1学期の振り返り④ 育てた作物は格別な味

1学期、3年西組の畑では様々な野菜を育てました。班ごとに野菜を1種選んで、種や苗から育てました。種の様子と苗の様子を観察して、作物の生長の様子を学ぶ理科の学習と総合の授業で行う畑作業を連動させて学びました。

クラスのみんなで野菜を育てていくことを大事に考えて、土づくりや畝づくりなども先生と一緒にできるだけ自分たちで進めていきました。マルチを敷いたり、支柱を立てたり、ネットを張ったりしながら、どんな風に育てていくのかを低学年の時よりも少し詳しく学びました。

登校した日は班ごとに日替わりで水やりや雑草抜きのお世話を続けてきた成果もあり、育てたキュウリ、トウモロコシは早くに収穫でき、みんなで食べることができました。

1学期中に実るか心配だったカボチャとスイカも食べられそうな大きさまで育ち、終業日にみんなで食べることが出来ました。

自分たちの手で育てた野菜の味は格別でした♪

さて、2学期は何を育ててみようか?

1945年8月6日を体験したKさん [Ⅱ-199]

 毎年10月に、ヒロシマ修学旅行を行います。今年も現地で被爆証言をしていただきたいと連絡をしました。そして、Kさんが亡くなられていたことを知りました。ここ数年、Kさんの体調はよくありませんでしたが、証言をしてくださいました。もう直接お話しを聴くことができなくなってしまいました。Kさんの証言を聴いた子どもたちのまとめを読みながら、Kさんのことを思い出しています。

 8月6日、当時小学2年生でした。学童疎開には行かず、お寺で勉強をしていました。8時15分、大きな音がしてお寺の屋根が落ちてきて下敷きになりました。(爆心地からの距離1.5㎞)あたりは真っ黒でした。暗闇の中から僅かに見えた明かりを頼りに、建物の中から這い出した時は、もう周囲は火災が発生し、火が迫っていました。 

 「助けて」と言う友だちの声を後に、兵隊さんに「早く家に帰れ」と言われ、家に帰りました。家は崩壊していました。お母さんが出て来ました。「私はいいから、あなたたちは逃げて。」と言われ、その後、お姉さんと一緒に避難しました。駅の前にたくさんの怪我をした人たちがいたので、いっぱい布を探して来て、絞ってやけどしているところなどを拭いてあげたら骨が見えてしまったけれど、みんな我慢していて何も言いませんでした。お腹が出ている人や、真っ黒に焼けている人などがいて、もう広島じゃないみたいで、泣きそうでした。「お母さ~ん!!!」と言ったら、奇跡的にお母さんが見つかりました。川を見たら、たくさんの死体がありました。

 その後、親戚の家に泊まらせてもらって、次の日家に帰りました。その時にもまだ駅にたくさんの人が救護を待っていましたが、そのほとんどが亡くなっていました。その後、お寺に行きたくて行くと、庭には誰もいませんでした。川や畑などで、食糧を調達しました。それでまた帰ろうとしたら、行きに誰もいなかったお寺の庭にたくさんの人がいました。

 それから、またお友だちを探しに行きました。そしたら兵隊さんに会ってお手伝いをしてほしいと頼まれました。瓦礫の中の人を集める仕事でした。ちょっとしたら悲しく、辛くなってきて、手伝いをやめました。その後、兵隊さんたちは、亡くなった人たちを燃やしました。その時、小さかったので、なんで真夏なのに炎があがっているんだろうと思っていました。兵隊さんは、火の中に人を入れはじめました。「なんでそんなことするの?」と聞いたら、兵隊さんは泣きながら謝りました。

 その当時、原子爆弾を知らなかったので、ピカッと光ってドーンと落ちるから、ピカドンと呼んでいました。小学4年生になって「原子爆弾」を知った。アメリカはにくくてにくくてしょうがなかった。

 Kさんは、最後に言いました。いつも笑顔でいてください。笑顔は大切です。チャンスがあれば、いろんな話を聴いてください。友だちを大事に。家族を大事に。先生を大事に。そして最後に、今生きていることを大切にしてください。

 Kさん、これまでありがとうございました。今後もKさんの証言を探し(まとめてこなかった後悔をしています)、また他の方の証言をまとめる努力をし、伝えていきたいと思います。自分のできること、まわりの人と平和をつくることを積み重ねていきたいと思います。そして、核兵器のない世界を実現していきたいです。

 松井一実広島市長は「平和宣言」(2019年8月6日)のはじめに、「今世界では自国第一主義が台頭し、国家間の排他的、対立的な動きが緊張関係を高め、核兵器廃絶への動きも停滞しています。このような世界情勢を、皆さんはどう受け止めますか。二度の世界大戦を経験した私たちの先輩が、決して戦争を起こさない理想の世界を目指し、国際的な協調体制の構築を誓ったことを、私たちはいま一度思い出し、人類の存続に向け、理想の世界を目指す必要があるのではないでしょうか。/特に、次代を担う戦争を知らない若い人にこのことを訴えたい。そして、そのためにも一九四五年八月六日を体験した被爆者の声を聴いてほしいのです。」と述べていました。あなたは現実をどう捉えていますか、未来をどうしていきたいと思いますかと聞かれました。私は、Kさんや他の方の証言を歴史に残し、未来をかえていきたいと思います。

1学期の振り返り③ 八ヶ岳合宿大成功!

 雨の合間をぬうように、川遊び、ハイキング、ソフトクリームを食べ、カレーライスづくり、キャンドルファイヤーと、合宿も無事終わりました。なんだかもう少し、子どもたちと一緒に話をしたり、ふりかえりをしたりしたかったなと、後ろ髪を引かれる思いで夏休みへ。4年生では3泊4日の八ヶ岳の合宿。こんな長く親元を離れるなんて、多くの子どもたちにとっては、初めてのことだと思います。

 それだけに、合宿のテーマには居心地のいいグループ、学級、学年をつくろうと大きく二つのめあてを立ててきました。「自分とみんなにとって気持ちのいい生活・遊び・活動をつくろう」「気持ちのいい生活・遊び・活動をつくるために、ふり返りを大切にしよう」子どもたちは、自分も、周りの人も気持ちのいい場をつくろうと様々な活動をし、少したくましくなって帰ってきました。

 合宿中、夜のクラス会議で「トランプやカードゲームは20分間のみ!」とプロジェクトリーダーからの提案がありました。少しでも自然とふれあってほしいし、いろんな人とももっと関わってほしい。そんな願いが全体で伝えられました。すると、少し小雨の降る中でも、今がチャンスと、池の周りでカエルさがしに夢中になる子どもたち。様子を見に行くと、男女もそうですが、クラスの垣根を越えて一緒になって、カエル獲りに夢中です。親指サイズの小さなカエルが、池の中や葉っぱの裏に隠れています。それを獲ろうと、湿った草っ原に這いつくばって、今にも池に落ちるかもしれない。そんなこともおかまいもせずに、水面へ身を乗り出しています。

 「あっちの滝のほうにも、いるかも。先生も一緒にいこ!」とぐっと引っ張れると、その腕は水や泥でぐちゃぐちゃ。汚れも気にせず、遊びに夢中になるいい自然体験でした。しばらくすると、袋いっぱいに、つまったカエルがたくさんとれました。活動に快くみんな笑顔。自然と触れあい、気持ちのいい場をつくろうと大成功。

 夜、はるな先生が玄関でなにかやっていので声をかけると、「カエルがにげちゃって大変」とが困った顔でカエルをつかまえていました。

 自分の仕事を最後までやること。とても大切なことです。今回の合宿では、一人1リーダーとして活躍しようと、5月の高尾山遠足から役割分担をして練習をしていました。プロジェクトリーダー、クリーンリーダー、ケアリーダー、ハイキングリーダー、野外料理リーダー、キャンプファイヤーリーダー、ネイチャーリーダー、八ヶ岳新聞リーダーなどなど。それぞれが、生活や活動で、みんなが過ごしやすいように、はりきって仕事をしました。

 けれども、やっぱりはじめてのこともあるのでトラブルは絶えません。野外料理のこと。雲行きが怪しく、いつ雨が降ってきてもおかしくありません。けれども、野外料理の役割分担がグループ団のメンバーにしっかりと伝わっておらず時間が経つのみでした。それを心配した他のメンバーが気を利かせて事前に役割を分担してくれていました。けれども、それが納得できない野外料理リーダー。

 さて、困った。「ピンチはチャンス」と、ふり返りを大切にしようと話し合うこと、軒下で30分。他のグループはもう火起こしが終わっています。「どうなるのかな?」と心配をしながら聞いていると、お互い言いたいことを言い合って、すっきりしたのか、「よし!はじめよう」と。鼻息荒くスタートしました。事前の役割分担をうまく活かしながらも、お互い協力しあいながら火起こしを大成功。ハラハラしたぶん、いつもよりもぐーんと、おいしくできました。

 野外料理を体験することも大事なことですが、そこでの失敗やトラブルを活かしながら、たくましく乗り越えていくこと。大事な学びです。

 一日の最後はグループ団ごとに、ふり返りをします。「今日は○○くんが、自分のことだけじゃなくて、私のことも助けてくれた」「トランプに夢中になっちゃったので、明日はもっと自然とかかわりたい」と、めあてにそって、今日一日のよかったことや発見したこと、明日への改善点など。さらには、「今日のスター」として、毎日、各団で表彰していこうと提案されました。「今日のスターは○○さん。だって、私が困っていたとき優しく大丈夫だよって、助けてくれたから」

 グループ団での振り返りをもとに、いよいよクラス全体でのクラス会議。疲れも最大で、眠い目をこすりながらも、思ったことを伝えたり、聴いたり、お互いの一日を話し合う時間を大切にしたい気持ちが伝わってきました。

 いいことや改善点や提案などが、毎夜出されます。最終日には、話し合いも板についてきたようで、急遽予定にはなかった一人ずつ合宿の感想を述べることに。自然と拍手がわいたり、それぞれが抱えていた不安を打ち明けたり、ハイキングで足がぬかるみにはまってしまった話をしたり、お互いの素直な気持ちを聴いたりすることができました。

 3年生からクラス替えがなく、顔見知りのメンバーでいけるこの合宿は、ひとつの集大成。けれども、この体験の最中でも失敗からもぐんとたくましく育っていく子どもたちの姿や、話し合おうとする様子に、子どもたちの学びには終わりがないんだなぁと改めて思うのです。

9月7日(土)説明会の予約を8月7日(水)から開始します

第4回学校説明会の予約を8月7日(水)12:00~から開始します。

この第4回学校説明会は、説明会の前後に施設案内付きのコースがあります。

お子様の参加は可能ですが、大人向けの説明会です。

満席になりますと、キャンセルが出るまでは予約することが出来ません。

今回から各コース、お子様の性別ごとに予約していただくことにしましたので、ご予約の際ご注意ください。

尚、恐れ入りますが、先日の学校体験会にお越しいただいた方は、施設案内のコースのご予約をすることはできません。説明会のみご予約が可能です。

皆様のご来校をお待ちしております。よろしくお願いします。

1学期の振り返り② とうほうサマーフェスティバル

7月4日(木)の1:30~3:00までの時間で、とうほうサマーフェスティバル(前期児童会発表)が行われました。代表委員、図書委員、放送委員など5〜6年が所属する各児童会の委員会が、1年生から6年生までが楽しめるイベント企画を計画し、実行しました。

5〜6年生の子どもたちはこのフェスティバルのために休み時間や放課後も準備に使ってがんばってきました。

図書室ミッションや、おばけやしき、しぜんひろばでのSASUKEなど各委員会の前には順番を待つ子どもたちがならんで、とても楽しみにしながら待っている姿も見られました。

次年度から学校の全体自治活動に参加する4年生はこのフェスティバル支えるために、カフェコーナを担当し、全校の子どもたちが飲めるように、麦茶を訪れた子ども一人ひとりにくばっていました。

企画に参加した子どもたちもとても楽しそうでしたが、企画を運営実行している4〜6年の子どもたちが低学年の子どもたちを相手にいつもよりもしっかりとした眼差しで、自分の役目を楽しそうに頑張っている姿が印象的でした。   

1学期の振り返り① 5年生 ウィンドオーケストラの見学

土曜参観の放課後、5年生は隣接する桐朋学園大学を訪問しました。

 

最初に、学生部長の合田先生が大学の校舎の中を案内してくださいました。

地下には小さな練習室がたくさんあり、それぞれにピアノが設置されています。

廊下には、木製のロッカーがずらり。専攻する楽器の大きさによって、

ロッカーのサイズも違うのだとか。一番大きいのは、チェロ用でした。

いよいよ、今日演奏を聴かせてくださる神谷先生の授業の教室に入ります。

ピカピカ光る楽器を構えた演奏者がずらりと並ぶ大教室は壮観です。

歓迎の演奏のあと、楽器の種類や特徴を紹介していただきました。

今は銀や金やプラチナ製が多いフルートも、昔は木製だったこと。

クラリネットとオーボエは形が似ているけれど、吹き口のリードの仕組みが違うこと。

トロンボーンはピストンがなく、手の伸ばし方で音程を決めること。

ホルンは、ラッパの中に入れた手の形によって、音色が変わること。

他にもたくさん教えていただきました。

目の前で見る楽器と、生の音に、子どもたちは圧倒されていました。

小学校までの帰り道、

「習ってみたい楽器があった!」「忘れないように楽器の名前を手に書いた!」と

うれしそうに話す声が聞こえてきました。

先生方、学生のみなさん、楽しい時間をどうもありがとうございました。

みんなで気持ちのいい生活を創ろう!~八ヶ岳合宿に向けて

 初めての八ヶ岳合宿を楽しみにしている4年生です。1ヶ月かけてクラスで、学年で準備
してきました。9人のグループ(団)で共に生活をします。一人一役、みんなが何かのリ
ーダーです。全体を見渡し、集会やミーティングの進行をするプロジェクトリーダー、メ
ンバーの食事や睡眠、けがや体調に気を配るケアリーダー、寮内や生活の部屋、活動場所
の整理整頓と清潔に配慮するクリーンリーダー、時計を持ち、団のメンバーの歩く順番を
決め、気を配りながら歩くハイキングリーダー、野外料理の準備や計画、作り方の段取り
や分担を決めた野外料理リーダー、最後の夜のキャンプファイアーを計画し盛り上げるキ
ャンプファイアーリーダー(楽しいダンスも考えました!)、行きのバスレクの計画や八
ヶ岳の自然と森の遊びを研究・計画するネイチャーリーダー、団のメンバーの紹介や合宿
中の様子をその日のうちに新聞にする八ヶ岳新聞リーダー。それぞれの仕事を通して自分
もみんなも気持ちのいい生活・活動・遊びを創っていくことが目標です。
 自然に囲まれた高原寮で、たくさんの思い出を作ってきたいです。ハイキングリーダーのミーティング

集会を進めるプロジェクトリーダー

キャンプファイアーリーダーが作ったダンスを披露

 

みんなで真似して踊ってみた

授かった命を活き活きと輝かせるために [Ⅱ-198]

 子どもたち、保護者、保育者の皆でもっとも大切にしたいことは、一人ひとりが授かった命を活き活きと輝かせて生きていく(充実感、たのしみ、夢中で生きる、夢みることなど)ことです。

 幼児期から児童期にかけては、「自分が行動主体であるという主体性の感覚」、「対人関係において自己調整力や情緒安定性」、「意欲や自信をもって行動できる力」などを大切に育んでいきたいです。これらが生涯にわたり自己を支えると考えています。そのことは、諸外国の「長期的な追跡縦断研究」の調査結果が示しています。

 しかし、実際は願い通り、理想通りにはいきません。6月、調布市幼稚園の先生との学習会で野井真吾教授(日本体育大学)の「子どものからだのおかしさとその克服のために」より学び考えたことをご紹介します。

子どものからだに着目、取り組みを考える

 野井教授は、教育生理学、教育発達学、体育学を専門とし、子どものからだにこだわり研究活動を続けています。1978年からほぼ5年に1度行っている「子どものからだの調査」をもとに話してくださいました。その調査は、桐朋にも来てくださった故・正木健雄先生(日本子どもを守る会元会長)らが中心になってはじめ、野井教授らが引き継いできました。

 子どものからだのおかしさについて、保育・教育現場の先生の実感〈「すぐ疲れた」という子〉〈やる気が湧かない子〉〈頑張りすぎの子〉〈眠れない子〉の増加、〈姿勢問題〉などを出し合い、事実調査に移行する研究方法をとっています。実感を大切にし、事実を科学的に明らかにして、有効な取り組みを考えられ、私たちも長年学んできました。

 日本の子どものからだのおかしさが初等部の子どものからだの様子に重なる点があります。

 以下は、野井教授が話したこと、ご著書(『新版 からだの´おかしさ´を科学する すこやすな子どもへ 6つの提案』など多数)に学んだことです。たとえば、

「すぐ疲れた」という子[実感]

 自律神経(からだの調子を整える、からだをコントロールする働き)系の発達不全と不調が見られる[事実調査]。便利で快適すぎる現代の生活が、自律神経への刺激が少ないものにすると考えられる。

 また、大脳前頭葉(やる気、意志、集中力、判断力、コミュニケーション能力などの働きを司る)の発達不全が見られる[事実調査]。自らの生活に満足感や充実感を持てない子どもたちが増え、集中に必要な興奮も気持ちを抑えるのに必要な抑制も育っていない子どもが増えていると考えられる。

やる気が湧かない子[実感]

 低体温傾向の子どもが増えている。体温ピークが遅い時間帯にズレ込んでいる。からだの活動水準が高くなってこない[事実調査]など。その背景に、生活リズムの夜型化、深夜型化があると考えられる。

 原因には、もちろん園、学校生活のありようもあります。

   

 このあとは、園学校で取り組みたい、保護者のみなさんと共有したいたいことです。 ※左上写真…今年はプラムがたくさんとれ、おいしくいただきました。

「光・暗闇・外遊びのススメ」

 日中、外遊びをすればからだがほどよく疲れ、「光」を浴びます。そして、夜はいつもより「暗い」ところで過ごせば、多くのメラトニン(眠りのホルモン。朝や昼に光を浴びると促進、夜に光を浴びると抑制する)が分泌され、「早寝」が実現します。

「ワクワク・ドキドキのススメ」

 前頭葉機能に意識的に働きかけていくこと。人間の発達は「不活発型」から「興奮型」を経て、それに見合う抑制過程も育ち、「活発型」になっていくと考えられています。ところが調査では、その機能の発達が見られず、「不活発型」のまま児童期までを過ごしてしまう子が多くいます。集中に必要な「興奮」「抑制」を育てるためにワクワク・ドキドキする環境が必要です。幼稚園、小学校の遊びや学び、活動、生活では「ワクワク・ドキドキ」を大切にしています。

 感情を発散して遊ぶこと、主体的に自分から遊びたいと思うことで、脳を刺激し、発達を促します。

「「慎重なる回避という予防原則」のススメ」

 学習会後、電磁波、化学物質などから子どもたちを保護していくことについて考えています。野井教授の本にも書かれています。欧州では、携帯電話の使用を制限している国やゲームにやりすぎの警告が記されているということなどが見られます。

 日本では、今夏以降、携帯電話会社は第5世代移動通信システム(5G)の運用を開始し、現在の第4世代移動通信システム(4G)よりも、さらに短時間で大容量のデータを送受信できるようになるそうです。便利で子どもたちの使用も増えるでしょう。システムをかえるため、今までに使われてこなかった28GHz(ギガヘルツ)帯という非常に高い周波数帯を使うこと、通信方式の変化によって被曝量が劇的に増加し、環境や人体に深刻な影響を与えると懸念されています。
 国際的には「予防原則の立場から危険可能性という観点で慎重なる回避を」というスタンスがスタンダードと言われていますが、特に子どもたちには慎重に考えたいです。私たちは利便性を求めすぎているのではないでしょうか。

知ってほしい。忘れないでいたい [Ⅱ-197]

 6月22日土曜参観懇談会、6年生は3グループに分かれ、親子で、竹内静代さん、西尾静子さん、元木キサ子さんの話を聴きました(今回のコラムでその一部をご紹介します)。その後、一人ひとりが学んだことをまとめ、27日に、竹内さん、西尾さん、元木さんにも参加していただいて、クラスで共有をしました。まとめる過程、報告し合うこと、友だちや3人の方の話から深く考えるなど大切な時間でした。

竹内 静代さん(当時14歳)-当時の学校の様子もたくさん話してくださいました 

 戦争についての情報源はラジオと新聞です。ラジオから流れていたのが軍国歌謡や軍歌です。たとえば「勝ちぬく僕等少国民 天皇陛下の御為に 死ぬと教えた父母の 赤い血潮を受けついで」(「勝ちぬく僕等少国民))。「軍艦マーチ」が流れると、戦果を知らせる大本営発表がありました。終戦の半年前でも「…本土来襲の敵機動部隊に対する昨16日の迎撃戦果中現在迄に確認せるもの次の如し。飛行機撃墜147機、損害を与えるもの50機以上、艦船大破炎上大型艦船1隻。我方自爆未帰還計61機、地上における損害は僅少なり」。147機を撃ち落とし、大型艦船を炎上させたというのです。ラジオを聞いていて、日本は戦争に勝ちまくっていると信じて疑いませんでした。

 配給が乏しくなり、食べる物も少なくなりましたが、「戦地の兵隊さんを思え」と言われて必死に我慢しました。「欲しがりません、勝つまでは」、「進め一億、火の玉だ」、「勝って兜の、緒を締めよ」町にはリズミカルな七五調のスローガンがあふれていました。 

 国民学校での生活は、まず宮城遥拝をしました。全校児童が、皇居の方角に向いて最敬礼(伸ばした両手がひざに来るまで頭を下げるおじぎの仕方)し、「おはようございます」と挨拶します。学校の玄関の横には奉安殿(御真影と呼ばれた天皇の肖像写真、教育勅語の謄本がしまってある収蔵庫)がありました。奉安殿の前を通るときは、立ち止まって最敬礼をしなければなりません。

西尾静子さん(当時6歳) -その日は誕生日。防空壕の中、出た時のこと

 ドンドンドン。扉を叩く音がしました。「中に入れてください」「扉を開けてください」。

 外から声がします。私は子ども心に「開けてあげればいいのに」と思いましたが、地下室にいる大人たちは決して開けようとしません。

 「扉を開けろ!」「中に入れろ!」叫び声に変わりました。でも、地下室の大人たちは黙ったまま、扉を絶対に開けませんでした。もし、扉を開ければ、外の火の手がバーッと部屋に入ってきて、みんな焼け死んでしまうからです。大人たちは「自分たちはまだしも、子どもたちを死なせるわけにはいかない」と考えて、開けなかったのです。しかし、扉を開けないということは、外にいる人を見殺しにすることになるわけですから、その苦悩はきっと想像を絶するものだったでしょう。

 長い、長い夜でした。少し明るくなっていましたから、朝の5時半ぐらいでしょうか。ようやく火の手もおさまり、地下室に避難していた70人は助かりました。外に出てみようとしても、地下室の扉は押しても引いても開きません。ずいぶん時間がかかって、ようやく開いたのですが、そこには、死体の山ができていたのです。「扉を開けろ。何に入れろ」と叫び、扉をドンドン叩いていた人たちの死体です。全身黒こげで、丸太のようでした。誰が誰だかわかりません。重なるようにして死んでいました。

元木キサ子さん(当時10歳) -戦争のあと、「戦災孤児に」

 防空壕の中、心臓の音は頭を突きぬけ、寒さと恐ろしさに震えたまま、両親と末の弟が来るのを、今か今かと待っていました。突然、防空壕に忙しげな靴音が近づくと、知らない大人の大声、「何ぐずくずしている! 早く逃げないと焼け死ぬぞ」。恐怖と寒さでおびえ切っていた私は、両親たちの来ないうちに、一年生の弟と夢中で防空壕を飛び出してしまいました。これが取り返しのつかない結果になりました。

 …空襲から祖母の家までの4・5日間、私は一滴の水も、食べ物も口にせず、トイレにも一度も行っていません。

 祖母の家には、母の兄弟が集まっていました。両親たちと一緒に逃げた先生が、祖母たちに状況を話し、そのあと、私と弟に伝えられました。両親たちは、防空壕からいなくなってしまった私と弟を捜しながら逃げたため、逃げきれず、火に巻かれ、菊川橋のたもとで亡くなられたでしょう。…その時です。突然、祖母が泣きながら、私に言いました。「なぜ、一緒に逃げなかった、だからお母ちゃんが死んだ! お前らが死んで、お母ちゃんが生きていればよかったンだ」10歳の私の心に、この言葉が、突き刺さったままになりました。

 …戦争で両親を奪われた子どもにとって、それは想像できない過酷な「生きるための戦争のはじまり」だったのです。

 当日の語り、『あのとき子どもだった-東京大空襲21人の記録』(績文堂出版)、『東京大空襲を忘れない』(瀧井宏臣、講談社)より引用させていただき、まとめています。

 話はかわりますが、6月30日の東京新聞朝刊に中央大学の目加田教授が「十万人の犠牲をもたらした東京大空襲から終戦までの間、本土の二百カ所が無差別空襲を受け、一千万人近い人々が被災した。空襲を逃れた後も戦後孤児となった子供たちが時に物乞いし、時に「ごみのように扱われ」ながらも必死に生きてきた様子は「東京大空襲74年 孤児たちの闘い」(3月10日30面)に詳しいが、「親を戦場に駆り出し空襲という戦禍を招いて多くの孤児を生んだ国は、彼らの実態調査すら満足にしていない」(3月11日26面)/戦争で犠牲になるのは市井の人たち。今日では国際法違反となる無差別空襲から八月の広島・長崎原爆投下まで、「神国」が降伏を決断する機会は幾度もあったのに、戦争を続け、国民の命を二の次にした」と書いていました。両日の新聞をあらためて読みます。

 ※写真 1番上は、竹内さん、西尾さん、元木さん。2番目は、5歳児が園庭のプラムでジュースを作っています。3番目は、5歳児全員で「カッコウワルツ」演奏と、桐朋学園大学音楽学部の学生さんが小3生に演奏をしてくれました。4番目は、園児と児童のまじわりと、園庭砂場でゴローンでした。