投稿者: tohoblog
ロマナ・ロマニーシンさんとアンドリー・レシヴさんの来校➁ [Ⅱ-361]
9月22日、『戦争が町にやってくる』(ロマナ・ロマニーシン、アンドリー・レシヴ作、金原瑞人訳、ブロンズ新社、2022年)に関わる人たちが桐朋小学校に来てくださり、6年生との授業をつくってくださいました。ありがとうございました。今回、6年生の人たちが、ロマナさん、アンドリーさんのお話を聞いて、感じたこと、考えたことを紹介させていただきます。

- 〇戦争は許される事ではない。/今回のお話でそう感じました。アンドリーさんたちは、物語と同じように、ダーンカたち(物語の登場人物ー中村)と同じような気持ちで過ごしている。そう思いました。/戦中でも笑顔でいて、日常を大切にしているのが、自分にはできない事を大変な中で実行していてすごいと思いました。/アンドリーさん、ロマナさんは、戦争を体験したからこそ、この本を書いてくれて、世界中に戦争を『やってはいけない』ということを、本を通して伝えてくれています。/本は、自分の思っている事が世界に届く、フシギなものです。まずは身近な人から、世界各国に広がっていく、ワクワクしたり、ドキドキもまじり広がる橋のようなものです。/この本を聞いて、見て、心に残るからこそ、本物の物語というものができる、広がっていくと、私は思っています。
- 〇ウクライナで起こっていることを教えてくれてありがとうございます。/僕はニュースやネットで、ウクライナの戦争のことについて少し知っていましたが、そこで何が起こっているのか、そして日常はどうなっているのかは全く知りませんでした。/今回、ロマナさん、アンドリーさんが説明してくれて、僕が一番心に残ったのは、「戦争中でも日々の日常は大事にしたい」という言葉です。/僕は最初、「何でそんなに笑顔でいられるのだろう?」と疑問に思いました。でも2人の話を聞いていると、「確かにいつも通りにしている方がいいな」と感じました。/その日常の中で、戦争の絵本を書くというのはとてもつらいと思います。だけど、戦争のことを世の中で、本にして伝えていくのは、とても素晴らしいと思います。
- 〇今まで戦争は、怖くて恐ろしいものだってとばかり思っていた。しかし、ロマナさんやアンドリーさんの話を聞いて、大変な戦争の中にでも笑顔があり、普段と変わらぬ日常過ごしている人がいることを知って、驚くとともに素敵だなと思った。/もちろん戦争は怖いと思うし、アンドリーさんたちも怖いと言っていたけれど、その恐怖を乗り越えていき、未来の希望へとつなげていくのは大変なのだろうなと思った。そして、この考え方は戦争のみならず、自分たちの生活でつらいことがあった時も、大切な考えなのだろうと思った。/怖いこと、自分にとって苦しいことにも逃げるのではなく、しっかりと向き合い、今後につなげていく姿勢は大切だと実感すると共に、この考えを自分の生活にいかしていきたいと思った。
- 〇古い建物がほとんどだと聞いて、文化を大切にする国なんだなと思った。町のシンボルはライオンで、所々でライオンを見かける事ができるのは、日本にはない良さだと思った。/平均で1~2時間、長くて1日警報が鳴っている時もあるのに、警報が鳴り止んだ後は、いつもの生活に戻る人が多いと聞いた時、日本の場合は「危険だから外に出るな」と言われそう。/『戦争が町にやってくる』は、22言語に訳されているのと、本に出てくるものは、本当にある物もあると聞いて驚いた。/日本は人を苦しませていたのに、ウクライナ建物が壊されても修復されたり、お墓を作ったり、楽しく過ごそうとしたりで、これがすぐに降参したりあきらめない理由なのかなと思った。
- 〇2人が戦時中に撮った写真を見ると、日本の戦争とは結構違うな、と思いました。日本の戦争しか学んでいないこともあるけれど、私のイメージは、戦争=怖い、です。でも、ロマナさんとアンドリーさんの写真の「笑顔で頑張ろう」に、戦争のイメージ=笑顔で乗り越えよう、つらくても頑張ろう、に変わりました。/(本の登場人物のー中村)ダーンカにファビヤン、ジールカは、どれも確かにせん細です。私はそういうことも工夫していると知って、驚きました。あまり怖くない設定なので、小さい子も読めるんだな、と思いました。/驚いたのは、ミサイルがきたことがわかるアプリです。感動したのは、戦時中、破壊されたビルの周りに、赤い花が咲いたこと。ライターでイラストを焼いて本を作ったということに驚きです! /警報の鳴らないうちに楽しむっていうポジティブな考えに、明るくなれました。/2人は遠いクライナから来てくださいました。だから私も何かできることをやろうと思います。
右は、『戦争が町にやってくる』より撮らせていただきました
- 〇今日のお話ありがとうございました。/私はウクライナのことは、ニュースで見たことがある程度でした。今回の話でどんな様子かとか、よくわかりました。/私が心に残ったことは、ミサイル攻撃だとアプリでいつくるか分かって、シェルターに避難ができるというものです。わかるのもすごいし、時代だなと思いました。何でわかるんだろう? それで分かれば、それこそ自分の時間を大切にできるんだなと思いました。/シェルターに避難する時間の平均は、1~2時間、少し長くて3~4時間で、長くて1日。私だったら1~2時間でも無理な気がする。1日を過ごせない気がします。改めて大変さが分かりました。言われた通り、これからちゃんと勉強したいと思います。ありがとうございました。
- 〇私は、教会やライオンの像など壊されたくないものを毛布のようなものでくるむということを初めて知った。もし壊れても、欠片などがすべて残るようになっていると知り、工夫がされているなと思った。壊されないようにするだけじゃなく、壊れても直しやすいようにしていてすごいなと思った。/それと私は、戦争が始まるといつもの日常がなくなると思っていた。でも、ロマナさんとアンドリーさんは、「戦争中でも笑顔で、いつも通り過ごす」と言っていて、私はそのことばが印象に一番心に残った。/ロシアが攻めてきて、それに怖がり、何もできないより、少しでもいつものように過ごし、笑顔でいた方がいいんだと、今日知れた。/今日はすごくいい事を知れたと思う。
- 〇今日は、遠いところからありがとうございました。/私が一番心に残った言葉は、「あなたたちにできる事は1つ。勉強すること」です。確かに勉強をしていれば、戦争が始まっても、反対の声をあげることが出来ると思ったからです。/もう1つ心に残った事は、古い教会をみんなで守ろうとしていた事です。ありがとうございました。
- 〇ロマナさんやアンドリーさんの話を聞いて。/ウクライナの人たちは、戦争中でも普通の生活をしているのには、びっくりしました。戦争中でも、普段の生活をしようとしているのは、日本の戦争中はなかったです。考え方がすごいです。/ウクライナ人たちは、町のことをよく考えていると思います。広島に行って平和についてをよく知りたいと思います。いつでも笑顔という言葉を忘れません。
- 〇僕はさまざまなことを学びました。/子どもだろうと、年寄りだろうと、普通の生活(当たり前の生活)を戦時中でも過ごしていた事に驚きました。ミサイル攻撃やドローンなどから毎日おびえていると考えると、一刻も早く戦争を終わらせたいです。/そして一番心に残ったのは、「この本で死んだ人が生きかえるわけではないけれど、この本が一つの希望になればいいな」という言葉です。その通りだなと思いました。/桐朋がこのような場を作ってくれました。それをムダにしたくはないです。次の世代へ語るために、彼らの言っていた通り、勉強を続けたいです。今日はありがとうございました。
- 〇テレビで、ウクライナの戦争の被害などが一部しか報道されないが、現地の人から直接話を聞くと、ニュースでは聞くことができないような話も聞けて、戦争の深刻さが今までよりわかった。/早く戦争が終わって楽しい生活に戻れるといいなと思いました。/ダーンカとファビヤンとジールカの勇敢な姿が、ロマナさんとアンドリーさんの戦争中の笑っていられる姿と似ていて、やっぱりロマナさんとアンドリーさんすごいなと思いました。
読売新聞9月26日朝刊
2024年度考査の情報登録を開始しています
本校をご志望くださる皆様
〇志願者の情報登録と、志望動機書のダウンロードについて
本HP【出願はこちら】の案内バナーをクリックして、出願サイトにアクセスしてください。
事前にこれらをご準備いたきますと、出願時の手続きがスムーズです。
事前登録をお勧めいたします。
なお、出願は10月1日(日)~10月3日(火)です。
桐朋小学校 教務
ロマナ・ロマニーシンさんとアンドリー・レシヴさんの来校➀ [Ⅱ-360]
9月22日、『戦争が町にやってくる』(ロマナ・ロマニーシン、アンドリー・レシヴ作、金原瑞人訳、ブロンズ新社、2022年)に関わる人たちが桐朋小学校に来てくださり、6年生との授業をつくってくださいました。ありがとうございました。

1、ブロンズ新社 若月様からの願いを受けとって
ブロンズ新社 若月様からご提案をいただきました。それは、「小社で2冊の絵本を出している、ウクライナの絵本作家、ロマナ・ロマニーシンさんとアンドリー・レシヴさんが、9 月に来日します。滞在中に、彼らの訪問講演会を、桐朋小学校でお引き受けいただけないでしょうか」ということでした。
若月さんによれば、ロマナさんとアンドリーさん(上記写真)は、『戦争が町にやってくる』という世界 24 言語に翻訳されている素晴らしい作品を描いた作家です。彼らは、戦争下で果敢に作家活動を続け、ウクライナから各国へ避難している子どもたちへの支援活動も展開してきました。9月、わざわざウクライナから来日してくれるのですから、ウクライナの現状や、戦争下における絵本の役割など、二人の生の声を、できるだけ広汎に、子どもたちや読者に届けたいと私たちは考えています、と話してくださいました。
また、ロマナさんとアンドリーさんは、長期化し、硬直化している戦争の中で、希望を持ち、未来に向かってよりよい世界をつくっていこうと闘っている作家です。桐朋小学校の子どもたちと先生に、ロマナさんとアンドリーさんと交流する機会を設けることを考えてくださいました。
図書室前の本の紹介コーナーより
2、授業から (今後、その➁でお伝えします)
➀お2人から、絵本のことやウクライナのことなど
絵本の主人公は、「デリケート」で「壊れやすい」ものにされたそうです。そして、「大変なことを迎えた時、意思をもって強くなる」という願いを込めたことがわかりました。
主人公の一人ダーンカは、本書より撮らせていただきました
絵本には、現在のウクライナも描かれていました。お2人が見せてくれた写真から町が攻撃を受けたものや170年の歴史をもつガラスハウスなどもありました。
以下、全てロマナさんとアンドリーさんの写真
ウクライナの写真の中で、毛布のようなものでくるんでいる写真がありました。それは、「破壊されないように毛布でくるむ」こと、「破壊されたら欠片を集めて再生する」ことだと知りました。町を3Dデジタルで記録し、再生に向かっていることも知りました。

ホテルが攻撃により壊され、再生されている写真の紹介では、子どもたちから、戦争中なのにどうやって再生できたのか、人や物はどうしたのかなども質問がありました。子どもたちの質問を通して、理解が深まりました。

戦争がはじまってわかる日常の大切さ、かけがえのなさも伝わりました。
➁お2人の話を聞いて感じたこと、考えたこと ⇒ 子どもたちの感想、意見をあらためて受けとめて、後日掲載させてもらいます。
③やりとり(の一部)
絵本をかくなどでは、戦争を思い出して辛いのでは? 悲しい、心痛い。命を落とした人もいます。今こわいけれど、明るい希望をもちます。何もしないと辛いです。
「アート」として、戦争の終わりを近づけようとしています。住み家と親を失った子の支援をしています。
戦争の後、完全には元に戻りません。

3、授業にかかわった皆さん、ありがとうございました
皆さんが、6年生の人たちを認め、応答し、たくさんほめてくださいました。ありがとうございます。
●ロマナさん、アンドリーさん、話をしてくださってありがとうございます。
ウクライナから、外国に出ることの困難さ、たいへんさを話してくださいました。それでも、お2人は来てくださり、絵本のこと、ウクライナで起きていること、子どもたちの様子などを教えてくれました。子どもたちの質問に対して、質問をありがとうとまず言ってから、こたえてくださいました。
●ブロンズ新社の皆さん、このような機会をつくってくださってありがとうございます。
本をつくり、社会にひろげてくださって、ありがとうございました。本を通して、私たちは知り、感じ、考え、話し合うことができます。また、絵本を通して、作者や訳者、通訳者の皆さんとの出会いを持ち、すばらしい時間をいただきました。
●通訳者の中井さん、参加者をつなげてくださりありがとうございます。
ロマナさん、アンドリーさんと私たちをつなげてくださいました。お互いを理解し合うことができました。また、通訳という素晴らしい仕事を見せてくださいました。
●訳者の金原さん、本のすばらしい世界をありがとうございます。
ロマナさん、アンドリーさんのつくった本を、私たちが読み、感じ、考え、話し合うことができました。図書室には、金原さんの訳された本がたくさんあります。私たちは金原さんの訳から、本のすばらしい世界に出あっています。
図書室内の本の紹介コーナーは、金原さんが訳した本を紹介
●マスコミの皆さん、授業をみてくださり、ありがとうございます。
子どもたちのことをいろいろと考えて発言していると認め、励まし、ほめてくださいました。そして、こうした学びの機会を大切にしようと受けとめ、取材をしてくださいました。今後、こうした学び合いをひろげてくださると思います。
「ロマナさんは、『戦争が始まってから、平和な日常の大切さを知りました。空襲警報が鳴るまでの間を楽しめるように、家族や友人たちと過ごす大切な時間を作るようになった』と説明した。アンドリーさんは、「『本当に戦争中なのか』と思うかもしれないが、笑顔で頑張らないといけない」と語った」、「私たちはアートという武器を持っています。この戦争を終わりに近づける努力をしています」(26日、読売新聞朝刊文化欄『平和な日常の価値 絵本で訴え ウクライナ作家2人来日 小学生らと交流』より)
皆さんは、子どもたち、私たちに、すばらしい仕事(の意味を)を伝えてくださっていると、私は思います。
*ロマナさん、アンドリーさんは、「文化」「アート」の力を述べていました。本書に引き寄せれば、主人公は「デリケート」で「壊れやすい」ものにされ、「大変なことを迎えた時、意思をもって強くなる」という願いを込めていました。こうした困難時の強い意志を「文化」「芸術」から伝えていきたい願いを受けとめました。それから、戦争中に「紙に触れる」ことの大切さなども話してくださり、心に残りました。あらためて、本をもとにいろいろな出あいをつくり学び合うことができるすばらしさを感じました。
炎と星空と〜八ヶ岳の夜〜
昨年度はクラスごとに1泊2日の合宿を体験した5年生。
学年みんなで八ヶ岳高原寮に2泊するのは初めての経験です。
もちろん、大勢で火を囲むのも初めて!


キャンプファイヤー係が書き下ろした台本で、点火前の劇が披露されます。
最初は「こんなにか細い声で大丈夫かな?」「客席に背中が向いているよ・・・」と不安だらけでしたが、現地でのリハーサルでおどろくほど意識が高まった子どもたち。
演技をしない人も、お客さんの目線で活発にアドバイスを出してくれました。
チームみんなで作り上げる成長の過程を目の当たりにしました。


フォークダンスの定番「ジェンカ」にオリジナルの振り付けを加えたダンスが炎に勢いを与えます。
検討を重ねて準備してきた二つのゲームも、具体的な見本で説明する工夫が功を奏して、両クラスとても楽しんで参加してくれました。
そして、エンディング。
星空を眺める時間になりました。
服部先生の案内を受けながら、雲の切間に輝く星をしっかりと確認することができました。
「これで終わってしまうのか・・・」という名残惜しい気持ちを司会役がキャッチして、
機転をきかせて炎を眺めるプログラムも追加されました。
「目をつぶって、虫や、炎の音を聞いてみてください」
火のはぜる音、東京より一足はやい秋の虫の声、炎の熱と高原の風。
ひとりひとりが「今、この時」を味わっていました。
♪夏の草原に 銀河は高く歌う〜
小さくなってゆく炎を眺めながら歌ったCOSMOS(作詞・作曲 ミマス)は、特別な思い出になりました。
来年は最後の合宿。今回参加できなかった人たちも一緒に、みんなでそろって炎を囲めますように。

おにぎり券再開について
保護者のみなさま
おにぎりの申し込み受付を9月25日(月)から再開できることになりました。
詳しくは、保護者専用ページをご覧ください。
桐朋小学校 教務
その人その人に内在する自己発達力を大切に [Ⅱー359]
初等部の各学級では、通信を発行しています。通信は、子ども同士、子どもと教員、保護者と教員などの信頼関係を築き、深めていくうえで大事な役割を果たしています。
今年度、幼稚園は、年少「たんぽぽつうしん」、年中「ばらぐみつうしん」、年長「ゆりぐみつうしん」を、小学校は、1年「すたあと」「はれたり くもったり」「1にしつうしん」、2年「レッツ」「七ころび 八おき」「きらり」、3年「まなびば!」「だいじょうぶ」、4年「ぴーす!」「PARETTO」、5年「ともに歩もう」「untitled」、6年「ラスト・パート 学校最後の1年だから」「最高学年」など、を発行しています。6年生は、「最後の1年」「こんな学級にしたい」思いを込めて、その人その人が通信名をつけ、日々変化しています。
通信に込められたいろいろな願い。たとえば新任のKさんは、「みんなでクラスをいっしょにつくっていくときに、たいせつにしたいなと思っていることがあります。それが、この学級通信のタイトル『七転び八起き』ということば」「時に転んでも前向きに子どもたちとの毎日を過ごしてまいりたいと思っております」と書いていました。これからも<学級の物語>を楽しみに、子どもたち、保護者の皆様と読み合いたいと思います。
続いて、4月の通信から、3年生の声を紹介します。3年生は、小学校で初めてのクラス替え、24名から36名へ変わりました。どんな気持ちでどのように過ごしているのか見守り、安心感や信頼感をもてるようにしたいです。
たのしかったドッチボール
ぼくはドッチボールがきらいでした。だけどきょう体いくでやってはじめて「ドッチボールっておもしろいんだなー」と思いました。きのうのドッチボールはまえやったドッチボールよりも、どんまいなどのこえかけがふえている気がしました。こんどやるときは、自分もこえかけができるようにどりょくします。それと、こんどやるときこそがんばってあい手がなげるボールをキャッチしてみることにします。
休み時間、たくさんの技を見せてもらいました。しなやかで自由な心と身体です
いけぽちゃしないでよかった
今日しぜんひろばのいけで、SちゃんとМちゃんとにかちゃんが、(石とび)のお手本をみせてくれた。/ぼくは、びびったけど、おうえんをしてくれた。
そしてできた。/がんばって4回・5回くらいできた。
いけぽちゃしないでよかった。(斜線は、行替え)

4月、新たな環境で、新しい自分をつくろうとはりきっています。「はじめて「ドッチボールっておもしろいんだなー」と思いました」「びびったけど、おうえんをしてくれた。/そしてできた。」など、驚きや発見の中で、文化や友だちへの理解を深めています。考えてぴったり合うことばを探し、表現をしながら自己を成長させています。そのことを私たちは励ましていきたい。子どもたちから、人はいつでもどこでも「選んで自らを創り出していく一瞬」がある、人は「『その気』になって選んで変わる」ことなど大切なことを教えられます。また、遊びや学びが、人や事物そのものに触れて学ぶ、人と人を結びつけていることも。
子どもたちにいまを大切に過ごしてほしい。子どもたちといまを大切に過ごしていきたい。新緑がまぶしい季節を迎えました。皆様、2023年度もどうぞよろしくお願いします。(PTA機関誌『わかぎり』1号、7月発行より)
職員室前の掲示板。たくさんの人が見ています
形を変えると重さは・・・
4年生の理科では、『物の重さ』という学習を進めています。
本日のテーマは、「形を変えると重さは変わるのか?」です。
ねんど、おせんべい、紙…など様々な対象物の重さを調べていきますが、今回はみんなが大好きな”ある物”で実験。
「さあ、今日はこのレゴブロックを使って実験をするよ。」
「やったー!」「どんな実験?」「これで遊べるの?」
と大興奮の子どもたち。

重さの比べ方はいたって単純で、
①バラバラにした状態のブロックの重さを量る。
②好きな形に組み立てた後、また重さを量って、比べる。
というもの。
「ただし、どんなに小さなブロックも、あとで足したり引いたりしてはいけないよ。」
今までの生活経験から、子どもたちの大半は、重さは変わらないと予想します。


しかし、試行錯誤していく中で、いろいろな疑問も生まれます。
「縦に高く積んだら、はかりの一部だけに重さが集中する?」
「横に平べったくした時とのちがいは?」
一人ひとりがつくった物を合体させたり、これと決めてみんなで一つの物をつくったり…
何度も繰り返し重さを量ることで、一つの結論が見えてきました。


一回の実験結果だけにとらわれず、多くのデータを集めて結論を導くことこそ、理科で大事にしたいポイントです。
さあ、次はどんな物を使って調べてみようか。
子どもたちの学びは続きます。
5年生学年ページを更新しました
5年保護者のみなさまは、学年ページをご確認ください。
桐朋小学校 教務
カップで何杯分?
2年生の算数では、水のかさを学習しています。
水のかさをはかるときは、同じカップにいれるとわかりやすい!と学習した子どもたちは、
自分たちではかってみたい容器を決めて、カップ何ばい分になるか予想をします。
ある班とある班はちがう形の容器だけど、カップ6杯分と予想。
さあ、本当にいっしょなのかな・・・実際にはかっていきます。
「あ!予想ぴったりだった!」
「微妙にちがったよ!」
「おもったよりも7杯分も多かった・・・!」
「はかったら、あの班と同じだと予想したけど、こっちのが多かった!」
同じカップではかると比べることができる。
ただ頭でわかるのではなく、実際にやってみたからこそ生まれたたくさんの「!」
同じカップで比べる良さの体験をベースに「単位」の必要性も自然と学んでいきます。

平和をつくる[Ⅱー358]
6年生夏休み課題レポート集を読ませていただきました。レポートには、戦争体験の聞き取り、地域の戦跡をめぐって、各地の記念館へ行く、戦争について調べたことなど書かれていました。保護者、ご家族の皆様にもいろいろと助けていただき、ありがとうございました。
今回、戦争体験の聞き取りを行った人のレポートより、その内容を紹介させていただきます。読ませていただいて、私自身がたくさんのことを教えられました。もし皆様に読んでいただけたら、一緒に〈戦争〉について考え、〈平和〉をつくることをひろげていけるのではないかと考えました。

広島より山岡さん(被爆2世)が来てくださいました。〈戦争と平和〉について学びました。ありがとうございます。
■おばあちゃんから話を聞いた
私の祖母(81歳)に戦争の話を聞きました。/おばあちゃんが生まれた日は、日本にはじめて飛行機が飛んできて空襲があったそうです。
おばあちゃんのお母さんは、おばあちゃんを生んだばかりで、空襲警報が鳴っていても逃げることもできず病院にいたそうです。八王子空襲があったのは、昭和20年8月3日の夜中で、終戦の日の12日前だったそうです。夜中にB29がたくさん飛んできて、八王子中を焼夷弾が落とされたそうです。この時、八王子は町中火の海になったそうです。
おばあちゃんのお母さんは、おばあちゃんをおんぶして、火事になっていない京王線の線路の上を北野の方へ走って逃げたそうです。その時おばあちゃんのお母さんは、おばあちゃんに「八王子が燃えているのをよく見ておきなさい」と言って、おばあちゃんの頭からかぶせてある水でぬらした小さなお布団をめくったそうです。おばあちゃんは布団の隙間からこわごわ空を見たそうです。その時、八王子の街が真っ赤に盛り上がっていたそうです。
今でもおばあちゃんは、その時の光景は頭の中に残っているそうです。おばあちゃんのお母さんは70歳をすぎてから本をつくり、全国の大学、図書館に送り、「戦争は絶対してはいけない」という気持ちを込めて書いたそうです。
■祖父母から聞いた話
戦争が激しくなり、勉強もできる状態ではなかった。日本軍の24部隊が成東に来たことで、学校が部隊の生活拠点となり、学校の教室が軍に取られてしまった。
祖父母達は、学校の外の寺子屋で勉強することとなった。/ある日、B29が隊列を組んで成東上空にやってきた。成東駅には大きな弾薬庫があり、その弾薬庫が狙われたのです。町では、弾薬庫が大爆発すると、町周辺が爆風に襲われ大破することから、防空壕に避難するよう警戒警報が鳴らされた。祖父母は自宅の防空壕に逃げ込もうと兄と一緒に避難したが、多くの患者が防空壕に避難していたため入れず、兄が祖父母の手を引き、家の押し入れの布団の間に押し込んでくれました。
その直後に家は爆風に襲われ、壁や窓が破壊され、粉々になりましたが、兄の機転で兄と祖父母はなんとか一命を取り留めました。
爆発後、町には多くの亡くなられた方々だけではなく、怪我人が大勢いました。手や足を失った人々が大勢担ぎ込まれ、父、母、姉の家族総出で手当に当たったそうです。(この時、上の兄たちは出征していました。)この時、祖父母は毎日が本当につらい生活で、なんでこんな戦争をしたのかしみじみ思ったそうです。
■アルバムから考える戦争
ぼくのひいおじいちゃんは、今から20年前に亡くなりました。なので直接話を聞いていません。おじいちゃんやおばあちゃん、お母さんや、おばあちゃんのお兄さんから話を聞いたり、ひいおじいちゃんが残してくれたアルバムと日記で、ぼくはたくさんのことを知りました。
1度目の召集の時と、2度目の時では様子が全くかわったことが分かりました。1度目の時は、現地の人と運動会を開いている様子の写真があったけれど、2度目の時は食糧も武器も弾薬もつきて、マラリアの治療薬も消毒もなく、精神力だけで戦って生きていたことが書いてありました。読んでいると、苦しくなるくらい悲惨な日々だったと想像できました。また、マラリアになった仲間や負傷した仲間の遺書を受けとり、その内容を日記に記していました。
ひいおじいちゃんも負傷しました。西部ニューギニア島で、右大腿部に弾丸が貫通したそうです。傷がなかなか治らず、気がついたら船で日本に向かっていて、記憶がなかったとのことです。日本に帰ってきてから終戦後もずっと仲間たちと連絡をとり続け、名簿を毎年更新していました。とても几帳面で、まじめな性格なのが分かりました。同時に、共に戦い、日本に帰れなかった仲間たちへの思いも苦しみも書いてありました。今を生きているぼくたちには、分からない苦しみで、戦争をすることで、失う心や命があることを強く感じました。
戦争は領土を拡げるために行っていたのだと思うけれど、失う物が多すぎるので、話し合いで日本の技術や作物と物々交換するwin-winの関係を築くことができたら良かったと思います。
■祖父に聞いた戦争の話
戦争当時、祖父は10歳だったそうです。/三鷹に住んでいたころは、周りにお家が少なく、畑に囲まれていたそうです。
防空壕は庭を井戸の水が出るくらいほって、竹でかべを作り、石で床を作った物だったそうです。階段も作り、厚い板を防空壕の入り口にかぶせ、30㎝ほど土をのせていたらしいです。防空壕の中には、かんづめやいつもは食べられないお菓子が置いてあり、時々食べる事が出来たので嬉しかったそうです。
ラジオから警戒警報や空襲警報が鳴ると、急いで防空壕に入り、警報が解除されるのを息を殺して(時々お菓子を食べながら)待っていたそうです。その時代は、防空壕の中でラジオを聞く事が出来なかったため、サイレンで警報が解除されたらしいです。警報を知らせてくれるラジオが命のつなだったそうです。/防空壕の中にあるのは、懐中電灯やロウソク、かんづめとお菓子だけでした。
「1t爆弾」という爆弾が、祖父の家の目の前の家に落ち、音を聞きつけ、助けに行ったそうです。その時は、その一家のご主人を抜いた5人が、祖父と家族が土を掘り起こしたりしましたが、助かりませんでした。ご主人は、忘れ物を取りに行っていたので、骨折はしましたが助かりました。
また、玉川上水の土手に爆弾が落ち、土手と道路がえぐられたそうです。消防車が助けに来た途中、穴に落ちて一人が亡くなったそうです。
当時は、窓ガラスの内側と外側の両方に厚いテープをはっていたらしいです。*図版あり。なぜなら、爆風が来てもこのようにしてはると、ガラスが割れない可能性が高くなるからです。なので祖父の家はガラスさえ割れなかったそうです。
敵が時限爆弾を落として行ったので、井之頭公園に2日間野宿をしたらしいです。時限爆弾は、落ちると土にもぐり、10~20時間後に爆発するそうです。なので、野宿している間に、家の庭にもぐった時限爆弾を取り除いてもらいました。ちなみに3つほど落ちていたようです。
その後、お父さんが平塚の基地に勤務したので、寒川に移り、小学校も移りました。その小学校は海添いで、敵が近所までよく来ていたそうです。艦載機が朝の10時ごろ、しょっちゅうやって来ていました。その時は危ないので、学校はお休みになり、はだしで走って家に帰っていました。家までの1.5㎞をはだしで帰るのですが、家にたどりつくまでに艦載機がやって来るそうです。そのころは5月で、父は畦道を走っています。田んぼには水がはっていました。艦載機が面白半分で、低空飛行をして、近づいておいかけてきたらしいです。パイロットの青い目が見えるくらい近くまで来ていたそうです。艦載機が機関銃の弾を連続で発射してきたので、田んぼの水面に弾があたり、はじけた水のあとが自分に追ってくる感覚だったそうです。(まだまだ続きます)

ここには紹介できなかった方のお話もたくさんあります。お話をしてくださった皆様、ありがとうございます。