投稿者: tohoblog
桐朋学園 初等部同窓会 40周年記念大会 [Ⅱ‐443]
同窓会40周年記念大会に参加して、たくさんの方たちと会えました。幹事、スタッフ、同窓生の皆さん、ありがとうございました。後日、600人を超える参加者だったと伺い、驚きました。
会では、『生粋の桐朋っ子』・ピアニスト 矢島愛子さんのピアノコンサートを味わいました。ステキな時間でした。皆さんと、「桐朋数え歌」「おもちつきのうた/桐朋もちつき音頭」「初等部の歌」を歌い、たのしい時間を過ごしました。グランドでは、エイサー、桐朋みかぐらをたのしみました。美ら桐朋、園田青年会(沖縄)の皆さん、ありがとうございました。

同窓会が発足して40年。桐朋小学校卒業生は2024年度末で6625名、新旧教職員が346名です。たくさんの方が初等部と関わり、初等部をつくってこられたことに感謝いたします。ありがとうございました。
同窓会結成の際、生江先生は設立趣旨を書かれたことを知り、あらためて趣旨に込められたおもい、考えを大切にしたいと思いました。
桐朋学園初等部同窓会 設立趣旨
昭和30年4月、産声をあげた初等部も、三十歳の壮年期を迎えることとなった。
30歳の星霜は、戦後の日本の教育について、数多くの課題を与えてきたが、その間にゆって、桐朋学園は「心の健康」「身体の健康」を目標として、一貫教育、国際教育を軸とし、「ひとりひとりの子どものもつ可能性」をまさぐりつつ、今日に至っている。
この30年の教育効果として、なによりもまず挙げたいことは、卒業生の名が、それぞれ社会にあって活躍している、ということである。
この度、30周年を記念して「初等部同窓会」が発足した。遅くに失するという声もあるが、私はそうは思わない。つまり、第一回生の年齢が38歳ということは、社会人としての基礎が固まり、指導性をもつ秋を迎えたことに他ならない。しかも、なかには、初等部に子弟、女子を学ばせておるものも少なくないこともあって、いまや、父母としての初等部への視点も培われているのである。
私が、新生の「初等部同窓会」には、単なる回想趣味的な集いではく、自他ともに、明日を拓く気概と、母校に対しての鞭撻、指導を惜しまないことであろう。
この同窓会が、今後の発展を持続することは、即、学園初等部の進展につながるのである。
ここに「同窓会」発足にあたり、会員それぞれの隆昌を心から期待してやまない。
桐朋小学校 校長 生江義男

集った同窓生より、お話を聞きました。相手に働きかけることが苦手だったという人が、現在、子どもに働きかける仕事をしていると伺いました。その人から、「変わったでしょう」と話してくれたことに、心を動かされました。変化の過程をもっと聞いてみたくなりました。
わざわざ当時の日記帳を持ってこられ、当時の私の拙い返事を見せてくれたり、当時発行した学級通信を大事にしてくださって、それを持ってこられて話してくれた人もいました。私は、当時は一生懸命に取り組んだものの、その内容に恥ずかしい気持ちがして、これから先、自分のしていることはこれで良いのかと問いながら、子どもに向き合い、誠実に実践をしていこうという気持ちを持ちました。ありがとうございました。
幼稚園や小学校低学年の頃に描いた作品に対して、まわりの友達から「変な色してる~」みたいなことを言われたけれども、先生は「面白いね~! キレイだね~」と褒めてくれ、そうした環境だったから、自分が感じたことを素直に表現していいんだと思うようになり、今も好きなことを続けておられることも聞きました。その人が活き活きと命を輝かせて生きていることを感じ、とても嬉しくなりました。
好きなことを続けている、自分は現在を大切に生きている。話した同窓生は、そうしたことを感じさせてくれ、たいへん元気になりました。ありがとうございました。

[桐朋幼稚園を修了した方の声]も紹介します。
〇僕のマークは「カブトムシ」でした。そのマークはかわいかったけれど、実物は怖かったです。ドロケイで遊んだりして、あの頃はとても楽しかったです。できることなら、また幼稚園に戻りたいです。
〇幼稚園で楽しかったのは、毎日園庭で遊んだことです。泥団子を作ったり、ドロケイをやったり、ダンゴムシやモグラの死骸を見つけてみんなでお墓を作ったことも。あと、コマ回しができるようになって、上手く回せるようになったのが、とてもうれしかったです。
決められたことをするというよりも、やりたいことを自分で見つけて満足するまでそれをやれたことで、自分で選ぶこと、コツコツ積み重ねてできた時の喜びを知ったことは、今の自分にも生きているのかなと思っています!
〇印象に残っているのは、モルモットや烏骨鶏、ウサギを飼育したことです。毎日掃除や餌やりをみんなで分担してかわいがっていました。烏骨鶏が卵を産んだ時はみんな大喜びでした。また、野菜を育てて成長する様子を観察するのも楽しかったです。
充実した園施設と豊かな自然のなかでの、さまざまな体験を通じて、チャレンジすることや何かに没頭することの楽しさを知れたことは、今につながっていると思います。
〇「型にはめないこと」を、先生方は徹底してくださっていたと思います。幼稚園の劇では女子なのに王子様役をやらせてもらい、小学校では最高学年ではないのに自治で委員長をやらせてもらったりしました。
正解はひとつじゃないし、「みんな違って、みんないい」。だから、私たちも一般常識にとらわれたり、大人があらかじめ決めた予定やルールありきとは考えない人に育った気がします。まずは自分で考えてみる。いいと思えば自発的に何か始めたり、選ぶ、そんな癖がついたかもしれません。
多様性、不確実性が高まっているといわれる世のなかでも、「なんとかなる」という自信が自分の心の底にあるような気がしています。それは桐朋の14年間で型を押し付けられない、個々を尊重してもらえる日々を過ごしたからなんだろうな、と思います。
「明日を拓く気概」をもって、今日も園、学校で過ごしています。皆さん、ありがとうございました。またお会いしましょう!
初等部創立70周年を迎えます
1年生 秋の遠足
1年生は秋の遠足で、祖師谷公園に行ってきました。一人の欠席者もなく学年全員で行けたことも幸運でした。
朝、登校した時から子どもたちは早く出発したい様子で「いつ行くの?」「早く行こう!」と張り切っていました。
学校出発前には公道の歩き方についてや遠足への意気込みを代表の子どもたちが語ってくれました。 そんな出発の会が終わりいよいよ公園へ向けて出発です。体力がついてきたこともあり、非常にスムーズに祖師谷公園までたどり着きました。

公園についてからは秋探しオリエンテーリング→自由時間→昼食・おやつ→自由時間という流れで子どもたちは過ごしました。
秋探しオリエンテーリングとは、自主編成教材「木のは(主に学校で見られる植物について書かれた説明文です)」と関連付けながら秋に触れる活動です。もちろんグループで行う活動も含まれています。
事前に木のはで学習していたこともあり、多種多様などんぐりや葉っぱを拾い集めながら、秋探しオリエンテーリングをどんどんクリアしていく子どもたち。無事に秋探しオリエンテーリングをクリアし、自由時間へ。

ブランコで二人乗りをする人、枯草を集めてベッドを作る人、広い原っぱを転げまわったり、氷鬼をしたり。学校ではできないことを、クラスの垣根を飛び越えて楽しみつくしました。
昼食とおやつの時間は、なぜか始まったおやつ紹介タイムが楽しそうでした。以下で遠足終了後に子どもたちが書いてくれた日記をいくつか紹介します。

「あのね、こうえんで せみの ぬけがらを みつけてうれしかった。からもってかえって ままが びっくりした。わらをもってきて、たのしかった。でも あめで たべれなかったけど ねころがってたのしかった。」
「あのね えんそくに いきました。とてもたのしかった。やまみたいな ばしょで わらをしいて しきぶとんにしたりした とにかく えんそくが たのしかった。」
「あのね、今日ね、とても待ったえんそくをね やった。ばしょは、そしがや公えんに行ったよ。行ったらね、わらがね、たく山あったから、ベッドをつくった。あと行くのと、かえるのに じかんがかかった。けど、とても、楽しかった。」
「あのね、今日、祖師谷公園にいった。それで、はじめにオリエンテーリングをした。たとえば、どんぐりをひろったり、しゃしんを べんちでとったりした。いちばんたのしかったのは、やまの うえから したまで ころがりおちること。それが おわったら じゆうじかんだった。じゆうじかんでは、べっとを つくったりした。そのあとは、すぐおべんとうだった。おべんとをたべおわったあとは、じゆうじかんだった。どんぐりを ひろったりした。ほかには、ふえおにをした。そのあと、あめがふってきて二十分まえにかえることになった。けど、えんそくは たのしかったから、またいきたい。こんどいくときは、はれてるときにいきたい。あとかえりに、Kと、しりとりをしてかえった。」

将来の夢は…「ドリームボックス」
5年生の美術の授業をのぞくと、なにやら人の形をした針金のようなものに、紙粘土をくっつけています。その「人」たちは、座っていたり、踊っていたり、ボールをけろうとしていたり…
子どもたちそれぞれの将来の夢を箱に詰めた「ドリームボックス」の作成中でした。

バスに乗っている様子を作っていた人に話を聞いてみると、「70歳になったら、いろいろなところに旅をしたい」なんてことを教えてくれました。将来の夢、たしかにそれもアリ!
5年生の今この時、一人ひとりが作る「ドリームボックス」。その人らしさがあふれ出る作品となりました。

ヒロシマ修学旅行② [Ⅱ‐442]
前回のコラム(№441)で、「なぜヒロシマに行くのか」について書きました。
「日本は世界で唯一原子爆弾の被害にあった国です。広島、長崎は80年経った現在でも、そのことに苦しみ続けている人たちがいる地です。その被害の大きさ、残酷さを知り、なぜそのようなことが起きたのか学びます(次回のコラムで報告予定)。また、空襲や原爆などの被害を受けた一方で、日本には他国に対する加害の経験も持っています。未だに中国各地で堀り出される毒ガス兵器が、なぜそこに埋められていたのか。大久野島を見学し、学ぶことで解き明かしていきます。」
今回のコラムでは、大久野島での学習(修学旅行 3日目)を報告します。
大久野島は、瀬戸内海にある周囲約4キロの島です。忠海港からフェリーに乗って大久野島に着きました。そして、遺跡見学、毒ガス資料館見学、山内静代さんのお話を聞くなどをしました。
大久野島は、1929年より旧日本軍が秘密に毒ガスを製造し、そのことを隠すために地図から消された島でした。大久野島でつくられた毒ガスは、戦争中に中国で使われ、人々の命を奪い、苦しめました。戦後、中国に毒ガスを遺棄し、人々の命を奪い、苦しめてきました。
島内遺跡見学 ―子どもたちが見たこと、聞いたこと、考えたこと
〇発電所の跡は、想像よりはるかに大きく、ここで風船爆弾を子どもたちが作っていたのだと、少し悲しくなりました。

〇幹部用防空壕跡
・幹部用防空壕は、コンクリートでできていて、上に土を盛ってできており、とても強固に造られていた。そしてぼくがインスタントカメラでフラッシュをたいてとった時、中が少しだけ見えた。とても奥行があり、とても広く、幹部の人たちがいかに優遇されていたかを知った。
・めっちゃ幹部が優ぐうされている。普通の人のは地面に穴を掘っただけなのに、奥まで掘って、さらに横にも広がっていて、コンクリートでできてるとか、格差がひどい。
・こんな小さな防空壕で大丈夫だったのか、などとも思いました。先生の話を聞くと、とても深く、その奥に丸くまんじゅうみたいな形をしたものがあるというが、暗くて肉眼では全く見ることができません。国民はこんな立派な防空壕ではなく、土に穴を掘り、そこに土や枯れ葉をかぶすだけで身を守っていたと聞いた時、とても驚きました。軍のえらい人は身を守るものがあるが、国民は自分たちでつくるだけのもので、ひどい差別だと感じた。

〇毒ガス貯蔵庫跡
・本当に多くの毒物をかくしていたことがショックでした。実際に見ると、本当に大きくて、これだけの量を残していて悲しかったです。

左 長浦毒ガス貯蔵庫跡 島内で一番大きい貯蔵庫。巨大な貯蔵タンク跡とコンクリートの台座が残っている。約100トン入るタンクが6基置かれていた。戦後処理の際、毒性を取り除くために火炎放射器で焼き払い、黒くただれた壁面が残る。戦後、ここに残っていた毒ガスは土佐沖に海洋投棄された。(「大久野島遺跡めぐる」大久野島活性化協議会発行 編集 毒ガス島歴史研究所、おおくのしま戦争遺跡の保存を進める会 を参照)
〇毒ガス資料館
・地図から消された時の大久野島の様子や毒ガスの作用と種類、人体実験に使われた方の被害の状況など、衝撃的な内容が多く、日本は被害を受けただけでなく、加害もしていたことを改めて知り、ショックを受けました。この出来事は、決して二度と起こしてはいけない、忘れてはいけないことだと思いました。
山内さんの話を聞いた子どもたち
・(当時の学校の)先生が「化学兵器は、人道兵器だ」と言っていたこと。間違ったことを先生が教えるなんて、とてもビックリです。
・(山内さんが、毒ガス製造に関わった藤本さんにお話を聞いて)藤本さんが「化学兵器は、人道兵器」と教わったという事に驚きました。他の工員たちも、藤本さんのように教えられて毒ガスをつくり、病気になっていったと思うと、国の人たちはとてもひどいと思います。毒ガス製造をしていた頃の藤本さんと同じ14歳の時に被害にあった李慶祥さんとの面会は、藤本さんの勇気と李さんの優しさがあったからだと思います。李さんの「日本へのにくしみは、信頼になりました」という言葉にとても感動しました。
・私的には、学校の生徒が先生たちに連れ出され、毒ガスを造らされて、服の間から毒ガスが入り、被害(死者や痛み、病気)が出てしまったりして苦しむということに衝撃を受けました。本当に可哀想だと思いました。
・大久野島のこと、毒ガス被害について、とても理解が深まりました。中国で遺棄された毒ガスのこれまでの被害は学習してきましたが、まだ全て見つかっていないことを知り、これ以上毒ガスの被害にあう人がいないといいなと感じました。毒ガスを造っていた側の被害も大きく、大久野島ではほとんどの人が体調不良になっていたことが怖かったです。何を造るかも知らされず、島自体が地図から消されて戦争に利用されていた大久野島は、昔の日本の被害者であると感じました。日中戦争の中で使われた毒ガスは9万人以上もの被害を出していたことを初めて知り、大久野島を通して日本の加害者としての側面を知れたと感じます。
山内静代さん、山内正之さん、ありがとうございました。
山内さんは、岡田黎子さんより聞いた話をしてくださいました。岡田さんは、学徒動員で大久野島で働き、直接毒ガスを製造することはなかったそうですが、「気球爆弾」をつくったそうです。岡田さんは、『毒ガス島歴史研究所会報』3号に書いています。
「私は太平洋戦争の末期に大久野島へ学徒として動員されました。私の学童期はずっと戦争中で『軍国主義教育』を受け、戦争するための人間として育てられました。そして学校では、戦争は正しいことだと教えられ、お国のため天皇のために戦争で戦って殺したり殺されたりすることは、日本国民として最も名誉なことだと教え込まれました。
そして、太平洋戦争も末期になってきますと、中学2年生以上の生徒は、軍需工場で働くことが義務づけられました。個人の自由は抹殺され、大久野島で何がおこなわれているのか、戦争の実態はどうなっているのか、真実は何も知らされないまま、無理やり戦争へと巻き込まれていきました」
『ぼくは毒ガスの村で生まれた。あなたが戦争の落とし物に出会ったら』(合同出版)より引用させていただき、学習をすすめました。
2006年5月、吉林省敦化市で小川で水遊びをして事故にあった劉浩さん、チチハル市でドラム缶の毒ガスで事故にあった馮佳縁さんたちが日本にやって来ました。(略)来日の目的は、毒ガス事件の様子や被害者の気持ちを日本人に訴えるためでした。
校庭のどろんこ遊びで毒ガス事故にあった佳縁ちゃんは13歳になっていましたが、疲れやすく、風邪をひきやすい体になっていました。なかなか病気が治らないために、周囲がこわがり、伝染病ではないかといううわさまでたったといいます。(略)
「少し歩いただけでも呼吸が苦しくなって、疲れてしまいます。3年たった今も、足の痛みはなくなりません。大好きな歌も、すぐにのどが痛くなって歌えなくなりました。声も変わってしまったみたいです。それに、大きな水ぶくれが気持ち悪いといって、友だちが遊んでくれなくなりました。伝染なんかしないのに、大人の人も近づいてきません。とてもさみしい……。長距離選手になりたかったのに……」佳縁ちゃん
午後は、4グループに分かれて活動をしました。
下左 釣った魚を夕食時に唐揚げでいただきました。
ゴミはどこにいくのだろう?
先週、4年生はゴミの学習の一環で、「クリーンプラザふじみ」 (調布市・三鷹市清掃工場)と、「中央防波堤埋立処分場」に社会科見学に行きました。
「クリーンプラザふじみ」では、ごみを処分する焼却場の構造などはもちろん、臭いを出さないための工夫や、有害物質を出さないための取り組みも学びました。また、そもそもごみを出さない、ごみとなるものを有効活用でいる方法、「リデュース・リユース・リサイクル」についても学びを深めました。
「中央防波堤埋立処分場」では、ごみを燃やした灰と土を重ねて埋め立てることでの環境への配慮、そしてこれまで埋め立てたところから出た有害水などを処理して、環境にこれ以上負荷をかけないこと、埋め立て地もこのままのペースだと50年ほどでなくなってしまうことなどを学び、最後は子どもたち全員で「こみをできるだけださない宣言」を海に向かって叫んで見学を終えました。
今後、この見学の内容を学習の中でさらに深め、地球に生きる一市民としての生き方を学んでいきます。

保護中: 26年度 入学考査における連絡事項やお知らせ
すごいよ!とうほっ子2年生!「秋の遠足」
先週の金曜日は、待ちに待った遠足でした。遠足に向けて、実行委員会で集まったり、3クラスのまざった6人グループで集まったりして、準備をすすめてきました。
当日の朝、青空がのぞく遠足日和。集合時刻に全員で集まることが出来ました。実行委員が司会の『出発の会』を終えたら、いよいよ出発です。仙川駅から2回の乗り換えを経て、多摩動物公園に到着しました。

前半はみはらし広場に向かって、クラスごとでのぼりました。途中で、フクロウやワシ、コウノトリ、カンガルー、エミューなどに出会いました。子どもたちは目をきらきらさせて、動物を見ていました。コアラ館にも入って、うとうととユーカリの木で眠るコアラも見ました。
みはらし広場では実行委員の声掛けで6人グループごとに集まりました。『はじまりの会』では、「3・2・1ゴー」とみんなで掛け声をかけてから、それぞれのグループでお弁当を食べ、いよいよグループ活動に出発です。6人で昆虫ひろばを目指します。マップリーダーが地図を持ち、時計リーダーが腕時計をつけ、保健リーダーがばんそうこうを持って出発です。これも、「マップを首からかけていつでも確認できるといい」、「時間に遅れないか心配」・・・と、実行委員が考えて出したアイデアがもとになって生まれた役割です。

出発時には「がんばってね!」と明るい笑顔で送り出しましたが、実は、担任団はそろって内心ドキドキ。2年生ならできる!と信じていましたが、全員無事に昆虫ひろばに時間内で来られるだろうか・・・迷子になって、到着できない子がいるのではないか・・・友達と大げんかをしてグループが分裂してしまうのではないか・・・。
そんな大人の心配をよそに、12グループとも迷子になることなく、集合時刻に間に合うようにゴールにたどり着いたのです。しかも、それぞれ見ようと決めた動物もほぼ見られていたとのこと。困ったことに、グループ活動の途中で雨まで降り始めたにもかかわらず、ちゃんと雨具を身に着けて昆虫ひろばに戻ってきました!中には道に迷いかけたグループや、実はけんかになっちゃった人たちもいたようでした。けれど、なんとか話しあったり声をかけあったりしてゴールしたようでした。たくさんの試行錯誤をしていたことを感じました。『おわりの会』ではたくさんの人が手を挙げて感想を話していました。

小学校に入学して4回目の遠足。はじめは、「喜多見ふれあい広場」まで歩くのが精いっぱいで、帰りは手を引いて学校まで戻ってきたのが思い出されます。それが、今は自分たちだけで地図や時計を見ながらゴールまで来られるなんて・・・。すごいよ!とうほっこ2年生!と成長が嬉しくなりました。
朝のしぜんひろばで
朝の会にしぜんひろばで遊ぶ「朝しぜん」という活動をしているクラスがあります。
先週のある日は、3クラスが「朝しぜん」。秋のひんやりとした空気に大人は思わず「寒い!」と縮こまってしまいますが、子どもたちは出るなり鬼ごっこを始めたり、ブランコに乗ったり、木登りをしたり、元気に走り回っていました。

今のしぜんひろばは、キンモクセイの花が満開でとてもいい香り。花の匂いをかいでいる人もたくさんいました。他にも柿の実が大きく育ってきているなど、季節の進みを感じます。もう少しすれば、大モミジの木は赤く色づいていくことでしょう。
季節の移り変わりを肌で感じながら、体を思い切り使って遊ぶ「朝しぜん」。素敵な活動です。


ヒロシマ修学旅行➀[Ⅱー441]
修学旅行に行ってきました。
たくさんの方にお世話になり、ありがとうございました。

私たちは、願いを持ち、平和学習をすすめています。
1 どうしたら平和な世界をつくることができるのか
80年前(まで)、日本は悲惨な戦争を経験しました。その反省の上にたち、「戦争で誰も傷つくことのない日本」をつくろうとしてきました。
しかし、いま現在も世界各地で紛争、戦争があり、日本も巻き込まれる可能性も全くないわけではありません。そのような中で歴史を学び、どうしたら平和な世界をつくることができるのかを考えます。
2 なぜヒロシマに行くのか
日本は世界で唯一原子爆弾の被害にあった国です。広島、長崎は80年経った現在でも、そのことに苦しみ続けている人たちがいる地です。その被害の大きさ、残酷さを知り、なぜそのようなことが起きたのか学びます。
また、空襲や原爆などの被害を受けた一方で、日本には他国に対する加害の経験も持っています。未だに中国各地で堀り出される毒ガス兵器が、なぜそこに埋められていたのか。大久野島を見学し、学ぶことで解き明かしていきます。
3 現場に足を運ぶ、体験者に直接話を聞く。本物に触れる学びを
私たちは、直接現場に行く、体験した人に話を聞く、実際にやってみる学び方を大切にしています。
ヒロシマでは、年々被爆者の方が高齢化してきて、体験した話を聞くことが難しくなっています。そのような中でつらい体験を勇気を振り絞って証言してくださる被爆者の方から、直接お話を伺える機会を持てるということはとても貴重なことです。
4 世界の平和に向けて
戦争は多くの悲しみを生み、関わった人間すべてを不幸にします。しかしながら、人類はいまだにこの戦争という不幸をなくすことができていません。私たちは過去と現在の戦争について学び、この世界の未来において戦争をなくす努力をしていかなくてはなりません。
桐朋小学校では、一人ひとりが、仲間とともに、その努力をすすめる担い手になってもらいたいと願っています。子どもも大人も関係なく、共に学び、あらゆる人がお互いを認め合い、尊重しあいながら平和に暮らせる世界を共に築いていきましょう。
ヒロシマでの学びは、その大事な一歩となるはずです。
1日目 爆心地などの見学

自分で選んだ碑の写生

笠岡貞江さん(90代)より被爆証言を聞く

平和記念資料館を見学
平和公園の碑めぐり、本川小学校の見学

宮島散策 厳島神社などの見学

大久野島 島内遺跡めぐり

毒ガス資料館の見学
山内さんのお話を聞く
大久野島では、「毒ガス被害死没者慰霊式」が行われていました。慰霊式に向かう船で、毒ガスに関わる証言をしてくださった故 村上初一さんのパートナーに約30年ぶりにお会いしました。
山内さんは、大久野島での出来事を、毒ガス製造に動員された岡田黎子さん(90代)のことも話してくださいました。
岡田さんから山内さんへ平和のバトンを、山内さんから私たちが平和のバトンを繋いで、平和を築いていきたいと思います。つづく
熱の伝わり方は?
5年生の理科では、ガスバーナーを扱った実験を行っています。
火を扱うということで、安全には細心の注意を払います。

今は「ものの温まり方」という単元を学習しています。ガスバーナーを使い、水や空気を温め、その温まり方を調べてきました。
今回は、固体である金属の板を温めるとどのように温まっていくかを実験。正方形の板も、コの字の板も、同じように温まることがわかりました。
ガスバーナーの使い方を身につけることができたということで、次は「三態変化」の学習に入っていきます。どんな実験をするか、楽しみです。
