みんなで石拾い

いよいよ運動会まであと1週間。今週の初めに、安全に練習ができるよう全校のみんなでグラウンドの石拾いをしました。

1年生は5年生のパートナーと、2年生は6年生のパートナーと、対抗競技に向けて顔見知りになっている3年生と4年生とでたくさん拾いました。

来週からは運動会特別時間割が始まります。日曜日の本番に向けて、みんなで頑張りましょう!

 

 

2026年度考査の出願情報登録を9/26(金)正午より開始します

本校をご志望くださる皆様

〇志願者の情報登録と、志望動機書のダウンロードについて

9月26日(金)正午より志願者の事前登録が可能です。

トップページに掲出されている【出願はこちら】の緑色の案内バナーをクリックして、出願サイトにアクセスしてください。※26日正午まではバナーをクリックしてもサイトに進めません。

事前にご入力いただきますと、出願時の手続きがスムーズです。

事前登録をお勧めいたします。

なお、出願は10月1日(水)0:00~10月3日(金)23:59です。

よろしくお願いいたします。

 

桐朋小学校 教務

いま、戦争と平和に向き合うこと [Ⅱ‐437]

 9月24日の朝日新聞は、「パレスチナ承認150カ国超」「世界がパレスチナに目を」「国家承認 市民から歓迎の声」などの見出しで、本文は「パレスチナ自治区ガザでの人道危機が極めて深刻化するなか、侵攻を続けるイスラエルに圧力を強める狙いがある」などと書かれています。破壊し、命を奪い続ける戦争。痛み、苦しみ、悲しみ。何としても止めなくてはなりません。

 

昨年度6年生が広島でスケッチし、ことばを書いたポスター

 先週、今年も広島から被爆体験伝承者の山岡美知子さんが桐朋小へ来て、6年生、保護者、教員に話をしてくれました。私たちは、毎年、山岡さんに学んでいます。広島修学旅行では、山岡さん、山口さんをはじめたくさんの方に碑めぐりガイドをお願いしています。

 被爆体験伝承者は、被爆者の高齢化が進み、被爆体験を話される方が少なくなってきている中、将来にわたり被爆者の体験や核兵器廃絶と平和への思いを語り継いでいくことが必要であることから、広島市が2012年度から開始した「被爆体験伝承者」養成研修に参加された方です。山岡さんは、その1期生。2008年から原爆ドーム周辺で被爆の実相を伝えるボランティア活動をはじめ、被爆体験伝承者としては2015年から活動をされ、全国の学校、桐朋小へ来てくださっています。皆さんのところへもぜひ!

 

9月22日、広島から山岡さんが来てくださいました

 ここからは「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー 受け継ぐVol. 14」(2018.5.17)での山岡さんのことばにも学んで書いてみます。

 山岡さんは、ピースボランティアとして平和記念資料館や平和公園をガイドし、被爆体験伝承者1期生として国内外の人たちに被爆の実相を伝えて続けています。

 山岡さんは、ボランティア活動を始めて、被爆の実相について勉強をすればするほど、詳しい情報が知りたいと思うようになりました。今回のお話も、ご自身が学びを深め、より詳しい内容をわかりやすく話してくださいました。山岡さんは、知れば知るほどこれは後世にきちんと伝えていかないといけないという気持ちになり、戦争や歴史についても自分がしっかり学んで考えておられます。

 山岡さんは、伝承者は客観性をもって正しく情報を伝えていくことが重要であると考えて、例えば「原爆による熱線は3000-4000度です。鉄の溶ける温度は1500度。皆さん考えてみてください。どのくらいの温度だったでしょうか。」…と、ここで話を止めません。聴衆の想像にお任せしてしまうことになることをせず、「熱線が出た時間は0.2~3秒。一瞬です。熱線があたっていない場所はやけどにはなりません。」と、事実を伝えていこうとされています。

 新しい情報をインプットするために、広島に関することが書かれた新聞やインターネットの記事には常に目を通すようにしているそうです。ただし、掲載されている情報は鵜呑みにせず、最終的に自分が調べたことを資料館の学芸員などに確認をしていただき、自分の話に取り入れるように心がけておられるそうです。

 ご自身は体験をしておらず、被爆体験を聞くだけで、被爆者の想いまで継承できているのか不安になることがあるそうです。話を補うために、伝承活動で使う資料の中に被爆者ご自身が描いた絵を多く取り入れています。今回もたくさんの絵を見せてくださいました。私は一つひとつの絵にとても心をゆさぶられました。山岡さんは、その絵を通して被爆者の想いを感じ取っていただけないだろうかと考えています。

 

「私はこれからも、無差別にたくさんの方が犠牲になった原爆の事を原爆ドームの前で伝えたいと思っています。」 [Ⅱ-174]を再掲載

 今年の修学旅行も、被爆証言の会の山岡美知子さんたちに平和公園碑めぐりをお願いしました。たいへんお世話になりました。以前に、山岡さんが教えてくださったことを本コラムに掲載させていただきます。 

 原爆ドームの前で

               被爆2世 山岡 美知子

 最初に、私が原爆ドームの前で英語ガイドを始めた理由を述べたいと思います。私は7年前主人を亡くしました。二人の子どもはそれぞれ結婚して家庭を持っていました。私はそれまでの自分の人生を振り返り、その後何を糧にして生きたら良いのかを考えていました。ちょうどその時、友達に平和公園でガイドをしないかと誘われて、ガイドのようなことを始めました。

 私は広島で育ちながら、両親が被爆者で母の妹が原爆で亡くなったこと以外、原爆についての知識は全くと言っていいほどありませんでした。

 学生時代、私は英語が大嫌いで、英語からは完全に逃げていたように思います。広島平和記念公園には、驚くほど多くのの外国の方が来られていました。私は英語できちんとガイドをしたいという思いを抱くようになりました。しばらくして、毎日英語でドームの前でガイドをしていた、

 胎内被爆者で元高校英語教師の三登さんと出会いました。この出会いをきっかけに、英語の勉強も少しずつ始めましたが、なかなか思うようにいかず、何度かやめようと思いました。でも、原爆のことをあまりよく知らないままでガイドをスタートしたのですが、私のぎこちない英語での説明でも一生懸命聞いてくださるので、ガイドを続けることができたのです。しかしある日、外国の方に、「家族に被爆者はいるのですか」と尋ねられました。「います」と答えると、「なぜその事を伝えないのですか」と言われ、私ははっとしました。それ以後は必ず母の被爆体験を話すようになりました。

 さて、英語が大嫌いな私がなぜ英語で被爆の実相や母の被爆体験を説明することができるようになったかを述べます。最初は中学校で習う基本的な文法、例えばbe動詞と一般動詞の違いや受動態さえもわからない状態でした。何回も同じ文を音読して、ただただ覚えるだけでした。質問されても聞き取れず、意味も分らず、笑ってごまかしていました。これではいつまでたっても前に進まないと思い、聞き取れない質問は紙に書いてもらい、三登さんにその質問の意味や答えを英語で教えてもらいながら、ガイドの勉強を続けました。最初は、簡単な英単語で説明していましたが、適切な単語を使わなければ、伝わらない事がわかり、難しい単語も覚えるようにしました。そうするうちに、外国人のあらゆる質問に答えたい、英語で私の思いをきちんと伝えたい、ここ広島で起きた事を説明して核兵器の恐ろしさを伝えたいという思いが強くなってきました。この思いによって、英語が上達していったのだと思います。学生時代には、英語は私にとっては入試のためだけのものでしたが、今では自分の思いを伝える大切な道具になりました。

 パソコンもできない私でしたが、原爆のことを伝えたい気持ちが人一倍あり、今でも夜遅くまで、パソコンや英語の勉強を続けています。パワーポイントを使って母の被爆証言ができるようにもなりました。

 この7年間で約90カ国、1万人の外国の方に原爆の実相や母の被爆体験を伝えていました。来年4月の末には、2015年NPT再検討会議に出席のためにニューヨークへ行きます。初めての参加ですが、原爆のこと母の被爆体験を伝えたいと思っています。

 私は英語でガイドを続けて本当によかったと思っています。もし一人でガイドをしていたら、今日まで続けることはできなかったでしょう。10人のガイドの仲間がいたからこそ続けられたと思うし、三登さんが私の英語の支えになってくれたことに感謝しています。ガイド仲間からは、一人では得られないような原爆に関する情報や最近の世界状況について、得ることができました。今でもお互いに情報を交換して研修をしています。

 私は広島市の被爆体験伝承者の1期生です。3年間の研修を終えて、来年度から被爆体験伝承者として広島市から委嘱されて、被爆の実相や母の被爆体験を日本語と英語で話をします。被爆体験のない私ですが、被爆者の思いや、被爆の実相をきちんと伝えたいと思っています。

 次に私の母の被爆体験をお話します。母と母の妹は親元を離れて、爆心地から3.5km離れた所で生活していました。母は20歳、妹は中学1年生でした。

 8月6日の朝、母の妹は爆心地から1,2kmで行われる建物疎開作業に行きました。原爆が爆発した時、家の中にいた母は爆風で飛ばされて気を失いました。時間ははっきりと覚えていないそうですが、気がついて外へ出て見ると、あちらこちらからうめき声が聞こえました。広島市の中心を見たら、黒い煙でおおわれ、火災がいたる所で発生していました。中心部から沢山の人が逃げてきていました。その様子はお化けのようだったそうです。ほとんどの人は、何も身に着けておらず、中には腕の骨が見えている人もいました。皮膚も肉も全部ぶらさがっており、「助けて、助けて」と言いながら避難していました。体は、すすで真っ黒になって、皮膚はまるでボロ布のように下がっていました。母の眼の前で何人も何人も倒れて亡くなったそうです。「怖かった!本当に怖かった!」と母は言っていました。母は帰ってこない妹が心配でたまりませんでしたが、火事のために市内中心部に入る事は出来ませんでした。その日の夜も、市内は赤々と燃え続けました。

 母は、今でも赤く染まった夕焼けを見るたびに、原爆の事を思い出すそうです。母だけではありません、多くの被爆者が、ふとした時、あの場面、あの状況を思い出すそうです。今でも、原爆ドームを見たくない、平和記念公園に行きたくないと言う被爆者もいます。

 次の日には、火災はほとんど収まっていました。爆心地から半径2km以内は幾つかのコンクリートの建物を残しほとんどの木造建築は爆風で壊され、そのあと発生した火事で焼け野原になりました。母は帰って来ない妹を捜すため、市内中心部の建物疎開現場に行きました。市内中心部は瓦礫と死体でいっぱいでした。その恐怖の中で妹を必死で捜しましたが、あまりにも沢山の死体で、足が前に出なかったそうです。死体を素手で起こしては顔を確認し、その当時胸に名前・住所を書いた布を服に縫いつけていた名札を目当てに、妹を捜したそうです。母だけではありません。皆、家族や友人を必死に捜していました。焦げた死体に白く光るものがあるので近づいて見ると、ウジ虫だったそうです。まだ生きている人の傷口にもウジ虫がわいていました。母は、焼け野原になっている市内で、偶然にも娘達を捜している父親に会ったそうです。父親は、母の無事な姿を見て本当に喜んだそうです。二人は別々に妹を捜しました。

 母の足元で「水、水」と助けを求めて、かすかな声でじっと見つめる被爆者の姿は、忘れたいけど忘れることができないと言っています。水をあげると、ショック死するから与えないで、と言われていたそうです。「水をあげればよかった!」と、いつも母は涙を流して私に言います。「助ける事もどうする事も出来なかった。何にも出来なかった」とも言っていました。

 母は、あちこちで死体が焼かれている市内を、妹の名前を呼びながら捜し歩きました。死体を焼く臭いは、本当にくさかったそうですが、人間って不思議なもので、少しずつその臭いに慣れたそうです。そうするうち、母は妹が通っていた学校の生徒は広島湾に浮かぶ似島に運ばれたという話を聞きました。戦争中、似島は検疫所があったので、たくさんの被害者が似島に連れて来られたそうです。8日、ようやく島にいる妹を見付けて自宅に連れて帰りましたが、2日後に亡くなったそうです。

 母は、家の近くの空き地に穴を掘って妹を火葬しました。そのため、お墓の中に遺骨を納めることができました。親戚の人が、「あんたの所はいいね。うちのお墓の中には、遺骨が入っていない。原爆死と書いているだけよ」と言います。このように、広島のお墓には、遺骨が見つからないために何も入っていないお墓がたくさんあります。どこでどのように死んだのか、いまだに分からないのです。

 今、平和記念公園になっている地域は、当時は約4,400人が暮らしていた町でした。それが、一発の原爆で人々はほぼ全滅し、町は焼け野原となりました。戦後、そこに土を盛って、平和記念公園が造られました。地域内にあった大きな遺骨は原爆供養塔の中に納められていますが、小さなお骨はまだ公園の下に眠っているそうです。そういう意味で、平和記念公園は大きなお墓だと私は思っています。よく広島はきれいに再建されたね!と言われますが、まだどこかで遺骨が眠っているかもしれません。広島は、まだまだ犠牲になった方の想いが残っている場所だと思います。

 施設に入っている89歳の母は、今は話ができる状態ではありませんが、「広島は地獄のようだった。表現する事はできないし、その情景をみた人しかわからないだろう・・・・」とよく言っていました。

「過去を振り返らない者は、同じ過ちを繰り返す運命にある」という言葉があります。多くの人々が、戦争で亡くなり、傷つき、苦しみました。取り返しのつかない過去の失敗を繰り返さないためにも、「歴史を勉強し、過去をふり返ること」は大変重要な事です。

 私はこれからも、無差別にたくさんの方が犠牲になった原爆の事を原爆ドームの前で伝えたいと思っています。

待ちに待った外遊び!

2学期になっても暑い日が続き、熱中症予防のため外遊びがなかなかできない日が続いていました。

ところが先週の後半あたりからようやく季節が進み、秋めいた気候になってきました。そして昨日は久しぶりにグラウンドに旗が出されず(旗が出ていると休み時間に遊べないという決まりになっています)、休み時間や放課後、たくさんの人たちが外で元気に遊んでいました。

 

これから気持ちのいい秋のお天気が増えていくことでしょう。外で思い切り体を使って、たくさん遊べるといいですね。

  

 

 

どれにしようかな~

3年生の理科では昆虫の学習を始めています。

最初の授業では、知っている昆虫の名前をたくさん出し合って盛り上がりました。聞いたことのない長い名前も出され驚きました!

まずは昆虫のことを知るために、本を見て観察する虫を決めます。本当にたくさんの種類があるので、子どもたちは選ぶことにも一苦労。チョウばかりが載っている本を見ていた人は「きれい~」とうっとり。

昆虫が好きな人も、そうでない人も、昆虫のことを知り、魅力を1つでも見つけられる学習になるといいです。

 

 

運動会に向けて

運動会が近づいてきました。各学年、1学期から取り組んでいる民舞の練習や、対抗競技の練習に力が入っています。

対抗競技は低学年、中学年、高学年、というようにブロックごとに分かれて行います。特に中学年と高学年は子どもたちと話し合う中でルールを変えていったり、作戦を立てたり、上級生がリードして行っていきます。

今日は中学年ブロックの様子を紹介します。

中学年ブロックはまず出会いから。同じチームになるメンバーということで、いきなり競技の練習から入るのではなく、一緒にお弁当を食べたり遊んだりして、お互いのことを知ることから始めました。

 

4年生がやりたい遊びを聞き取ったり、遊びの企画を立ててくれたりして、3年生は「もう班の人の名前覚えたよ!」と嬉しそうに話していました。とても楽しい時間を過ごすことができたようです。

朝の会の時間には、ルールの変更について、4年生の係の人が伝えに来てくれる場面もありました。

来週はいよいよ実際の競技をやってみます。やってみると色々と気づくことがあります。気づいたことについてはまた話し合いをして、ルールの工夫や作戦につなげていけるといいです。

そして何より、3年生と4年生が力を合わせて楽しく取り組める競技にしていきたいですね。

 

運動会見学会のお知らせ(年中児家庭限定)

本校にご興味をお持ちくださる皆様

 

桐朋小学校 運動会見学会を以下の通り開催します。

 

〇日時

2025年10月5日(日)

 9:40~ 受付

 10:00~10:50 見学

・正門よりご入場いただき、案内に従って受付場所にお越しください。

・上履きや靴袋等は必要ありません。

 

〇内容  

民舞発表の一部をご覧いただきます。

 

〇受付開始日  9月18日(木) 正午から

・本ホームページ「説明会・体験会予約画面」よりお進みください。

・お子さんのお名前でお申し込みください。1家庭、2名までご入場いただけます。(お子さんも1名としますが、未就園児は人数に含めません)

・男女の枠がございますので、お間違えのないようにお手続きください。

 

※運動会が雨天延期の場合、本イベントは中止となります。

 運動会実施の可否は、当日朝7:00にホームページ上に掲載します。

 ご確認の上、ご来校ください。

 

 


〇お願いとご案内

※本校の説明会にお申込みいただくには「miraicompass(ミライコンパス)」サイトでのユーザー登録が必要です。

事前に準備しておいていただくと、お申込みがスムーズにできます。

※すぐに満席になることも予想されます。その場合ご容赦ください。

※ご都合がつかなくなった場合はホームページよりキャンセルのお手続きをお願いします。(キャンセル待ちはございません。どなたかがキャンセルした場合にのみ空席になり、その場合のみ予約が可能です。ご協力お願いいたします。)

※説明会後にミライコンパスマイページよりアンケートの送信をお願いします。これによりご参加の確認をさせていただきます。

 

皆様のご来校をお待ちしております。

 

桐朋小学校 教務

6年生との授業「トピックス」 [Ⅱ‐436]

 宮原先生、武藤先生がされていた、6年生と授業「トピックス」を引き継いでいます。私自身の学びの時間で、いろいろなことを教えてもらっています。

 9月2日の授業では、「防災の日(9月1日)」関連を取り上げました。1923年関東大震災について当時の写真を見て考えました。南海トラフ沿い巨大地震の歴史を調べて、1605年慶長地震マグニチュード(以下、Мとします)7.9、1707年宝永地震М8.6、1854年安政南海地震М8.4、安政東海地震М8.4、1944年昭和東南地震М7.9、1946年昭和南海地震М8.0とあり、М8クラスの巨大地震が90~150年おきという周期性を捉えました。

 どうしてこんなに日本は地震が多いのでしょうか。科学の成果、「プレートテクトニクス」についても学びました。そして、地震の備えについてみんなで考え、話し合いました。

 2011年、東日本大震災については、私が宮城県の大川小学校に行って見たことを伝えました。それから、2025年9月1日の写真(朝日小学生新聞9月2日掲載「関東大震災から102年 東京などで追悼式典」記事)も見てもらいました。碑に書かれていることばをもとに忘れてはいけないこととは何かを考えました。朝日小学生新聞を読んでいる人もいて、この記事のことを話してくれた人がいました。 

 写真は、9月8日、スリランカよりいらした飯塚淳子さん

 9月7日、今後に取り組む「自分史」について、先輩の書いたものを紹介しました。

「…僕がお腹にいる間、お母さんはずっとお腹がすいていて、いつも何かを食べていました。仕事場で、/「そんなに食べるんですか?!」/と驚かれたり、それまではご飯党だったのに、急にパンばかり食べるようにもなり、生まれてきた僕がパンが大好きだったので、(お腹のなかの赤ちゃんがパンを食べたがっていたのかな)と思ったそうです。

 お母さんはお腹の赤ちゃんのことばかり考えていて、よくおっちょこちょいをしました。病院の健診に財布を持たずに出かけたり、銀行でおろしたお金をそのまま置いてきたり。電車にもよく乗り遅れたそうです。…」

「…ぼくは生まれてからすぐ救急車で大病院に行きました。理由は……。生まれて生後十日入院してしまいました。両親は初めてのことで、大病院に行くのをとても心配してくれたそうです。それに救急車で搬送中、古い救急車しかなく、古い救急車は道の段差を越えるたび飛ぶため、救急車の中のケースの中にいる僕がはねるため、二人がかりでケースを押さえていました。父は、生まれたばかりの子がこんなことになってよいのかと思ったそうです。…」

 記憶にない生まれる前のことを聞いてみる、生まれて間もない頃のことを聞いてみる、心にずっと残っていることを聞いてみるなど、取り組んでほしいと思います。

 飯塚さん、サリーを着て、バナナを見せて話してくださりありがとうございました。

 「自分史」とつなげて、命のことも考えました。教材は、小学生が書いた詩や作文です。『子どもたちの日本国憲法3 「人間らしく生きる」』(日本作文の会編、新読書社)を学んで、6年生に紹介しました。そのうちの一つを掲載します。

 

  赤ちゃんが生まれる

     高知県 小学四年 浅野 ゆうき

「ゆう、早よう、手つだって。」

テレビを見ているとお母さんがあわてて、よびました。

「なに。」

とふしぎに思いながら行きました。

 台所の近くで、犬のスーザンが赤ちゃんを産みかけていました。スーザンは、足のとっても短くて、どうの長い、ダックスフンドです。だから、おなかの大きいスーザンは、足がおなかに、めりこんだように見えます。

 スーザンは、血をぽたぽた落としていました。わたしは、赤ちゃんは、頭から出てくると思っていたから、足から出てきたので、びっくりしました。さか子で、おしりから先に出てきました。お母さんが、どうを持ってひっぱるので、(そんなにがいに*ひっぱって、だいじょうぶやろか。)と不安に思いました。何回かひっぱって、やっとすうっと出てきました。(よかったぁ。)とほっとしました。 *そんなにがいに=そんなに強く

 タオルでくるんで、へそのおを、糸でくくって、はさみでのこった先を切りました。タオルでこすって、あたためました。

「クウ、クウ。」

と赤ちゃんが、お母さんをさがしながら、泣いています。目は、閉じたままです。心配に思ったスーザンは、赤ちゃんをなめに行きました。

 次に三十分ほどたって、また、赤ちゃんが生れそうです。

 次の赤ちゃんもさか子でした。スーザンは、少し力を入れるけど、なかなか赤ちゃんは、出ません。とうとうりきむのを、止めてしまいました。ぐっと力を入れて、ひっぱるけど、出てきません。頭がひっかかったままです。体をひっぱるので、(頭がのく*。)と思って、こわかったです。スーザンは、ぐったりして、ふうっと、力をぬいていて、ぜんぜんりきまないのでこまりました。(どうしよう。)と思いました。 *頭がのく=頭がぬける

「お母さん、だいじょうぶでねえ*。」 *だいじょうぶでねえ=だいじょうぶかな

と泣きそうな声で聞きました。

「わからん。ぜんぜんりきもうとせんき。」

と、こまった声で言いました。わたしは、

「スーザン、りきんで、お願い、りきんで。」

と何度も言いました。ときどき、クーとりきむけど、すぐに、止めてしまいます。

 ずっとひっぱりました。

 やっとすうっと出た時は、

「やったあ。」

(スーザンよかったねえ。長い時間、ずっとがまんしたねえ。)とうれしく思って喜びました。お母さんも、

「がんばったねえ。がんばったねえ。」

とうれしそうに言っていました。

 でも様子がおかしいです。ふつう、だかれると、小さな声で、クウクウ泣くけど、ぜんぜん泣きません。それに、ぐたあとしています。それは、長い間おなかの中にいたからです。お母さんが、

「ゆう、タオルであたためて。」

と、あわてて、おこったように言いました。かた手で、だいて、かた手で、タオルを持ってあたためます。それでもだめでした。

「いやあ、死なんとってえ。」

と泣きそうな声で言いました。すると、お母さんが、子犬の鼻に口をあてて、つまっている水を、

「ズーズー。」

とすい出しました。

(うわあ。犬の鼻に口をつけて、病気にならないのかなあ。気持ち悪い。)と思いましたが、お母さんが必死なので、(すごい、がんばれ!!)と心の中でさけんでいました。

 一分ほどすい出すと、子犬が、

「クックッ。」

と声を出しました。箱に入れると、さっきのがうそみたいにバタバタしていました。わたしは、子犬をここまで元気にしたお母さんのことを(犬のお医者さんみたいだなあ)と思いました。お母さんは、とってもうれしそうに、にっこりしていました。

 それからまた、赤ちゃんが生まれそうです。もうだいたいなれたのか、あまり思いっきりひっぱらなくても、出てくるようになりました。

 全部で四ひき生まれました。赤ちゃんは、元気で、よくスーザンのおっぱいをちゅばちゅばすっています。

 二、三日たつと、子犬は、一回り大きくなりました。みんなとちがって、体の小さな子犬は、犬用のほにゅうびんで、だいて飲ませました。ほにゅうびんのちくびのところを、自分の力ですわせます。こつのわかってきた子犬は、それをくり返し飲みました。

 ねる時は、みんな重なって、ぎゅうぎゅうづめで、ねていました。そんなところを見ると、本当に、みんな死なないでよかったと思いました。あの、死にかかっていた子犬も、他の子犬と同じぐらいの大きさに、育ちました。歩く時は、ばたばたと、おもいっきり、足をうごかして、今は、どの子犬だったかも、わからないほど大きくなりました。

(『子どもたちの日本国憲法3 「人間らしく生きる」』日本作文の会編、新読書社より)

 子どもたちの感想から

〇スーザンの赤ちゃんがぜんぜん泣かないときに、お母さんが子犬の鼻に口をあてて、つまつている水をすい出したのがすごいなあと思った。ぼくだったら気持ち悪くてできないかもしれないです。

〇犬もいのちがあって、人間とおなじ苦労をして、子どもを産むということに少しびっくりした。犬はかわいいけど、犬も苦労しているのがわかった。

〇私も犬をかってるから、すごいと思った。うちの犬は、赤ちゃんを産めないようにする手術をしたから、産めないけど、出産する時スーザンすごくいたそうだった。

〇人間でも犬でも生まれる時のつらさ、生まれた後のよろこびが同じなんだなあということを感じました。最後にスーザンたちがじゃれあっている場面で、生きるということを改めてすごいことだと思いました。

〇ぼくが一番驚いたのは、お母さんが犬の鼻の中の水を吸いだしたことです。正直気持ち悪かったけど、それによって赤ちゃんが助かってすごいと思いました。さらには、りきむのが大変だったり、生命が誕生するのは本当に難しいんだなと思った。

 まだまだたくさんの人が「赤ちゃんが生まれる」への感想を伝えてくれました。ありがとう!

 夏に学んだ場所

みかぐら練習中!

先週、3年生は久しぶりの専科体育の授業がありました。

運動会に向けてみかぐらを練習中の子どもたち。

1学期にそれぞれ好きな色の扇を選び、錫杖(しゃくじょう)を作り、踊りの練習も着々と進んでいます。

今回は新しく「大ジャンプ」という部分を習い練習しました。みかぐらで一番盛り上がる部分です。

難しいけれど、繰り返し何度も踊って頑張りました。

 

引き取り訓練を行いました

今週の水曜日、災害時等に備えるための引き取り訓練を行いました。

今回は大きな地震が起き、その後おうちの方に引き取りに来ていただくことを想定した訓練です。

毎年行っている訓練ですが、緊張感をもって臨めたでしょうか?

子どもたちはこれを機に、災害が起きたときの行動などを、おうちの人と一緒によく話し合えるといいなと思います。

保護者の方も、暑い中ありがとうございました!