在、世界では戦争があり、止めることができず、命が奪われ、傷ついています。

戦争について学び、平和を実現したいと強く願います。

(略) 

竹内さんは、『あのとき子どもだった―東京大空襲21人の記録』(東京大空襲・戦災資料センター編、績文堂出版、2019年)に、「「明日」は「未来」であり「希望」です。ここまで歩いてきた73年の道。紆余曲折はあったけれど、とにかく戦争をしないで歩いてきた道です。平和な73年の道程です」と書いています。戦争はしない、世界の平和を実現したいと、竹内さんの「希望」に自分の気持ちを重ねます。

東京大空襲

1945年3月10日午前0時すぎ、東京大空襲がありました。

『あのとき子どもだった―東京大空襲21人の記録』には、

「約300機のB29が東京上空にあらわれ、大規模な空襲を行いました。(略)この空襲は、夜間に、それまでより低い高度(1600~2200m)から大量の焼夷弾をばらまき、人口の密集した住宅地を焼き払うことを目的としていました。」

「3月10日の空襲では、このM69焼夷弾が1538トン、約32万発も投下されました。爆撃していた時間から計算すると、1秒間に30発以上のM69焼夷弾が落ちてきたことになります。この焼夷弾が直撃して亡くなった人もいます。」

「焼夷弾が落とされた時間はわずか2時間半ほどでしたが、それによって発生した火災は、明け方になって、もう燃えるものがなくなってようやく静まりました。この日の死者は約10万人といわれています。家や財産を焼かれた被害者(罹災者)は100万人に達しました。」

「30代くらいまでの男性の多くは軍隊に行っていたので、空襲で被害をうけ犠牲となったのは、女性・子ども・高齢者など、国内(銃後)に残っていた、戦う力をもたない民間人が中心でした。なかには、それまで疎開していたのに、卒業や進学のために東京に帰ってきて命を落とした子どももいました。また、東京で暮らしていた、あるいは働かされていた朝鮮人たちも被害を受けました。4万人余りが被災したと言われていますが、犠牲者の数など、くわしいことはわかっていません。」。

などと書かれ、たくさんの命が奪われました。

3名の方の証言から

竹内静代さん(前掲書に竹内さんが書かれており、参照させていただきました。)は、自身の「子ども時代」の話をしてくださいました。1年生の時の進軍歌、4年生の時の「皇紀2600年の奉祝歌」のお話、「一系の天子」「大内山松の緑」「肇国の大精神」など国史の授業で習ったことばの書初め、修身の時間は声を張り上げて教育勅語を暗唱したそうです。ラジオから鳴り響く軍艦行進曲、軍歌など、アナウンサーは<鬼畜米英><進め一億火の玉だ><国民精神総動員>などと勇ましいことばを発したそうです。

学校、社会が戦争に突き進む日常があったことを知り、その恐ろしさを感じました。

「明日も学校へ行ける。明日も先生や友だちに会える。明日が確実にやってくる。昨日から今日、今日から明日へと普通につづく生活は当たり前だけれど、その当たり前がとても貴重だと思うのです。」(前掲書)と書かれ、「当たり前」を大切にしていきたいと思います。

元木キサ子さんの証言は、本コラム[Ⅱー372](2023年11月)で紹介させていただきました。元木さんは、本校の元保護者で、『私の戦中記 子どもに語る母の歴史』(桐朋学園初等部PTA編集部編、1973年)に「空襲」をお書きになりました。元木さんに許可をとって、全文を掲載させていただきました。

二瓶治代さん(前掲書に二瓶さんが書かれており、引用させていただきました。)は、「仲良しの昌夫ちゃんの死、昌夫ちゃんのお母さん、学童疎開から帰ってきたばかりの昌夫ちゃんのお兄さん、妹、おばあちゃんも亡くなりました。防空壕を出ようとした二瓶さんに「ここにいなさい」と云ってくれたお隣のおばさんご一家も、友だちの久代ちゃんもみんな死んでいました。前の日の夕方まで学校ゴッコや戦争ゴッコなどをして遊んでいた、大切な大切な友達でした。「じゃあ、またあしたネ」と云って別れた友達でした。やさしかった近所のおじさんや、おばさんもどこかに消えてしまいました。/こうしてこの日は私のすぐそばで大勢の人が死んでゆきました。」と述べています。かけがえのない日常が一晩でなくなってしまった悲しみや辛さ、その思いをずっと持ち続けていることを考えます。

日本も戦争で、他国へ空襲を行い、命を奪いました。今回読んだ『東京大空襲を忘れない』(瀧井宏臣著、講談社、2015年)には、「1938年2月から44年12月にかけて、中国の臨時政府がおかれていた重慶とその周辺を爆撃し、200回以上の空襲で2万人以上を虐殺したのです」などと書かれています。これからも調べて、理解していきたいと思います。

仙川オリジナル地図をつくっています

3年生の社会では、桐朋小学校のある「仙川」のまちを探検し、オリジナルの地図を作成します。桐朋小に入学し、仙川のまちに通うようになって3年目。しかし、いくら毎日通っていると言っても仙川に住んでいないと、知らない場所もたくさん、、、子どもたちは探検のなかで新しい景色や特徴的な地形について学んでいきました。

 

探検を終えた子どもたちは早速オリジナルの地図づくりに取り組みます。下書きで場所を確認した後、班ごとに絵や写真、一言メモなどをつけながら作成していきます。仙川のまちの学習は、これから様々な学習に繋がっていきます。身近なところから広い範囲へと少しづつ学習を広げていけるように、楽しんで学んでいこう。

 

 

 

田んぼを作ろう

5年生は総合の学習で「米づくり」を行います。

これまでにも様々な野菜を育ててきました。去年の1学期にはじゃがいもを育て、カレーやいももちに、3学期にはいろいろな冬野菜を育て、鍋やお味噌汁にして食べました。

自分たちで野菜を育てることの大変さも、育てた野菜のおいしさもすでに知っている子どもたち。今年は米づくりに挑戦です。

米づくりにはまず、よい田んぼを作る必要があります。土をしっかり耕して柔らかくすることがとても重要です。シャベルで土を耕していると、ミミズがたくさん出てきました。いい土の証拠!歴代の5年生たちが大事に使ってきたことがわかります。

 

みんなで一生懸命耕して、土がふかふかになったところで水を入れます。

今月の終わりには、昨年も来てくださった農家の相田さんをお招きして、田植えについてのお話を伺いながら、一緒に田植えをする予定です。

今しかできないあそび

 放課後、しぜんひろばに行くと、

「みてみて、なにか 落ちている!」

と子どもたち。見つけて来たのは、ちいさな ちいさな黄緑色の『木の実』とその『へた』でした。よく、みてみると、それは柿の実のあかちゃんでした。実は、まだまだ2年生の親指の先よりも小さいのに、へたはもう立派に大きくて、まるで、柿の実が大きな帽子をかぶっているようでした。

 1年生のとき『びゅんびゅんごまが まわったら』という絵本を読みました。その中に柿の実でネックレスをつくって、ちょっぴり?頑固な校長先生にプレゼントする場面があったことを思い出しました。針と糸を用意すると、しぜんひろばにいた子たちは丁寧に、柿の実を糸でつないでいきました。柿の実のへたが連なってあっという間に長くなり、きれいなかざりのできあがりです。「何しているの?」「私もやりたい!」つぎつぎと仲間が増えていきます。みんな、もくもくと糸を通します。「集中して!」なんて、ひとことも言わなくたって、みんな夢中になっていました。

 柿の実のあかちゃんが、たくさんたくさん落ちてくるのは、今この季節だけです。地球からのおくりもので、今しかできない遊びに夢中になり、没頭できる幸せな時間を味わいました。

おいしい梅ジュースになあれ!

桐朋小学校には、食べられる実のなる木がたくさんあります。

今の時期は梅、夏の初めにはびわ、秋には柿、春先には夏みかんがたくさんの実をつけます。獲れた実は、しぜんひろば委員の子どもたちが各クラスに配りに来てくれ、その実でジャムを作って食べるクラスもあります。

先日、1年生の教室を訪れると、黒板には「うめじゅーすをつくろう」の文字が。なんとこれからしぜんひろばに梅の実を拾いに行こうとしているところでした。自分たちで拾った実でジュースを作る、なんてワクワクする活動でしょう!

早速しぜんひろばへ。子どもたちは必死に探し回ります。

「あったよ!」「どんなの見つけた?見せて!」「ひとつもなかった~」

 

梅を拾ったら教室へ。次はいよいよジュースづくりの準備です。

つまようじを使って梅のヘタをとり、きれいに洗って水分をしっかり拭き取ります。

 

 

大きなびんに梅と氷砂糖を交互に入れたら準備完了!これからは毎日びんを振ってお世話します。

頑張りましたの氷砂糖を1粒ずつもらって笑顔のみんな。完成が楽しみです!

 

手拍子で応援!~中高生の体育祭~ 

5月の終わり、桐朋女子中高の体育祭が、すばらしいお天気のもと開催されました。

 

高らかに響く音楽班の生演奏にあわせて、高校3年生の赤チームから順に、青、白、紫、緑、黄、と各色の旗を掲げて入場してくるお姉さんたちに、小学生も教員たちも心から拍手を送りました。

黄色のみなさんは、3月まで6年生として小学校で一緒に過ごしていた仲間ですから、「あ、〇〇さんだ!」「〇ちゃんも居た!」と、小学生たちも目を輝かせて手を大きく振っていました。

ところで、この入場曲はなんだっけ?と少し考えていたら、

「あ!ラデツキーマーチだ!」と思い出しました。

ウィーンフィルのニューイヤーコンサートで必ず最後に演奏される、ヨハンシュトラウス1世の名曲です。

そこで、この日の5年生の音楽の授業では、お姉さんたちへの応援の気持ちをこめて2023年度のコンサートのDVDを観て、手拍子で盛り上がりました。
 

「みんな(5年生の女子)は、中学生になったら何色になるのかな?」と呟いたら、

すかさず「青だよ!」の声が。みんなよくわかっているようです。

2年後はここにいる人たちが青いハチマキで入場してくるのだなあと、少し不思議な気分になった一コマでした。

優勝は高校3年生の赤チーム。応援交歓の表現も「さすが」の一言。
桐朋女子のパワーをひしひしと感じた一日でした。
お姉さんたち、かっこいい!!

初等部、学園の礎を築いたМ先生 [Ⅱ‐428]

先日、初等部創設メンバーのお一人、М先生のお別れ会を開催しました。1981年卒業22期の有志の皆さんが呼びかけ、М先生と関わられた2期~24期の皆さん、先生のご家族、ともに過ごした先生が大勢参加されました。

М先生との思い出。「自分の頭で考えなさい。」「自由を大切に。」「誠実であれ。」などのことば。その大切さに気づかされ、現在まで大切にしてきたこと。「綴方」、「書くこと」、「(綴方などを掲載した)通信」をずっと続けてこられ、考えること、伝えることなどが身についていること。「常に教室にいて、先生の膝が大人気でした。」「受け入れてくれる安心、信頼」「本物を使うことの徹底」など、一人ひとりの心にいろいろな思い出が残っています。

先生へのお花を分けていただきました。ありがとうございます。学校のいろいろな場所に飾りました。

私からは、М先生が子どもをとても大切にされて関わっていらしたこと、初等部や学園づくりをすすめられ、今日につながることを少し話をさせていただきました。以下、その一部を掲載します。

先生は、学生時代に、児童文化に関心をもって活動をされていました。それはPTA機関紙『わかぎり』にも書かれています。「子どもがむしょうにすきで、小学校の教師になりたい」との願いを先生はおもちでした。

その思いを胸に、桐朋小学校での教育活動をすすめていきます。2015年創立60年記念誌に先生は、「教育の大切な一面を、自分でも見付けていったと思う。子どもたちの教室は教師の仕事場でもあるから、教室には子どもたちより先に行って、子どもたちが帰るまで常駐しよう。教室の一角の教師用机のまわりは広く空けて、子どもたちがいつでも集まれるようにしよう。子どもと話すときは目の高さを子どもと同じにしよう。その机で漢字の書き取りの採点、テストの採点など、また学級通信のガリ切りも、集まった子どもの見ている中でやって行こう。教室の掃除は当番の子どもたちと一緒にしよう。教員室の朝の打ち合わせなどは無視して、教室で子どもたちと話をしよう、などなど。」と書いています。先生らしいなと受けとりました。

卒業生のエピソードでも、朝先生が教室にいらし声をかけられたこと、話したこと、放課後遅くまで残ってかかわられていたこと、先生の机のまわりでの様子などが語れました。

先生の「自分の頭で考えなさい。」「自由を大切に。」などのことば、「綴方」「書くこと」「通信」の思い出も話されていました。そのことを私が先生からいただいた手製本『子ども『詩』集 みんなの目 私の目』の中にある「詩」からみます。

景色 Tさん

まだ、おこっているから、/あとにしようかな。

このまま、だまっているのが、

一番いいかな。

 

ここは三階だから/向こうの方までよく見える。

富士山、/よみうりランド、/向ヶ丘遊園。

みんなで/いろんなところへ/行きたいなあ。

М先生より。(Tさんは)遊びの名人であり、優れた遊びの組織者である。男の子が教室でとぐろを巻いていると、「ウジウジしてないで出て来いよ」と運動場に引っ張り出していく。「みんなで」というのは、もちろん「クラスみんなで」である。

いいかげん Iさん

あの『ひぐるま』(通信名ー中村)を読んだ日から、

お母さんは、

「ものをちらかしっぱなしが/いいかげんにつながるんです!」

「だらしない態度が/いいかげんにつながるの!」

と、またたくまに、

《いいかげんおばさん》に/変化してしまった。

そこまではいいけど、

「テレビも制限時間、決めるから!」

と、言われてしまった。

ここまでくると、

《いいかげんおばさん》が/変化して、

ただの鬼に見えた。

М先生より。 「いいかげん」については、Iのお母さんがずいぶん気にしていたというから、あえて、「お母さんがいいかげんだといったのではありませんよ。Iがいいかげんだといったのですよ」と申し述べた。余計なことだったかも知れない。

この手製本には、「綴り方や『詩』の指導は、とくに小学校段階では、文章の音読指導とともに欠くことのできない重要な教育であると、私は思っている。子どもに正しい事実的な認識と豊かな感性を育てたいと願う時はなおさらである。」「改めてこの子たちの『詩』を読み返して、その生き生きとした心の動きにふれて、正直なところ、懐かしく、嬉しさを覚えた。そういえば二年生のМ君が教室に飛び込んで来て、息をはずませて言った。「先生! きょう、さくぶん、ある? ぼく、書きたいことあるんだ!」/子どもたちの生き生きとした心の動きは、今、どうなっているだろうか。」と、先生はお書きになっています。

私は、先生から、子どもの心は弾んでいますか? 弾む生活、学びをつくっていますか? 弾んだ心を表現したい気持ちを育んでいますか? と、問われていると受けとめています。

 

『私の戦中記 子どもに語る母の歴史』1971年、『私の教育体験記 子どもに語る母の歴史』1972年 

初等部PTAで「体験記」を刊行しました。『私の戦中記』は、□学童疎開 □戦いの日々 □戦いのなかの学校教育 □空襲 □祖国への道 □体験を未来へ □あとがき 『私の教育体験記』は、□幼い心に刻まれたこと □学校とは? 教師とは? □私の教育体験 □あとがき「断章・日本の教育」

「体験記」をもとに、親から子へ、子から親への対話が期待されました。この2冊は、保護者とМ先生らの共同でつくられました。そして、この2冊を現在も読み継いでいます。昨年は『桐朋教育56』特集にも紹介されました。М先生は、PTA機関紙『わかぎり』の執筆も多数あり、保護者とのつながりを大切にされています。

『私の戦中記』のはじめに、「未来に生きる子どもたちに、平和の夢を託するならば、戦争体験を子どもたちに伝えていくことは、戦火をくぐって、苦しくも生きてきた人間の務めてあろう」‥「1971年3月10日 26年前、10万人の人々の命が消えたその日に」と書かれています。М先生があとがきに、「だいじなことは、小学生、女学生として体験してきた自分のことを、今、自分の子どもである小学生、中学生に、生きた歴史として伝えようとしていることなのです。」と意味づけています。この冊子を読み、あらためて現在、語り合いたいと思います。

6月、東京大空襲の体験をされた3人の方(『私の戦中記』を執筆された方も)より、6年生と一緒にお話を聞きます。

『私の教育体験記』のはじめに、「私にとって学校教育は何だったのか、するどく問いなおさなかったならば、母親の立場で、これからの子どもの教育を考えることなどできないのではないか」とあります。あとがきは、М先生が「断章・日本の教育」を書いています。私たちの受けてきた教育とは、天皇制、教育勅語思想の教育、軍国教材などを示されました。

二度とこうした教育は、してはなりません。

 

国語研究 

桐朋小学校の教育 「国語―読み方の教育1」1985年、「国語―読み方の教育2」1987年より

「桐朋幼稚園の教育」「桐朋小学校の教育」シリーズ編成。1955年~1985年の30年間で行った教育研究の集積。

М先生は、国語2冊の中に、11本の論文を掲載されています。創立70年を迎え、あらためてМ先生らに学ぶことを課題とします。

1)『国語―読み方の教育1』 掲載論文

・分析と批判「めじろとせいかじいさん」1968年 ・文学作品の読みの指導過程について1972年

・文学作品の内容とその読みの授業の原則1978年 ・読み方教育の理論1979年

・読み方教育・指導過程を中心に1980年

2)『国語―読み方の教育2』 掲載論文

・授業分析 たどり読みをめぐって1985年  ・授業分析 単語指導の問題を中心にして1985年

・授業分析 子どもの読みの能力の可能性1986年 ・授業分析 表現の読みをめぐって1986年

・授業分析 主体的な読みの育ちを願って1986年 ・「国語―読み方の教育1」と授業1986年

現代は、大学入試、学習指導要領などから、実用的な文章の重視、複数の資料の利用―図表、グラフ、写真などー、架空の対話形式の文章の学びなどが増加しています。全国学力実態調査(4月実施。新聞など問題を掲載)では、文学からの出題はありません。М先生らが残してくださったものから、あらためて文学を読む意味、学ぶことの意味を考えたいと思います。

 

学園のために。そして未来に向けて

学園の歴史をふり返れば、М先生が学園理事をされていた時期に、新八ヶ岳高原寮の建設、従来の併任校長制を廃し、一学長二校長制へ(1992年)かえ、幼稚園から短期大学までの五校の統一を図るために、「女子部門運営審議会構想」を提案されたことなどがあります。

また、組織の機能および組織的な学校運営のため、規則規程の整備が必要となり、先生が中心につくられた規程集があります。このような変革は、どれも大切なことで、現在につながっています。

最後に、М先生ら将来構想検討委員会(当時)の皆さんが女子部門の教職員を対象にアンケート調査を行い、まとめられた「桐朋らしさ」を掲載します。私たちが引継ぎ、実践と研究より発展させていきたいと思います。

1、一人一人を大切にする教育ーこれは教育の意図であり、根幹となる教育の姿勢である。2、自主性、自律性を育てる教育 3、心の健康、身体の健康 4、学ぶ力を育てる教育ーこの3つは、学生・生徒・児童への働きかけである。略 5、新しい教育の創造 6、自ら学ぶ姿勢を常に保つーこの二つは、教育にかかわる教職員の特質であり、課題である。 7、外に向けて開かれた学校ー学校と社会の関係、学校の社会に対する在り方を示している。 8、教育を第一とする学校経営 9、公正、堅実な学校運営ーこの二点は、学校経営、学校運営の基本姿勢である。 10、自由で民主的な学園風土ー一項から九項までを創り出した背景、つまり学校の教育と運営を支え、方向づける精神基盤がこれである。

 

先生より、林竹二著作集もいただきました。林氏は、「生命への畏敬の欠けたところに教育はない」と述べています。

「教育の対象である子どもは、すべてかけがえのない貴重な鉱脈を持っているのです。それを探り堀り起こすことが教師の仕事」、「変化した子どもの中にある生命というものに、絶えず自分を成長させたり自分をつくりかえたりする力がある」ことを先生は私に考えさせようとされたのではないかと学びました。