低学年も自治活動~続編

先週の桐朋小だよりの続編です。2年東組、火曜日の総合の時間。クラスの遊び企画委員会主催の「2ひがしたのしむかい」がいよいよ開催されました。
遊び企画委員は前日はもちろん、当日もCDの操作の確認、黒板に説明を書くかどうするかなど、入念に相談していました。
早速時間になり、始まる・・・かと思いきや、まだ黒板にゲームのやり方を書いていてなかなか始まらず・・・どうするかなと思ったら、書くのを諦め、一部を口頭でゲームの説明をすることに切り替え、たのしむかいスタート。

 

開会の一言を委員が言い、早速黒板に少し書いたルールと口頭でゲームを説明し、「人間になりたいゲーム」が、スタート。カメから始まり、じゃんけんに勝ち続けると、カメ⇒うさぎ⇒さる⇒人間と変化していきます。じゃんけんに負けると、一つ前の動物に戻ってしまいます。このゲームの肝は、その動物になりきって演技するところにあります。音楽と同時にうさぎはピョンピョンとびはね、さるはウッキ~と動き回ります。時間内に人間になれなかった場合、今の動物の演技をしたままぐるっと教室を一周歩いてゲームが終わります。このゲーム、あまりに盛り上がりすぎて、「もう一回やりたい!」と、アンコールも出ました。嬉しいけれど、アンコールは想定外。いきなりのアドリブを迫られた遊び企画委員でしたが、すぐにみんなに
「もう一回やるか、次のいす取りゲームに行くか、どっちがいい?」
と提案。様々声が出ましたが、次のゲームをやりたい声が多く、相談の結果先に進むことになりました。

さて、次のいす取りゲーム。このゲーム、担任はどういうルールでやるか聞いておらず、楽しみにしていましたが、なんと椅子が一つずつ減っていくサバイバルゲームでした。
当然、クラス24人で椅子が一つずつ減っていくルールでは、かなり時間がかかるであろうと思いましたが、何か考えがあるのかもしれないとわくわくしていました。

いす取りゲームが始まると、この一人ずつアウトになるのが実に面白く、各地でいすの争奪戦が繰り広げられていました。
「ねえ、じゃんけん!」  「うちが、さき!」  「なんで!?」
でもアウトになるのは一人なので、よく見ると・・・あいているいすがいくつも・・・。もめている間に気が付いた人がさっと動いてセーフになったり、1人動いたら別のところからも動いてきて、本当の争奪戦が始まったり・・・。

それから、いすを毎回1脚減らすのに、減らし忘れていたことに気が付かず、全員セーフになって、みんなで「???」となり、「だれか二人で1脚に座っているんじゃないか事件」が起こったり・・・。大笑いでした。

 

そうこうして、予定の時間が来ると、委員の子たちはあっさりと、
「残った人の勝ち~!」
と言いました。いす取りゲーム=最後の一人が優勝みたいな先入観が担任にはあり、一本取られました。勝ち~と言われた半数以上の子たちは大喜びでした。

ゲームをうまく進め、さいごのおみやげ(頑張って全員分手作りした折り紙の記念品)を配り、終わりの言葉で会を閉じました。さいごのおみやげ配りが予定より大幅に時間を過ぎてしまったところは御愛嬌ということで、大満足の「2ひがしたのしんだかい」になりました。
こんな風に、やりたいと願ったことを実現までもっていき、試行錯誤しながら自分たちで最後までやり切った委員の子たちのがんばりと、その姿を受けて協力的にかつ本気で楽しんだ仲間たち。認め合いながら成功も失敗も含めてクラスみんなで学び合える時間を引き続き大事にしたいです。いや~面白かった♪

最後に委員の子の日記を紹介します。

 せん生あのね、きょうの「2ひがしをたのしむかい」すっごくたのしかったよ。さいしょは、子どもだけであそびのきかくをするなんて、出来ないと思っていたけど、きょうの「2ひがしたのしむかい」で、そういうことが出来るんだって思ったよ。
 わたしは、いす取りゲームが一ばんたのしかったよ。こんどは「2ひがしクリスマスパーティー」とか、やりたいな。せん生は、きょうの「2ひがしをたのしむかい」たのしんでくれた?できれば、きょうのことをがっきゅうつうしんにのせてほしいな。おみやげがなかったら、もう少しあそべたかな?すっごくたのしかったよ。おわり

 

しぜんひろばについての子どもたちの声 [Ⅱ-177]

 先週、原状復帰工事が始まりました。大きな音で、子どもたちに迷惑をかけてしまいました。
 あらためて、子どもたちがしぜんひろばについてどんな気持ちでいるのかを知りたいと思い、各クラスの通信を読ませていただきました。

          1年生
 せんせい、あのね。
 かよう日に しぜんひろば おわかれかいを したよ。
 おわかれかいの ときは、おおきな こえで いおうと したけど、ほんばんでは おおきな こえで いうことが できなかったよ。

  しぜんひろばが…
          2年生
 この前、しぜんひろばが はん分なくなっちゃうってきいて、わたしはかなしくなりました。
 だって1ねん生とはん分ちょっとしかあそべなかったんだもの。
 1年生はとてもかわいそうです。
 なくなっちゃうのはしょうがない。でも、なにもやんないでなくなっちゃうのはさびしいから、「しぜんひろばのおわかれ会」があってよかったです。
 あと、「しぜんひろばのおわかれ会」のパンフレットに プログラムがかかれていたけど、ぜんぜんプログラムとちがってびっくりしました。
 それで、かえりの会のときくばった しぜんひろばのはっぱを、おしばなしたしおりを くじびきのように先生の手から ひっこぬきました。
 わたしが、ひっこぬいたのは、かえでのはっぱが こうようしはじめたぐらいのいろのやつでした。でも すぐにきにいって、一りん車をやるときも、もっていってしまったよ。と~~~ってもうれしかった。

  さいしょから、さいごまで
          2年生
 わたしは、しぜんひろばが 母のようだった。いつも、いやなことや、ケンカを したら、いつも…いつも しぜんひろばに 行ってた。しぜんひろばに 行くと、なんだから…気もちが おちついて、お兄ちゃんの ことを おもいだして、
「はやく お兄ちゃんに あいたい。」
って おもって、気もちよくなる。
 それに、わたしに ゆう気を つけてくれたのも、しぜんひろばの おかげだ。一年生のときは、ツリーハウスに のぼりたかったから、いつも、れんしゅうしていた。
 でも ある日、わたしが れんしゅうしていたら、なんだか ゆう気が わいてきて、もうちょっと うでに 力を入れて、のぼってみたり、なんだか、風がおしてくれたような、のぼれたんだ。わたしは、そのとき うれしかった。
 本とうに しぜんひろばの おもいでは いっぱいだ。

  自然ひろば
          4年生
 この間、自然ひろばのお別れ会をやりました。自然はろばの感想では、〇〇君が発表してくれました。〇〇君は、いろんなことを一つにまとめられていて、ちゃんと読めていました。それが終わり、歌を歌いました。
 自然ひろばは、すごく楽しかったです。池ポチャしたことは一度もありません。ザリガニをとったり、カエルをとったりしました。自然ひろばは、楽しかったのに、それがなくなってしまうので悲しいです。でも次の自然ひろばができるので、楽しみです。

  自然広場の思い出
          5年生
 私は、自然広場のブランコで遊ぶのが好きでした。ブランコに乗っていると、風が気持ちよくて楽しいからです。
 でも、そんな自然広場も、もう無くなってしまいます。ですが、自然広場そのものが無くなってしまうわけではありません。新たに、第二の自然広場ができます。
 私は、一人の五年生として、お手伝いが出来ればと思っています。

 子どもたちから、「木が倒されているのを見たら悲しくなった。」と言われました。また、「木がポイッと投げられるのを見て、悲しくなった」とも。本当にその通りだと思いました。
 「借りていた場所を返したら、そのあとに何ができるの?」と聞かれました。「遺跡の調査をした後で、マンションが建つそうだよ。」と話すと、(ああ、悲しいなあ)と、その子はつぶやきました。

 ※写真は、「最後の池ポチャ」「しぜんひろばにあったアスレチックを解体して、倉庫に片付ける子どもたち」など。

桐朋学園小学校の創立60周年行事に参加をさせていただきました [Ⅱ-176]

 11月16日、桐朋学園小学校の創立60周年記念行事に参加させていただきました。創立60周年、おめでとうございます。

 13時より、小学校講堂で素敵な記念演奏会がありました。出演は、NHK交響楽団メンバーによる特別編成・室内オーケストラでした。そのメンバーは、桐朋学園大学出身の方が多数でした。4~6年生(1~3年生は午前中)と一緒に参加させていただきました。

 15時より、新校舎を案内していただきました。4~6年生が、週に1度昼食をとる中高の食堂も見学しました。

 16時より、小学校多目的ホールで、お祝いの会がありました。現旧教職員の紹介、学校紹介の動画上映、卒業制作の動画上映など、心あたたまる会でした。お世話になってきた懐かしい先生方とも話すことができ、嬉しく思いました。

1959年4月13日に開校

 1年生43名、2年生25名、3年生32名、計100名の子どもたちと、小林校長、児玉主事、小坂部長、1年~3年担任1名、音楽、図工講師各1名の先生たちではじめられました。教育的意義として、「中学校、高等学校との併設によって、国立町に普通教育機関を完備し、その総合的研究ならびに活動を期待することができる」、「男女共学性をとることによって調布市の桐朋女子中学校、同女子高等学校の教育と有機的に連絡することができる」、「学級の小人数編成によって全人教育の理想と学習指導の効果を最高度に発揮することができる」などを掲げられました。

「一人ひとりの子どもの、心のすみずみにまで行きわたる教育を」

 桐朋学園小学校の10周年記念誌を読むと、当時の小坂部長が、「一人ひとりの子どもの、心のすみずみにまで行きわたる教育を。それが私たちの念願だった。」と書かれていました。「教員室に座っていれば、足音で、今、何年生が変えるかがわかった。いや、誰君が歩いているんだと、窓越しに聞こえる声でわかったほどだ。「ここに来ると、何か家へ帰ってきたような気がする」と言われた方があった。」など、いくつかのエピソードから当時のおもいを感じることができました。「一人ひとりの子どもの、心のすみずみにまで行きわたる教育を」は、桐朋学園小学校の教育目標となり、常にこの原点に立ち戻って実践をすすめられています。

教師自らの手で目指す教育を追求し形に

 桐朋学園小学校の教育で、私たちが学ぶべきことがたくさんあります。その一つに、1991年よりはじまった桐朋学園小学校ならではの生活科(毛刈り、染め物など)があります。それは、「具体的事物を通して直接体験することにより、生きていく上で必要な知識や技能を身につけさせ、同時に情緒を培い、生きる力、考える力を育てる。また広い視野から、人間を育んでいる自然や社会についての認識を深め、人間はどう生きるかということについてより深く考える姿勢を育て」ています。そこには、公立小学校の生活科とは違う、「子どもたちの日常や未来をふまえつつ、議論と実践を重ねて、独自の道筋で理想とする教科をつくりあげた」ことがあり、学園小学校の先生方は、自分たちの「生活科」づくりを、教師自らの手で目指す教育を追求し形にしていきました。すばらしいと思います。

同じ時代をともに生きる

 片岡哲郎校長先生が、桐朋小学校の60周年記念誌に寄せてくだった文に、桐朋小学校の良さとして「ヒロシマ修学旅行」を取り上げてくださり、「気魄のこもった教育実践」「本物に触れさせることを意識した初等教育を通じてこどもたちの真剣な眼差しの中に灯された光」と書いてくださいました。「戦後70年の今年、私たちは時代という川の激しい背に立っています。これから先も、子どもたちにとって望ましい環境を守り続けていくために、私たちは両足にしっかりと力を込めて立たなければなりません」と述べられ、思いを重ねました。

 60周年記念行事の前日に、桐朋小学校の3名の教員が桐朋学園小学校に伺い、しぜんひろばにかかわることを学びました。これからも、桐朋学園小学校とともに同じ時代を生きる、たとえば両校で共同で実践を話し合い、学び合う機会を持ちたいと願っています。  ※3枚の写真(絵)は、桐朋学園小学校の「桐の庭だより」より引用させていただいています。

 

 

低学年も自治活動

2年東組では、○○委員会という、委員会活動を行っています。5,6年生の行っている自治の様子を少しまねしながら、2年生でもできることを自分たちで考えて、委員会をつくりました。自分が楽しめること、友だちやクラスのことを考えた活動をすること・・・。

事前にこんな委員会があるといいよねと思いつくものを相談し発言してもらったところ18もの委員会候補が出されました。この中から自分でどれか1つの委員会に絞って活動することにしました。

こうして決まった委員会活動は、活気にあふれます。授業時間外にも自分たちで集まって、相談したり活動をしています。そして、ある程度やりたいことやみんなに紹介したいことができれば、朝の会や帰りの会に発言をします。

「図書委員会です。水曜日の中休みにお話し会をします。ポスターをあそこ(水道の横の掲示板)に貼ったのでみてね。」

「保健委員会です。救急箱の中に絆創膏のゴミを入れている人がいるので、小さいごみ箱をつくったから、これからはこっちに捨ててね。」

この「○○委員会です。」というフレーズを言いたくて言いたくてたまらない人が多いのが2年生らしいです。

 

願いを実現するためにがんばるこんな委員会もあります。

「来週の金曜日か再来週の火曜日の総合の時間を使わせてください。」
「何をするの?」
「みんなで遊ぶ会をしたい。」
「なんでしたいの?」
「クラスみんなでやったら絶対楽しいから。」
「では、どんなことをするのか、紙に書いて持ってきて。こういうのを企画書っていうんだよ。」

翌日・・・。

「書けたよ。」
「これって、どんなあそび?」
「そういうと思って、ママとやりかたを書いてきた。」(さすが!)
「すごい!見せて。・・・いいね。それぞれ、何分ずつかかるのか考えて、40分間でおわるように。それから、おみやげっていうのは、どうするの?」
「わかった。おみやげは、自分たちでつくるから、大じょうぶ!」

数時間後・・・

「できました。」
「再来週の火曜日だったら、出来ます。」
「よしっ!じゃあ、月曜日、朝の会か、帰りの会でみんなに言うね。」

そして月曜日の帰りの会・・・

「遊び企画委員会です。再来週の火曜日にみんなで遊ぶ会をします。遊び企画委員会ポスターを貼ります。楽しみにしていてください。」

このやりとりをみると、もはや大人顔負けなわけで・・・。

 

この年代の子どもの特徴に、やりたいこと、がんばると決めたときに、ものすごい力を発揮することが顕著に表れることがあります。それは個人が一人で発揮するのではなく、仲間とともに実現に向けて前向きに考え、突き進むどこか眩しい力です。そんな姿の一端が見えると応援したくなります。
委員会活動は、まだ始めたばかりですが、いまのところ、エンジン全開です。火曜日どうなるか楽しみです。

 

しぜんひろばのお別れの会 [Ⅱ-175]

 11月13日(火)は、しぜんひろばのお別れの会でした。全校児童でしぜんひろばに集まり、①はじめの言葉 ②2年生の歌 ③校長先生のお話 ④各クラスからの思い出 ⑤図書委員からのプレゼント ⑥みんなの歌「風をください」 ⑦おわりの言葉 をしました。

 

 2年生の歌は、1999年秋、しぜんひろばの全校の会で歌われたものでした。当時、2東「めだかのたいそう」、2中「みんなのひろば」、2西「みんなであそぼう」を創りました。その歌を現在の2年生の各クラスの子たちが歌ってくれました。心のこもった歌声でした。

 1~6年、14クラスの人が思い出を話してくれました。◆ツリーハウスに上った時のこと ◆ドングリやコナラ、クヌギなどを拾った時のこと ◆拾ったドングリでこまを作った時のこと ◆鬼ごっこをした時のこと ◆ザリガニつりをした時のこと ◆秘密基地をつくったこと ◆池で遊んだこと、池ポチャをしたこと ◆落ちているみかんを食べたこと などでした。

「ツリーハウスに上る時に、はじめはパートナーに助けてもらいました。その後は、友だちや先生に助けてもらいました。」「ツリーハウスに上ったら、風が吹くと気持ちがいいと感じました。」「はじめの頃は、足が短くて池ポチャしてしました。1年生3学期ころからは落ちなくなりました。」「掻い堀りでは、水を減らしてい くと、生きものが見えることが楽しかった。」「第二のしぜんひろばをつくることを考えるとわくわくします。」「今を超える場所をつくってください(6年生)。」

 会の終了後、3年生の子から「しぜん広場のおわかれのことば」と、しぜんひろばの絵をいただきました。「私のしぜん広場の思い出は、2年生の時ははじめて木をのぼれたり、友だちとしぜん広場でひみつきちを作ったりして、そのとき私は、しぜん広場を楽しいって気づきました。それからしぜん広場でブランコをしたりしてたのに、今日(明日)でしぜん広場をかえすことになって、さびしいです。こんどのしぜん広場は、どういう広場かわからないけど、次も楽しみたいです。」と書かれていました。その子は、前日もしぜんひろばで遊んでいました。しぜんひろばをと大切にしてきてくれたことが伝わり、嬉しく思いました。

 この日に向けて、図書委員会の子どもたちが、しぜんひろばの葉っぱを集め、全校児童のしおりを作ってくれました。それを全員に配ってくれました。ありがとうございます。

 私は、「1998年秋、しぜんひろばは誕生しました。生きものであり、自然の一部である私たち人間が育つ環境として、自然があり、生きものがいて、のびのびと遊べる場が必要と考えて、土地をお借りしました。

 その一年後、1999年に、池と川、小山のある広場となりました。池や川のまわりは、オニグルミの木が一本でしたが、みなさんの先輩たちや調布市、東京都から木をいただき、こんなに大きく育ってくれました。」「生きものを含む自然と接することで養われ感覚や感性はとても大切なものです。」「しぜんひろばの真ん中あたりにある彫刻は、桐朋女子中高の先生で、彫刻家だった須賀野チイさんが1957年(61年前)につくったものです。名前は『ある一つの世界1』です。須賀野さんは子どもが大好きな方でした。子どもたちの声が聞こえる場所で、みんなが上ったりたくさん遊んでくれて喜ばれていることでしょう。」「毎年毎年、5、6年生がしぜんひろば委員の子たちが大切にしてくれました。落ち葉を集め、大もみじの下に敷き詰めたり、池の掻い堀りをしたり、先生たちと協力してツリーハウスができたことなども大切な思い出です。」などを伝えたいと思いました。

 お別れの会以降も、しぜんひろばに子どもたちや同窓生がたくさん来てくれています。11月17日(土)も、旧職員の方、PTA元会長、同窓会元会長らも来てくださいました。たいへん嬉しいです。

しぜんひろば開放日について

明日17日(土)は最後のしぜんひろば開放日です。開放時間は10:00~16:00です。

旧職員のみなさん、卒業生のみなさん、懐かしい「しぜんひろば」にぜひ遊びにいらしてください。お待ちしております。

※しぜんひろばについてのこれまでの記事をいくつか紹介します。よろしければご覧ください。

①「1998年にできたしぜんひろば」

②「しぜんひろばの場所がかわります。」

③「しぜんひろばにこれまでかかわってくださったみなさま、これまでありがとうございました。」

登校許可証について

本ホームページの最下部分に「登校許可証」のタグを設定しています。

学校感染症などで出席停止の場合、医療機関に登校許可証を作成してもらい、登校時に持参することになっています。登校許可証は入学時にお渡ししている『学校便覧』の中に添付されていますが、今年度からこの『学校便覧』だけでなく、HPのこちらのページより登校許可証(PDF)を印刷し、ご利用いただくことが可能になりました。

出席停止の扱いのことや学校への連絡方法なども記載していますので、合わせて一読下さると幸いです。

「私はこれからも、無差別にたくさんの方が犠牲になった原爆の事を原爆ドームの前で伝えたいと思っています。」 [Ⅱ-174]

 今年の修学旅行も、被爆証言の会の山岡美知子さんたちに平和公園碑めぐりをお願いしました。たいへんお世話になりました。以前に、山岡さんが教えてくださったことを本コラムに掲載させていただきます。 

 原爆ドームの前で

               被爆2世 山岡 美知子

 最初に、私が原爆ドームの前で英語ガイドを始めた理由を述べたいと思います。私は7年前主人を亡くしました。二人の子どもはそれぞれ結婚して家庭を持っていました。私はそれまでの自分の人生を振り返り、その後何を糧にして生きたら良いのかを考えていました。ちょうどその時、友達に平和公園でガイドをしないかと誘われて、ガイドのようなことを始めました。

 私は広島で育ちながら、両親が被爆者で母の妹が原爆で亡くなったこと以外、原爆についての知識は全くと言っていいほどありませんでした。

 学生時代、私は英語が大嫌いで、英語からは完全に逃げていたように思います。広島平和記念公園には、驚くほど多くのの外国の方が来られていました。私は英語できちんとガイドをしたいという思いを抱くようになりました。しばらくして、毎日英語でドームの前でガイドをしていた、

 胎内被爆者で元高校英語教師の三登さんと出会いました。この出会いをきっかけに、英語の勉強も少しずつ始めましたが、なかなか思うようにいかず、何度かやめようと思いました。でも、原爆のことをあまりよく知らないままでガイドをスタートしたのですが、私のぎこちない英語での説明でも一生懸命聞いてくださるので、ガイドを続けることができたのです。しかしある日、外国の方に、「家族に被爆者はいるのですか」と尋ねられました。「います」と答えると、「なぜその事を伝えないのですか」と言われ、私ははっとしました。それ以後は必ず母の被爆体験を話すようになりました。

 さて、英語が大嫌いな私がなぜ英語で被爆の実相や母の被爆体験を説明することができるようになったかを述べます。最初は中学校で習う基本的な文法、例えばbe動詞と一般動詞の違いや受動態さえもわからない状態でした。何回も同じ文を音読して、ただただ覚えるだけでした。質問されても聞き取れず、意味も分らず、笑ってごまかしていました。これではいつまでたっても前に進まないと思い、聞き取れない質問は紙に書いてもらい、三登さんにその質問の意味や答えを英語で教えてもらいながら、ガイドの勉強を続けました。最初は、簡単な英単語で説明していましたが、適切な単語を使わなければ、伝わらない事がわかり、難しい単語も覚えるようにしました。そうするうちに、外国人のあらゆる質問に答えたい、英語で私の思いをきちんと伝えたい、ここ広島で起きた事を説明して核兵器の恐ろしさを伝えたいという思いが強くなってきました。この思いによって、英語が上達していったのだと思います。学生時代には、英語は私にとっては入試のためだけのものでしたが、今では自分の思いを伝える大切な道具になりました。

 パソコンもできない私でしたが、原爆のことを伝えたい気持ちが人一倍あり、今でも夜遅くまで、パソコンや英語の勉強を続けています。パワーポイントを使って母の被爆証言ができるようにもなりました。

 この7年間で約90カ国、1万人の外国の方に原爆の実相や母の被爆体験を伝えていました。来年4月の末には、2015年NPT再検討会議に出席のためにニューヨークへ行きます。初めての参加ですが、原爆のこと母の被爆体験を伝えたいと思っています。

 私は英語でガイドを続けて本当によかったと思っています。もし一人でガイドをしていたら、今日まで続けることはできなかったでしょう。10人のガイドの仲間がいたからこそ続けられたと思うし、三登さんが私の英語の支えになってくれたことに感謝しています。ガイド仲間からは、一人では得られないような原爆に関する情報や最近の世界状況について、得ることができました。今でもお互いに情報を交換して研修をしています。

 私は広島市の被爆体験伝承者の1期生です。3年間の研修を終えて、来年度から被爆体験伝承者として広島市から委嘱されて、被爆の実相や母の被爆体験を日本語と英語で話をします。被爆体験のない私ですが、被爆者の思いや、被爆の実相をきちんと伝えたいと思っています。

 次に私の母の被爆体験をお話します。母と母の妹は親元を離れて、爆心地から3.5km離れた所で生活していました。母は20歳、妹は中学1年生でした。

 8月6日の朝、母の妹は爆心地から1,2kmで行われる建物疎開作業に行きました。原爆が爆発した時、家の中にいた母は爆風で飛ばされて気を失いました。時間ははっきりと覚えていないそうですが、気がついて外へ出て見ると、あちらこちらからうめき声が聞こえました。広島市の中心を見たら、黒い煙でおおわれ、火災がいたる所で発生していました。中心部から沢山の人が逃げてきていました。その様子はお化けのようだったそうです。ほとんどの人は、何も身に着けておらず、中には腕の骨が見えている人もいました。皮膚も肉も全部ぶらさがっており、「助けて、助けて」と言いながら避難していました。体は、すすで真っ黒になって、皮膚はまるでボロ布のように下がっていました。母の眼の前で何人も何人も倒れて亡くなったそうです。「怖かった!本当に怖かった!」と母は言っていました。母は帰ってこない妹が心配でたまりませんでしたが、火事のために市内中心部に入る事は出来ませんでした。その日の夜も、市内は赤々と燃え続けました。

 母は、今でも赤く染まった夕焼けを見るたびに、原爆の事を思い出すそうです。母だけではありません、多くの被爆者が、ふとした時、あの場面、あの状況を思い出すそうです。今でも、原爆ドームを見たくない、平和記念公園に行きたくないと言う被爆者もいます。

 次の日には、火災はほとんど収まっていました。爆心地から半径2km以内は幾つかのコンクリートの建物を残しほとんどの木造建築は爆風で壊され、そのあと発生した火事で焼け野原になりました。母は帰って来ない妹を捜すため、市内中心部の建物疎開現場に行きました。市内中心部は瓦礫と死体でいっぱいでした。その恐怖の中で妹を必死で捜しましたが、あまりにも沢山の死体で、足が前に出なかったそうです。死体を素手で起こしては顔を確認し、その当時胸に名前・住所を書いた布を服に縫いつけていた名札を目当てに、妹を捜したそうです。母だけではありません。皆、家族や友人を必死に捜していました。焦げた死体に白く光るものがあるので近づいて見ると、ウジ虫だったそうです。まだ生きている人の傷口にもウジ虫がわいていました。母は、焼け野原になっている市内で、偶然にも娘達を捜している父親に会ったそうです。父親は、母の無事な姿を見て本当に喜んだそうです。二人は別々に妹を捜しました。

 母の足元で「水、水」と助けを求めて、かすかな声でじっと見つめる被爆者の姿は、忘れたいけど忘れることができないと言っています。水をあげると、ショック死するから与えないで、と言われていたそうです。「水をあげればよかった!」と、いつも母は涙を流して私に言います。「助ける事もどうする事も出来なかった。何にも出来なかった」とも言っていました。

 母は、あちこちで死体が焼かれている市内を、妹の名前を呼びながら捜し歩きました。死体を焼く臭いは、本当にくさかったそうですが、人間って不思議なもので、少しずつその臭いに慣れたそうです。そうするうち、母は妹が通っていた学校の生徒は広島湾に浮かぶ似島に運ばれたという話を聞きました。戦争中、似島は検疫所があったので、たくさんの被害者が似島に連れて来られたそうです。8日、ようやく島にいる妹を見付けて自宅に連れて帰りましたが、2日後に亡くなったそうです。

 母は、家の近くの空き地に穴を掘って妹を火葬しました。そのため、お墓の中に遺骨を納めることができました。親戚の人が、「あんたの所はいいね。うちのお墓の中には、遺骨が入っていない。原爆死と書いているだけよ」と言います。このように、広島のお墓には、遺骨が見つからないために何も入っていないお墓がたくさんあります。どこでどのように死んだのか、いまだに分からないのです。

 今、平和記念公園になっている地域は、当時は約4,400人が暮らしていた町でした。それが、一発の原爆で人々はほぼ全滅し、町は焼け野原となりました。戦後、そこに土を盛って、平和記念公園が造られました。地域内にあった大きな遺骨は原爆供養塔の中に納められていますが、小さなお骨はまだ公園の下に眠っているそうです。そういう意味で、平和記念公園は大きなお墓だと私は思っています。よく広島はきれいに再建されたね!と言われますが、まだどこかで遺骨が眠っているかもしれません。広島は、まだまだ犠牲になった方の想いが残っている場所だと思います。

 施設に入っている89歳の母は、今は話ができる状態ではありませんが、「広島は地獄のようだった。表現する事はできないし、その情景をみた人しかわからないだろう・・・・」とよく言っていました。

「過去を振り返らない者は、同じ過ちを繰り返す運命にある」という言葉があります。多くの人々が、戦争で亡くなり、傷つき、苦しみました。取り返しのつかない過去の失敗を繰り返さないためにも、「歴史を勉強し、過去をふり返ること」は大変重要な事です。

 私はこれからも、無差別にたくさんの方が犠牲になった原爆の事を原爆ドームの前で伝えたいと思っています。

(写真は、本川小学校平和資料館館内のものと、碑めぐりの様子-林さんに案内していただいている)

2年生遠足 府中の森公園

今年の2年生の秋の遠足は府中の森公園に行きました。

園内では、班で協力して6つのミッションにチャレンジしながら、どんぐりや草花の学習を行いました。遠足のしおりにのっている園内マップを参考に、自分たちで先生や友だちにヒントをもらいながら、現在地や目的地などを確認し、行動していました。

「スダジイを探せ。」「(府中の森公園にきっといる)どんぐりの妖精をどんぐりに描いてみよう!」「自分の手よりも大きいはっぱを探して持ってこよう!」「コナラのどんぐりを見つけよう!」「クヌギのどんぐりを見つけよう!」「まぼろしのよっし~をさがし出し、秋の歌を一緒に歌おう!」

 

お昼ごはんの後は、元気いっぱい遊具や原っぱで遊びました。どんぐりを拾い続けてポリ袋いっぱいに集めている人もいれば、どんぐり工作でこまやヤジロベーをつくっている人もいました。広場の丘の上からゴロゴロ転がって、気持ちよさそうに遊んでいる人たちもいました。


あっという間の時間でした。うれしいどんぐりのおみやげや、楽しかったおみやげ話をたくさん持って帰ったことでしょう。

1年生遠足 祖師谷公園

 先週の金曜日、1年生は秋の遠足で祖師谷公園に行きました。祖師谷公園には、秋を感じるものが いっぱいあり、子どもたちも楽しく遊ぶことができました。

「先生、コナラ見つけたよ」「どんぐりの帽子があるよ」「この木にヤモリがいる」「ザリガニがいたよ」などと嬉しそうに話していて、たくさんの秋を見つけることができていました。帰る前には、公園に落ちているゴミを拾って、公園を綺麗にしてから帰りました。

 学校に戻ってくると「学校で遊んでから帰りたい」と子どもたち。歩いて公園に行ったので疲れているかと思いきや、まだまだ遊びたい気持ちがあり、元気に帰って行きました。