おいしい楽しい焼き芋会♪

先週、1年生と5年生で焼き芋会を行いました。

1年生が畑で育てて掘ったさつまいもを、パートナーの5年生と一緒に焚火で焼いて食べる、という会で、毎年の恒例行事になっています。

今年は5年生の実行委員の人たちが昼休みに何度か集まって、お芋を焼いている間の遊びを企画したり、パンフレットを作ったりしました。

当日、まずは5年生が1年生を教室まで迎えに行き、実行委員の人たちから活動の説明を聞きました。そのあとは外に出てお芋を包み、いよいよ焚火に投入!

1年生の保護者の方がたくさんお手伝いに来てくださったので、火の番などをやっていただきました。

焼いている間は、実行委員企画の遊びを楽しんだり、自由に遊んだりして過ごしました。

 

ちなみに実行委員企画の遊びはこんな感じ。どの遊びにもお客さんがたくさん集まっていました。

・宝探しビンゴ

(「こんな葉っぱを見つけよう」などお題のものを見つけてビンゴを目指す)

・おにごっこ  ・だるまさんがころんだ  

・折り紙(お芋やくり、どんぐりを作りました)

 

楽しく遊んでいたら、あっという間に焼き芋の完成!各自シートをしいて、お芋とお弁当を食べました。

「皮にがーい!」「中は甘いよ」「おいしい~!」

素敵な笑顔がたくさん見られました。

 

 

 

創立70周年記念「桐朋っ子かるた2」作成 [Ⅱ‐445] 

 20日、初等部創立70周年の記念集会で、「桐朋っ子かるた2」を紹介しました。 

 このかるたは、子どもたちが「遊びや生活の場面を生き生きと切り取った読み札と下絵」をかいて、「絵札の色塗りは先生たちが担当」して、みんなで作りました。読んでたのしい! とってうれしい!素敵なかるたです。いくつかを紹介します。

 子どもたち、保護者の皆さん、このかるたを手にした人たちがいっぱい遊んで、桐朋幼・小、学園のことを知ってもらえたら嬉しいです。

 

      

 

 うんどうかい まけても かっても がんばった!(読み札)

 勝ち負けにこだわり過ぎたり、勝てそうもないと思うと初めからチャレンジしなかったりする子どもの姿を見かけます。

 全力で取り組んだから、負けて悔しい。力を合わせて戦ったから、負けても楽しい。相手がいるからこそ、勝っても負けても夢中になれる。緊張や葛藤や悔しさなども含めて、そんな経験を大切にしたいです。(様子や願い、伝えたいことなど)

 かえりみち 駅まで徒歩で 一時間!?

 小学校の玄関を出てから仙川駅まで、だいたい十五分くらいです。ところが…

 中高生が部活で投げるハンドボールに見惚れ、ツツジの花の蜜を味見して、大学生の劇の練習や楽器の音色に足を止め…、なかなか正門までたどりつきません!

 そんな子どもたちの姿が、仙川キャンパスの豊かさと道草のおもしろさを思い出させてくれます。

 きがあると のぼりたくなる 桐朋っ子

 「おーい!」声のする方を見上げると、高い木の上に何人もの子どもの姿。しぜんひろばのイロハモミジの木は、昔から「木のぼりの木」と呼ばれています。

 「木のぼりにちょうどいい木がもっとほしい!」という子どもたちの願いから、新たに植えられたのが、枝ぶりの良いイチョウの木です。未来の桐朋っ子たちの「木のぼりの木」になるように、みんなで大切に育てています。

 けんかして みんなで きめた 新ルール

 遊び場のルールは大人が決めるのではなく、子どもたちが自分たちで考え、自分たちで守ります。

 でも、「あそびのきまり」があっても、遊び場にケンカやぶつかり合いはつきもの。その場のメンバーで約束事をしたり、「あそびのきまり」の見直しを対案したり、「利用者会議」で、体育館やグラウンドの問題点を解決したり、みんなが豊かに、公平に、安全に遊べるように、いろんな方法を話し合います。

 すばなしは 想像ひろがる じぶんの世界

 図書の時間や放課後のおはなし会では、すばなし(ストーリーテリング)を聴きます。

 在校生・卒業生の保護者ボランティア「すばなし桐」の皆さんが、子どもたちにおはなしを語ってくれます。

 言葉だけで物語を伝える昔ながらの素朴な語りは、子どもたちの想像力にはたらきかけ、おもしろくて、不思議で、心がワクワクするような世界に連れて行ってくれます。

そ 

 そだてると にがてな カイコも すきになる

 カイコから子どもたちはたくさんのことを学びます。

 国語の説明文を読み、理科で生態を学び、社会で養蚕について知り、総合の時間にカイコの命と糸を作ることについて考え合います。繭から紡いだ糸は、美しい作品になり、美術展の飾りつけに使ったりします。

 卵から一人一頭ずつ育てるうちに、最初は「イモムシ、にがて~」と顔を背けていた人も、小さな命に向き合い、愛情が生まれてきます。

 ちきゅう市民 みんなで 言ったよ いろんな国の こんにちは

 世界にはいろいろな国があり、文化があり、人がいます。多様な考え方、生き方があります。

 その違いを尊重し、地球に生きる一人の人間同士として、ともに平和で豊かな地球をつくっていこうと考え、行動する人を地球市民といいます。

 「地球市民の時間」は、誰もが幸せに生きられる未来を創っていくための出会いと対話の時間です。

 わぁ すごい! 桐朋っ子かるた 2号めだ

 二〇一五年、創立六十年の記念品として、「桐朋っ子かるた」が誕生しました。

 桐朋っ子の遊びや生活の場面を生き生きと切り取った読み札と下絵は子どもたちが、絵札の色塗りは先生たちが担当して、みんなで作ったかるたです。

 以来十年間、桐朋っ子たちに親しまれてきましたが、二〇二五年、創立七十周年にあたり、「桐朋っ子かるた2」誕生の運びとなりました!

 いっぱい遊んで、桐朋のことを知ってもらえたら嬉しいです。

11月20日創立記念日ー初等部創立70年を迎えて [Ⅱ‐444]

 昨日、創立70年を迎え、子どもたちとお祝いをしました。とても楽しい一日でした。

 今回、創立60年から70年を振り返り、今後につなげていきたいと思います。皆様、これからもどうぞよろしくお願いします。

70前、入学式後の記念写真撮影

(1)初等部創立70年 

 創立70年を迎え、これまでお世話になった皆様、初等部をつくってこられた皆様へ感謝を申し上げます。私たちはこの機に、これまでの保育、教育を振り返り、今後大切にしたいことを話し合いました。そして新園案内、新学校案内を作成し、私たちの取り組みと願いを書きました。

 新園案内では、「私たちは、大きな願いとして、保育を通して命を大切にする幸せな世界を、地球を大切にする平和な世界を、築いていきたいと思います」、「気候変動と呼ばれるこの状況が続けば、生態系が壊れ、日常生活の基盤が崩れる危険性があります。私たちは、これからの『地球』のこと、『未来』のことを考えていかねばなりません」など、地球市民としての願いも記しました。

 新学校案内では、子どもたちが生きる社会、世界を、平和で幸せなものにしたいと願い、「一人ひとりが民主的な対話を通じて平和を希求し、社会に参加するための根っこを育みます。地球環境を守る願いをもち、人権を尊重し、お互いのちがいを認め合いながら、共に生きていきます」「地球市民の一員として、子どもたちが社会のつくり手として成長できるよう、その土台を築いていきます」と記しました。そのことを実現するために、「学ぶことは楽しい!」、「遊びは最高の学び」、「自治を大事に」、「実際に行う・本物と出会う」、「学びの過程や意味を大切に」、「ともに学ぶ・ともに働く・ともに遊ぶ」、「子どもの発達に合わせた教育過程の自主編成教育を」、「親と教師、親と親は、子どもの『今』と『未来』のために結び合」う、「子どもも大人も自分らしくいられる学校に」を柱として、実践と研究をすすめます。

 写真は、60年~40年位前の桐朋の子どもたち

(2)創立60年から創立70年までのあゆみ

1)幼稚園

 「原点に子どもを」基底に、児童憲章(注)、子どもの権利条約、日本国憲法などに学び、よりよい保育をしたいと取り組みました。「子どもをとりまく環境が変化。これまで以上に、子どもたちが伸び伸びと自由に生きることのできる時間、空間、かかわりを大切に、人としての土台づくりをすすめる」ことを考え、改革を構想、実行してきました。

 2016年度より保育室の改修、新しい子どものトイレ、子ども図書室、庇のある広いテラスへの拡張(年少から年長までつながり、交わりのある空間)などの工事、玄関を園庭側にする(登園時の安心)ことを行いました。そして、2018年度より、3歳児保育、3年保育をはじめました。1学年の人数を40名から26名にすることで、子ども同士が関係をつくり、ともに育ちあうことを充実させました。また3年保育による異年齢での子どもの育ち合いを育んできました。2022年度より、預かり保育を実施し、拡充してきました。

 注 すべての児童の幸福をはかろうと、1951念に制定。3つの基本綱領として、児童は、人として尊ばれる。児童は、社会の一員として重んぜられる。児童は、よりよい環境の中で育てられる。  

―私たちは実現するための努力が求められています。

2)小学校

 2009年度に「コミュニティーとして成り立つ学校への改革」―「顔が見える学校」(全体を3分の2の規模へ縮小)としました。子どもの権利条約、日本国憲法などに学び、教育目標「一人ひとりの子どもを原点とした教育」を充実させようと、「協働と開かれた関係」「全職員で子どもをみる、育てる」ことを大切にして、「きめ細かな指導」「低学年24人学級」「3~6年が1学年2クラスになり、授業交換、合同授業、グループ指導などをスムーズに行う」「ゆるやかな専科―担任制で、高学年教育を充実」などを展開しました。また、理工室の改修(コンロ、調理台、調理器具の収納などを設置し、調理実習のできる部屋へ)や規模縮小による空き教室を多目的室に変えるなど、「施設やシステムの充実」をすすめました。

 2020年度より「地球市民の時間」を創設し、多文化共生、国際理解、外国語、地球環境などの学習をすすめてきました。

(3)10年間のあゆみの中から

1)新しぜんひろばの誕生

 1998年、草が茂り、木登りができる広場(借地)の誕生。「子どもをめぐって殺伐とした出来事が日常化してしまった現代において、そのことを憂えたり、評論したりしてもはじまらないので、少しでも子どもの成長にとってよい働きをする環境を整えたいという強い想い」(桐朋学園初等部ブックレット№2『子どもを原点とする教育』宮原洋一著)がありました。1年後、小さな池と川、小山のある広場へと変身。子どもたちは「しぜんひろば」と名付けました。

 その場所の返還が決まり、2019年、現在の場所に新しぜんひろばをつくりました。子どもたちは、「木登りができる木を増やしてほしい」、「ゴロゴロできる芝生がほしい」などの願いを出し、教員は「遊び方の決まった遊具があるのではなく、自然の中で『発見』したり、自分たちで遊びを『発明』したりする可能性の広がる場所に」、「子どもたちと話し合ってつくっていく」などの意見を出して、皆で新しぜんひろばをつくってきました。たとえば木登りできる木を増やすことでは、イチョウの木を育てています。新しぜんひろばは、幼稚園の子にとってもわくわくどきどきする場であり、園児と小学生が共に育ち合う場となっています。

 子ども時代こそ、直接経験を通しての感受性、感性を育んでほしい。不思議、おもしろそう、近づきたい、触りたい、もっと知りたいなどの気持ちと行動を育んでほしいと願っています。

2)3年保育の実現

 2018年度より2年保育から3年保育に移行し、3歳から6歳までの年齢の幅ができました。異年齢が行き来する環境では、相手に心を寄せてその子のことを知ろうとする、受けとめ、手を差し伸べようとする姿も多くみられるようになりました。子ども同士のなかから、憧れ、「自分もやってみたい」「挑戦したけれどできない」「できるから教えて あげる」「一緒にやってあげる」「今はみてるね」という姿が生まれやすくなりました。

 ともに暮らすなかで、自分と違う仲間の存在に気づいていきます。時には、思いに違いがあったり、切なさを味わったりすることもあります。何度も経験するなかで折り合いをつけ、仲間と暮らすにはどうしたら居心地よく過ごせるか、子ども自身が見つけていきます。一人ひとりの発達の道筋やペースで、ゆっくりじっくり育ち合うことを大切にしています。

3)みんなの声で学校をつくる

 新年度がはじまると、各クラスで「どんな学校にしていきたいか」「どんなことを実現していきたいか」を話し合います。それぞれの学年なりに、自分たちの学校を自分たちでつくる主体者として意見を出し合います。その結果をまとめ、みんなの声の木(2016年度からの取り組み)に貼り出されます。プレイルーム前のみんなの声の木には、全校でどんな提案が出されたかが示され、各委員会が引き取り、実現すると花が咲きます。

 みんなの声の木は、みんなの願いで豊かに成長していく学校にするというシンボルです。また、自分たちの意見が受けとめられ、それをもとに自分たちの学校がつくられているという自治のプロセスを可視化しています。

 子どもたちは、自分たちの学校を自分たちでつくっていく経験を通して、自治的な力と関係を育てています。それは将来、平和と民主主義を大切にした世界のつくり手として、一人ひとりが社会に参加していくための根っことなります。

4)地球市民の時間を創設

 2020年、地球市民の時間を創設しました。地球に暮らす市民として、世界の平和や未来のために、広く柔軟性のある視野を持ちながら、考え行動できる人に育ってほしいと願い、多文化共生、国際理解、外国語、地球環境などを柱に学びます。3、4年生では身近なことから、5、6年生は世界と触れ合い、考え、学び合います。

 2023年2月、3年生はウクライナから避難してこられたオルハさん一家と交流をしました。子どもたちは年齢の近いリアさんとヤンさんと触れあい、戦争について考えました。2023年9月、ウクライナから絵本『戦争が町にやってやる』の著者ロマナさんとアンドリーさんが来校。お二人から絵本のこと、ウクライナで起きていること、子どもたちの様子などの話を聞き、戦争と平和について深く考え合いました。

 子どもたちは身近な友だちとの葛藤を解決することや、世界や日本の文化、平和について積極的に考え合うことなど、お互いの気持ちや考えを伝え合い、理解し合う機会を大切にしています。そうした取り組みから、平和を希求し、一人ひとりが平和のつくり手として社会に参加できるような根っこを育てています。

5)コロナ禍を経験。改めて園、学校とは何かを考える

 2020年3月から5月の休園、休校。コロナ禍の不安、公共交通機関を使用する子が多く、不特定多数の人との接触の心配、全国一斉休校の要請、医療現場の困難さなどを考え、子どもたちの命と健康を守ろうと休園、休校を決めました。しかし、慌てて決定したため、子どもたちに理由を話し、気持ちや考えを聞き、やりとりをすることができませんでした。その後に寄せられたたくさんの子どもの声から、改めて、気持ちや考えを聞くこと、話し合うことの大切さを学びました。

 休校中の手紙や通信での交流、オンラインで友だちの顔が見え、声を交わした時の喜び、休校明けの分散時差登校での出会い、触れ合いなど、友だちと会える喜びを感じました。教員は目の前にいる子どもの声や姿に励まされ、子どもたちとのかけがえのない日々を過ごしていることを感じました。

 学校行事ができない時に、代替行事を子どもたちとともに考え、つくりました。どんなことを大切に、どのような内容にするか話し合いを重ね、準備し、一緒に行事をつくるたのしさを経験しました。

 休校などで授業の時間が少なくなり、詰め込むのではなく、何を大切にするかを教員同士で話しました。人間が本当に身につけなくてはならないことは何か。現在この時代に、何をこそ学ぶのか。コロナを「人間による自然への持続不可能な圧力」、「クローバルな高度の接続性」がウイルスを世界中に拡散させる、と捉えるならば、私たちの生活、社会のあり方を見直す課題もあります。

6)考査においてもー私たちの教育と考査のあり方の間隔を埋める努力を

 幼児期に「ゆったりとした時間を楽しみ、たっぷり遊びこむことを大事にした、その子にとって生き生きと過ごせる生活を送ってほしい」と願い、「考査のための準備教育を望ましいものではない」と伝えてきました。

 私たちの教育のあり方と考査のあり方の間隔をできるかぎり埋めようと、「私たちは、発達の可能性をたくさん秘めている子どもたちが、それぞれの可能性を最大限伸ばしていくことを支えようとする。間違いや失敗からたくさん学びながら成長していくことを援助する。このような考えから入学考査でもこうした発達の可能性を捉えようとしている。『できる・できない』といった尺度で子どもたちを選別していくことがないように、多様な側面で子どもを捉え、幅広い観点をもって考査に臨」む、「信頼感と安心感を土台に自己決定ができることを大切にされて育っているか、それぞれの子どもなりに自分を表現しようとする様子から見とりたい」、「〇か×かという二分的思考による評価ではなく、葛藤や迷いも含めたその子の内面的思考の世界を見つめ、その子らしい成長の過程をとらえようとする」などと模索しています。考査においても、私たちの教育の第一歩でありたいと考えます。

(4)創立80周年に向けて ~園、学校づくりと未来社会への願い

 日々、子どもと保育、教育を語りあい、毎年、職員全員で研究テーマを決め、お互いの授業を学びあい、試行錯誤しながら実践をすすめています。根底に、「日々新しい教育をつくり出す試みを重ねていく。『創造』、『改革』、『試行』であるべき」(生江義男先生)という精神を持ちつつ、私たちのやっている保育、教育は果たしてこれでよいのだろうかと問い続け、歩んでいます。

 立ち戻り、歩みをすすめる際には、学園の教育理念である「一人ひとりの人格を尊重し、自主性を養い、個性を伸長するヒューマニズムに立つ『人間教育』」(1947年教育基本法の精神)が大きな柱となります。

 現在、地球環境危機、平和と人権、民主主義の大きな課題があり、私たちの保育、教育はどのような未来をつくることができるのかを考えます。1947年教育基本法は、「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」と書かれ、私たちの保育、教育が目指すものを示しています。教育の力によって「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」をする、「普遍的にして個性ゆたかな文化の創造をめざす教育の普及徹底」をし、理想を実現していこうとしました。このように考えれば、現在の大きな課題に対しても、私たちの保育、教育の根本理念を大切に日々の実践を積み重ねる先が、よりよい未来をつくることにつながると捉えることができます。

 私たちは、一人ひとりの幸せな子ども時代を願い、歩み続けます。

クラスの活動を自分たちでつくっていくということ

3年生は10月の最後に係活動の一環として、「ハロウィンパーティー」を行いました。普段はクラスをうまく回していくための仕事を子どもたち一人ひとりが分担して行っていますが、たまには楽しいイベントも企画したいところ。5、6年生が学校全体のイベントを企画してくれるようなイメージで、下級生たちもそれぞれのクラスで頑張っています。

今回のハロウィンパーティーは、子どもたちが案を出し、作り上げました。自分たちで「やりたい」と声を上げ、「何をどのようにやるのか」を考え、悩みながら作り上げていくという中で様々な学びを得ることができると、子どもたちの姿を見て思います。

 

「自分たちで考え、自分たちのコミュニティをつくる」さらに「よりよくしていく」という姿勢は、桐朋小学校で大切にしている「自治活動」に繋がっていきます。クラスのみんなに楽しんでもらうために、たくさん考えていましたね。当日は素敵な笑顔をたくさん見ることができました。

 

これからも自分たちがやりたいことを、たくさん考えて、みんなで実行していこう。それがきっとこれから先を生きる力にかわっていくと思います。片付け中には、「次はクリスマスパーティーだ!」なんて声も聞こえてきました。

桐朋学園 初等部同窓会 40周年記念大会 [Ⅱ‐443]

 同窓会40周年記念大会に参加して、たくさんの方たちと会えました。幹事、スタッフ、同窓生の皆さん、ありがとうございました。後日、600人を超える参加者だったと伺い、驚きました。

 会では、『生粋の桐朋っ子』・ピアニスト 矢島愛子さんのピアノコンサートを味わいました。ステキな時間でした。皆さんと、「桐朋数え歌」「おもちつきのうた/桐朋もちつき音頭」「初等部の歌」を歌い、たのしい時間を過ごしました。グランドでは、エイサー、桐朋みかぐらをたのしみました。美ら桐朋、園田青年会(沖縄)の皆さん、ありがとうございました。

 同窓会が発足して40年。桐朋小学校卒業生は2024年度末で6625名、新旧教職員が346名です。たくさんの方が初等部と関わり、初等部をつくってこられたことに感謝いたします。ありがとうございました。

 同窓会結成の際、生江先生は設立趣旨を書かれたことを知り、あらためて趣旨に込められたおもい、考えを大切にしたいと思いました。

 

 桐朋学園初等部同窓会 設立趣旨

 昭和30年4月、産声をあげた初等部も、三十歳の壮年期を迎えることとなった。

 30歳の星霜は、戦後の日本の教育について、数多くの課題を与えてきたが、その間にゆって、桐朋学園は「心の健康」「身体の健康」を目標として、一貫教育、国際教育を軸とし、「ひとりひとりの子どものもつ可能性」をまさぐりつつ、今日に至っている。

 この30年の教育効果として、なによりもまず挙げたいことは、卒業生の名が、それぞれ社会にあって活躍している、ということである。

 この度、30周年を記念して「初等部同窓会」が発足した。遅くに失するという声もあるが、私はそうは思わない。つまり、第一回生の年齢が38歳ということは、社会人としての基礎が固まり、指導性をもつ秋を迎えたことに他ならない。しかも、なかには、初等部に子弟、女子を学ばせておるものも少なくないこともあって、いまや、父母としての初等部への視点も培われているのである。

 私が、新生の「初等部同窓会」には、単なる回想趣味的な集いではく、自他ともに、明日を拓く気概と、母校に対しての鞭撻、指導を惜しまないことであろう。

 この同窓会が、今後の発展を持続することは、即、学園初等部の進展につながるのである。

 ここに「同窓会」発足にあたり、会員それぞれの隆昌を心から期待してやまない。

  桐朋小学校 校長 生江義男

 集った同窓生より、お話を聞きました。相手に働きかけることが苦手だったという人が、現在、子どもに働きかける仕事をしていると伺いました。その人から、「変わったでしょう」と話してくれたことに、心を動かされました。変化の過程をもっと聞いてみたくなりました。

 わざわざ当時の日記帳を持ってこられ、当時の私の拙い返事を見せてくれたり、当時発行した学級通信を大事にしてくださって、それを持ってこられて話してくれた人もいました。私は、当時は一生懸命に取り組んだものの、その内容に恥ずかしい気持ちがして、これから先、自分のしていることはこれで良いのかと問いながら、子どもに向き合い、誠実に実践をしていこうという気持ちを持ちました。ありがとうございました。

 幼稚園や小学校低学年の頃に描いた作品に対して、まわりの友達から「変な色してる~」みたいなことを言われたけれども、先生は「面白いね~! キレイだね~」と褒めてくれ、そうした環境だったから、自分が感じたことを素直に表現していいんだと思うようになり、今も好きなことを続けておられることも聞きました。その人が活き活きと命を輝かせて生きていることを感じ、とても嬉しくなりました。

 好きなことを続けている、自分は現在を大切に生きている。話した同窓生は、そうしたことを感じさせてくれ、たいへん元気になりました。ありがとうございました。

 [桐朋幼稚園を修了した方の声]も紹介します。

〇僕のマークは「カブトムシ」でした。そのマークはかわいかったけれど、実物は怖かったです。ドロケイで遊んだりして、あの頃はとても楽しかったです。できることなら、また幼稚園に戻りたいです。

〇幼稚園で楽しかったのは、毎日園庭で遊んだことです。泥団子を作ったり、ドロケイをやったり、ダンゴムシやモグラの死骸を見つけてみんなでお墓を作ったことも。あと、コマ回しができるようになって、上手く回せるようになったのが、とてもうれしかったです。

 決められたことをするというよりも、やりたいことを自分で見つけて満足するまでそれをやれたことで、自分で選ぶこと、コツコツ積み重ねてできた時の喜びを知ったことは、今の自分にも生きているのかなと思っています!

〇印象に残っているのは、モルモットや烏骨鶏、ウサギを飼育したことです。毎日掃除や餌やりをみんなで分担してかわいがっていました。烏骨鶏が卵を産んだ時はみんな大喜びでした。また、野菜を育てて成長する様子を観察するのも楽しかったです。

 充実した園施設と豊かな自然のなかでの、さまざまな体験を通じて、チャレンジすることや何かに没頭することの楽しさを知れたことは、今につながっていると思います。

〇「型にはめないこと」を、先生方は徹底してくださっていたと思います。幼稚園の劇では女子なのに王子様役をやらせてもらい、小学校では最高学年ではないのに自治で委員長をやらせてもらったりしました。

 正解はひとつじゃないし、「みんな違って、みんないい」。だから、私たちも一般常識にとらわれたり、大人があらかじめ決めた予定やルールありきとは考えない人に育った気がします。まずは自分で考えてみる。いいと思えば自発的に何か始めたり、選ぶ、そんな癖がついたかもしれません。

 多様性、不確実性が高まっているといわれる世のなかでも、「なんとかなる」という自信が自分の心の底にあるような気がしています。それは桐朋の14年間で型を押し付けられない、個々を尊重してもらえる日々を過ごしたからなんだろうな、と思います。

 

 「明日を拓く気概」をもって、今日も園、学校で過ごしています。皆さん、ありがとうございました。またお会いしましょう!

  初等部創立70周年を迎えます

1年生 秋の遠足

 1年生は秋の遠足で、祖師谷公園に行ってきました。一人の欠席者もなく学年全員で行けたことも幸運でした。

 朝、登校した時から子どもたちは早く出発したい様子で「いつ行くの?」「早く行こう!」と張り切っていました。

 学校出発前には公道の歩き方についてや遠足への意気込みを代表の子どもたちが語ってくれました。 そんな出発の会が終わりいよいよ公園へ向けて出発です。体力がついてきたこともあり、非常にスムーズに祖師谷公園までたどり着きました。

 

 公園についてからは秋探しオリエンテーリング→自由時間→昼食・おやつ→自由時間という流れで子どもたちは過ごしました。

 秋探しオリエンテーリングとは、自主編成教材「木のは(主に学校で見られる植物について書かれた説明文です)」と関連付けながら秋に触れる活動です。もちろんグループで行う活動も含まれています。

 事前に木のはで学習していたこともあり、多種多様などんぐりや葉っぱを拾い集めながら、秋探しオリエンテーリングをどんどんクリアしていく子どもたち。無事に秋探しオリエンテーリングをクリアし、自由時間へ。

 

 ブランコで二人乗りをする人、枯草を集めてベッドを作る人、広い原っぱを転げまわったり、氷鬼をしたり。学校ではできないことを、クラスの垣根を飛び越えて楽しみつくしました。

 昼食とおやつの時間は、なぜか始まったおやつ紹介タイムが楽しそうでした。以下で遠足終了後に子どもたちが書いてくれた日記をいくつか紹介します。

 

 

「あのね、こうえんで せみの ぬけがらを みつけてうれしかった。からもってかえって ままが びっくりした。わらをもってきて、たのしかった。でも あめで たべれなかったけど ねころがってたのしかった。」

「あのね えんそくに いきました。とてもたのしかった。やまみたいな ばしょで わらをしいて しきぶとんにしたりした とにかく えんそくが たのしかった。」

「あのね、今日ね、とても待ったえんそくをね やった。ばしょは、そしがや公えんに行ったよ。行ったらね、わらがね、たく山あったから、ベッドをつくった。あと行くのと、かえるのに じかんがかかった。けど、とても、楽しかった。」

「あのね、今日、祖師谷公園にいった。それで、はじめにオリエンテーリングをした。たとえば、どんぐりをひろったり、しゃしんを べんちでとったりした。いちばんたのしかったのは、やまの うえから したまで ころがりおちること。それが おわったら じゆうじかんだった。じゆうじかんでは、べっとを つくったりした。そのあとは、すぐおべんとうだった。おべんとをたべおわったあとは、じゆうじかんだった。どんぐりを ひろったりした。ほかには、ふえおにをした。そのあと、あめがふってきて二十分まえにかえることになった。けど、えんそくは たのしかったから、またいきたい。こんどいくときは、はれてるときにいきたい。あとかえりに、Kと、しりとりをしてかえった。」

 

将来の夢は…「ドリームボックス」

5年生の美術の授業をのぞくと、なにやら人の形をした針金のようなものに、紙粘土をくっつけています。その「人」たちは、座っていたり、踊っていたり、ボールをけろうとしていたり…

子どもたちそれぞれの将来の夢を箱に詰めた「ドリームボックス」の作成中でした。

 

バスに乗っている様子を作っていた人に話を聞いてみると、「70歳になったら、いろいろなところに旅をしたい」なんてことを教えてくれました。将来の夢、たしかにそれもアリ!

5年生の今この時、一人ひとりが作る「ドリームボックス」。その人らしさがあふれ出る作品となりました。

 

 

ヒロシマ修学旅行② [Ⅱ‐442]

 前回のコラム(№441)で、「なぜヒロシマに行くのか」について書きました。

「日本は世界で唯一原子爆弾の被害にあった国です。広島、長崎は80年経った現在でも、そのことに苦しみ続けている人たちがいる地です。その被害の大きさ、残酷さを知り、なぜそのようなことが起きたのか学びます(次回のコラムで報告予定)。また、空襲や原爆などの被害を受けた一方で、日本には他国に対する加害の経験も持っています。未だに中国各地で堀り出される毒ガス兵器が、なぜそこに埋められていたのか。大久野島を見学し、学ぶことで解き明かしていきます。」

 今回のコラムでは、大久野島での学習(修学旅行 3日目)を報告します。

 

  大久野島は、瀬戸内海にある周囲約4キロの島です。忠海港からフェリーに乗って大久野島に着きました。そして、遺跡見学、毒ガス資料館見学、山内静代さんのお話を聞くなどをしました。

 大久野島は、1929年より旧日本軍が秘密に毒ガスを製造し、そのことを隠すために地図から消された島でした。大久野島でつくられた毒ガスは、戦争中に中国で使われ、人々の命を奪い、苦しめました。戦後、中国に毒ガスを遺棄し、人々の命を奪い、苦しめてきました。

 

島内遺跡見学 ―子どもたちが見たこと、聞いたこと、考えたこと

〇発電所の跡は、想像よりはるかに大きく、ここで風船爆弾を子どもたちが作っていたのだと、少し悲しくなりました。

〇幹部用防空壕跡

・幹部用防空壕は、コンクリートでできていて、上に土を盛ってできており、とても強固に造られていた。そしてぼくがインスタントカメラでフラッシュをたいてとった時、中が少しだけ見えた。とても奥行があり、とても広く、幹部の人たちがいかに優遇されていたかを知った。

・めっちゃ幹部が優ぐうされている。普通の人のは地面に穴を掘っただけなのに、奥まで掘って、さらに横にも広がっていて、コンクリートでできてるとか、格差がひどい。

・こんな小さな防空壕で大丈夫だったのか、などとも思いました。先生の話を聞くと、とても深く、その奥に丸くまんじゅうみたいな形をしたものがあるというが、暗くて肉眼では全く見ることができません。国民はこんな立派な防空壕ではなく、土に穴を掘り、そこに土や枯れ葉をかぶすだけで身を守っていたと聞いた時、とても驚きました。軍のえらい人は身を守るものがあるが、国民は自分たちでつくるだけのもので、ひどい差別だと感じた。

〇毒ガス貯蔵庫跡

・本当に多くの毒物をかくしていたことがショックでした。実際に見ると、本当に大きくて、これだけの量を残していて悲しかったです。

左 長浦毒ガス貯蔵庫跡 島内で一番大きい貯蔵庫。巨大な貯蔵タンク跡とコンクリートの台座が残っている。約100トン入るタンクが6基置かれていた。戦後処理の際、毒性を取り除くために火炎放射器で焼き払い、黒くただれた壁面が残る。戦後、ここに残っていた毒ガスは土佐沖に海洋投棄された。(「大久野島遺跡めぐる」大久野島活性化協議会発行 編集 毒ガス島歴史研究所、おおくのしま戦争遺跡の保存を進める会 を参照)

〇毒ガス資料館

・地図から消された時の大久野島の様子や毒ガスの作用と種類、人体実験に使われた方の被害の状況など、衝撃的な内容が多く、日本は被害を受けただけでなく、加害もしていたことを改めて知り、ショックを受けました。この出来事は、決して二度と起こしてはいけない、忘れてはいけないことだと思いました。

 

山内さんの話を聞いた子どもたち

・(当時の学校の)先生が「化学兵器は、人道兵器だ」と言っていたこと。間違ったことを先生が教えるなんて、とてもビックリです。

・(山内さんが、毒ガス製造に関わった藤本さんにお話を聞いて)藤本さんが「化学兵器は、人道兵器」と教わったという事に驚きました。他の工員たちも、藤本さんのように教えられて毒ガスをつくり、病気になっていったと思うと、国の人たちはとてもひどいと思います。毒ガス製造をしていた頃の藤本さんと同じ14歳の時に被害にあった李慶祥さんとの面会は、藤本さんの勇気と李さんの優しさがあったからだと思います。李さんの「日本へのにくしみは、信頼になりました」という言葉にとても感動しました。

・私的には、学校の生徒が先生たちに連れ出され、毒ガスを造らされて、服の間から毒ガスが入り、被害(死者や痛み、病気)が出てしまったりして苦しむということに衝撃を受けました。本当に可哀想だと思いました。

・大久野島のこと、毒ガス被害について、とても理解が深まりました。中国で遺棄された毒ガスのこれまでの被害は学習してきましたが、まだ全て見つかっていないことを知り、これ以上毒ガスの被害にあう人がいないといいなと感じました。毒ガスを造っていた側の被害も大きく、大久野島ではほとんどの人が体調不良になっていたことが怖かったです。何を造るかも知らされず、島自体が地図から消されて戦争に利用されていた大久野島は、昔の日本の被害者であると感じました。日中戦争の中で使われた毒ガスは9万人以上もの被害を出していたことを初めて知り、大久野島を通して日本の加害者としての側面を知れたと感じます。

山内静代さん、山内正之さん、ありがとうございました。

 山内さんは、岡田黎子さんより聞いた話をしてくださいました。岡田さんは、学徒動員で大久野島で働き、直接毒ガスを製造することはなかったそうですが、「気球爆弾」をつくったそうです。岡田さんは、『毒ガス島歴史研究所会報』3号に書いています。

「私は太平洋戦争の末期に大久野島へ学徒として動員されました。私の学童期はずっと戦争中で『軍国主義教育』を受け、戦争するための人間として育てられました。そして学校では、戦争は正しいことだと教えられ、お国のため天皇のために戦争で戦って殺したり殺されたりすることは、日本国民として最も名誉なことだと教え込まれました。

そして、太平洋戦争も末期になってきますと、中学2年生以上の生徒は、軍需工場で働くことが義務づけられました。個人の自由は抹殺され、大久野島で何がおこなわれているのか、戦争の実態はどうなっているのか、真実は何も知らされないまま、無理やり戦争へと巻き込まれていきました」

 

『ぼくは毒ガスの村で生まれた。あなたが戦争の落とし物に出会ったら』(合同出版)より引用させていただき、学習をすすめました。

 2006年5月、吉林省敦化市で小川で水遊びをして事故にあった劉浩さん、チチハル市でドラム缶の毒ガスで事故にあった馮佳縁さんたちが日本にやって来ました。(略)来日の目的は、毒ガス事件の様子や被害者の気持ちを日本人に訴えるためでした。

 校庭のどろんこ遊びで毒ガス事故にあった佳縁ちゃんは13歳になっていましたが、疲れやすく、風邪をひきやすい体になっていました。なかなか病気が治らないために、周囲がこわがり、伝染病ではないかといううわさまでたったといいます。(略)

「少し歩いただけでも呼吸が苦しくなって、疲れてしまいます。3年たった今も、足の痛みはなくなりません。大好きな歌も、すぐにのどが痛くなって歌えなくなりました。声も変わってしまったみたいです。それに、大きな水ぶくれが気持ち悪いといって、友だちが遊んでくれなくなりました。伝染なんかしないのに、大人の人も近づいてきません。とてもさみしい……。長距離選手になりたかったのに……」佳縁ちゃん

 

 午後は、4グループに分かれて活動をしました。

  下左 釣った魚を夕食時に唐揚げでいただきました。

ゴミはどこにいくのだろう?

先週、4年生はゴミの学習の一環で、「クリーンプラザふじみ」 (調布市・三鷹市清掃工場)と、「中央防波堤埋立処分場」に社会科見学に行きました。 

「クリーンプラザふじみ」では、ごみを処分する焼却場の構造などはもちろん、臭いを出さないための工夫や、有害物質を出さないための取り組みも学びました。また、そもそもごみを出さない、ごみとなるものを有効活用でいる方法、「リデュース・リユース・リサイクル」についても学びを深めました。

「中央防波堤埋立処分場」では、ごみを燃やした灰と土を重ねて埋め立てることでの環境への配慮、そしてこれまで埋め立てたところから出た有害水などを処理して、環境にこれ以上負荷をかけないこと、埋め立て地もこのままのペースだと50年ほどでなくなってしまうことなどを学び、最後は子どもたち全員で「こみをできるだけださない宣言」を海に向かって叫んで見学を終えました。

今後、この見学の内容を学習の中でさらに深め、地球に生きる一市民としての生き方を学んでいきます。