投稿者: tohoblog
このようなおもいは、もう誰にもしてほしくありません [Ⅱー372]
私たちにとって、戦争は遠くはなれた出来事でないと思います。
本校の元保護者であり、現在も6年生に話をしてくださる元木キサ子さんの手記をご紹介させていただきます。『私の戦中記・子どもに語る母の歴史』(桐朋学園初等部PTA編集部編)に執筆された元木さんの「空襲」を読んでみてください。
空襲 元木 キサ子
しあわせな時に
ふと目ざめると、殻から出たてのようなひぐらしが、たどたどしく、早朝の静けさを突き破るようにして鳴いていました。
私には、ひぐらしの音が非常に懐かしく、また、心にやり場のない寂しさを伴って響きます。
私が幼かったころ、毎年夏を待ちかねたように、神奈川県の茅ヶ崎に出かけました。
当時、私達は、本所区菊川町(今の墨田区)に住んでいました。父は、弁護士でしたが、私設社会事業をしていました。セッツルメントは「光の友社」と呼んでいたようです。茅ヶ崎では、光の友社に来ているおおぜいの子どもたちも、私たち家族といっしょでした。
茅ヶ崎の家は、子どもたちでいっぱいになります。みないっしょにおやつを食べたり、泳いだり、昼寝をしたり、夜は、灯を求めて窓から飛び込んでくる大きな蛾に悩まされながら、円陣を作ってみんなでゲームをします。
私がとっても好きだったのは、夕ぐれを知らせるように道端のあちこちにぽっかりときいろい花を開く月見草の群でした。それを追うように、ひときわ大きく響くひぐらしの音は、すべてぎらぎらと輝いている昼間とは対照的で、子ども心にもいろいろとものを考えさせました。夜になると、真暗な海の上にこぼれ落ちそうな星空の下を、父母は、歌をうたったり、ある時は、星座の話を私たちにしながら、海辺を散歩しました。
子煩悩な父は、「絶対こわくないカメさんにするから…」と、臆病な私を、よく背中に乗せて泳ぎました。母は、おおぜいの子どもたちの中で、昼寝の時間に、ルール違反をした私を、罰として夕立の中に放り出し、なかなか家に入れてくれなかったこともありました。クリスチャンだった両親は、よく私たちに話しました。神様はいつもすべての人をお守りくださっているということ。キリストの精神、また奇蹟、小さかった私は、神を信じ、人を疑うことを知らず、幸せをあたりまえのように感じて育ってきました。
私は、このような両親も、茅ヶ崎の家も、また、東京の片隅にあった本のたくさんつまった家も、みな大好きでした。が、ある日突然、それらの大好きなものがすべて無くなってしまったとしたら……。いえ、無くなってしまったのです。何もかも……。
温かいご両親の愛と恵まれた環境を空気のように感じて育っているあなたたちには、想像もできないことでしょう。これから「なくなってしまった時」の話を、当時四年生だった私に戻ってお話ししましょう。
小さい時から、あまり丈夫でなかった私は、集団疎開先の千葉県のあるお寺から、一時、東京の私の家に戻っていました。久しぶりに、両親に甘えられ、弟たちふたりと楽しく日を過ごしていました。「あと何日で、兄が、中学受験のために、集団疎開から帰ってくる。」と、兄を心待ちにしていた夜のことでした。
「ううっ…」と、断続的に鳴るサイレンの音と、「空襲よ!」という母の声に起こされました。枕もとに置いてある防空頭巾、救急袋を手早く身につけて、自分の身の廻りのものをつめたボストンバッグを持って、すぐ下の弟と、すまいの裏にあるセッツルメントの防空壕へ急ぎました。
一歩家を出た時、(どうしたのだろう)と戸惑いました。おとなたちは、どなるような大声で話しながら、忙しそうに行き来しています。夜半のはずなのに、なぜ外が昼間のように明るいのだろう。白く濁った空は、不気味に明るく、人びとはざわめきを増して、子ども心にも〈急〉のさしせまったことを感じさせました。
「ごおっ!」と、音をたてながら地面から巻き上げるような猛烈な風に、私と弟は、あわてて防空壕へかけ込みました。まっ暗な防空壕の中で、寒さと恐ろしさに、歯をガチガチいわせながら、私は、異様な外のすべての物音に神経を集中させていました。両親は、家と防空壕の間を、行ったり来たりしていましたが、入口で何か話し合っているようすに幾分ほっとした私の気持ちもつかの間、また、忙し気にいえに戻って行きました。外のざわめきは、ますます大きくなり、そっとのぞいた空は、いよいよ赤味を増して、強い風はビュンビュンと、電線をかき鳴らしています。
その時、つんのめるようにドタドタと靴音をさせながら誰か大声で壕に近づいてきました。
「何をぐずぐずしているんだ! 早く逃げなきゃだめじゃないか!」
突然、頭の上から大声が、おおいかぶさってきました。私と弟は、大声にびっくりして、あわてて自分の持ち物をつかむと、夢中で防空壕を飛びだしました。
少しの間に、いっしょに防空壕から飛びだした人たちもわからなくなり、都電の線路に沿って錦糸町方面へ延えんと続く人と荷物の中に、私たちはまぎれこんでしまいました。押し流されるように続く人の波は、みなどこへ行くあてもありません。ただ、少しでも「安全」と思われる暗い方向へと、夢中で動いているようでした。遠くあちこちに上がるまっかな炎、強風が音を立てて渦巻きながら火の粉をバラバラと落としていきます。私と弟は、ただ、みんなの行く方へ懸命に歩きました。
あたりは、幾分暗く感じられるようになりました。人の波もちょっとまばらになったと気がついた時、私は、ふいに両親と末の弟のことを、思い出しました。
「どうしよう。」
いたたまれない気持ちもつかの間、また、後から押し寄せる人波に、前へと歩きだしていました。風はさらに勢いを増し、不気味な音を伴います。私と弟は、吹き飛ばされぬよう、しっかりと手をつないで歩きました。「ずしん、ずしん」と、間をおいて足の裏から響いてくる音は、爆弾の炸裂する音でしょうか。
ふと気がつくと、手をつないでいたはずの弟がいません。私は、夢中で弟の名を呼びながら、必死に人の波を目で追いました。しかし、薄暗い人のひしめきの中ではそれ以上どうすることもできず、流されるようにしてまた歩きだしました。
薄暗い橋の上に出た時でした。ガラッガラッと大きな音をたてながら、強風にあおられたトタン板が飛ぶようにころがってきました。避けようとしたはずみに、片方の靴は見失ってしまいました。その時ふいに、赤い火の粉が風に乗って、バラバラと降りかかってきました。橋の両側で、消防団の人たちが、ぎっしりとつまって移動する人波に向って、大声で何か叫びながら、ホースで水をかけてくれました。みな、ただ、だまったまま、前へ前へと進みます。どのくらい夢中で歩いたでしょうか。人波もいつしかまばらになり、見上げると、黒い空が、目にうつりました。私は、ひとりでいることに気がつきました。急に心細くなり周囲を見廻すと、おおぜいの人びとが、かたまって伏せています。遠くの赤い火がゆらゆらとゆれるのが目にはいり、「ああ、ここは橋らしい。」、と理解することが、できました。私も、いつの間にかその人たちの群にはいり、目と耳をしっかりと押さえ、伏せの姿勢をとりました。時をおいて、からだにずうんと響く爆発音。私はただ夢中で、橋の上にうずくまっていました。ふっと音が途絶えた時、私はおそるおそる顔を上げました。その時、遠方の空に花火のような火花が降りていきました。焼夷弾だ、と思いました。みるまに、ぼうっと明るくなり、しばらくすると薄暗くなりました。ここは、不思議と飛ばされそうな強風はありませんでした。しかし、風の渦巻く音とも、人びとの叫び声ともわからぬ音が聞こえてはまた消えていきます。と、
「ああ、この世の飲みおさめに一杯!」私のすぐそばに伏せていた年輩の人が、おもむろに小さなお酒のビンを取りだし、お酒を飲み始めました。
「なぜ、このような時に、お酒など飲むのだろう。」
私は、不思議でなりませんでした。ある人は、一心に念仏を唱えていました。
しばらくして、飛行機の爆音も聞こえなくなったように思われました。今まで、無我夢中で長いこと橋の上に伏せていた私は、無性に心細く、心配になってきました。
「途中ではぐれた弟は、おとうさんたちは……どうしただろう。いま、私はこの橋の上に知らないおおぜいの人たちと伏せている。これは現実ではない。きっと私は、夢を見ているのだわ。朝になれば、きっと……。でも、もし、これがほんとうのことでも、きっと神様は父母たちをお守りくださって、朝になれば、必ず会えるにちがいないわ。」
胸の中に繰り返しながら、恐ろしい夜の明けるのを待ちました。
何んと長い夜だったでしょう。幸い、私のいた一角は、類焼をまぬがれました。
一面に、ぼうっとくすんだ空気が白み始め、朝が訪れました。気がつくと私は、放心したように、公園の木の根元にボストンバックを置いて、その上に腰をおろしていました。極度の緊張から一睡もしなかった私は、きゅうに眠くなりました。
家の暖かい堀りごたつに、足をぶらぶらさせながら、私は、小さな弟たちと、母と、安心した気持ちで、語り合っていました。
「ああ、やっぱりあれは、夢だったんだわ。あんな恐ろしいことがあって、たまるものですか! だって、私はちゃんと家の暖かいこたつにはいっているのですもの」
冷たい風に、はっと目がさめました。私は公園の木の下に、さっきと同じようにして、ボストンバッグに腰をおろしていたのです。
そこは、猿江恩賜公園でした。まっくろな顔、風と同じ方向に形づいた白っぽい髪、ぽかーんとした顔が公園の中を往き来しています。あちこちで、はぐれたらしい人たちが再会し、声を上げて泣き、そして喜びあっているようすを、私は何の感動もなくぼんやりと眺めていました。ふと、重くためこめた雲のあいだから、にぶい赤い影がのぞきました。輝きのまったくない、どす黒い血のような不気味な太陽でした。
その時、ふいに、
「あっ、震災の時と同じ太陽だ!」
と叫ぶ声がしました。声をたどると、年輩の人が不安げに空を仰いでいました。
「そうだ、私は早く家に帰らなければいけないんだ。」
瞬間、そう思いました。私は、昨夜歩いてきたであろう道を、家の方向と思われる方に向かって歩き始めました。神様が、必ずお守りくださっているということを、強く強く心に念じながら……。
歩き始めて間もなく、おひつを唐草の風呂敷に包んで背負っている人が、私をみると、おにぎりを一つ作ってくれました。片方になってしまった靴で歩きにくいのをこらえながらいっしょうけんめい歩きました。すっかり濃いもやに包まれたような周囲は、まるで夢の中を歩いているようでした。時間はまったくわかりません。しばらく歩き、もやが少し薄れて都電の交差点が見えました。ずたずたに切れた電線が、所かまわずたれ下がっています。前方の道路に目をやると、もやの中に何か黒いものがあちこちと投げ出されたようにあるのに気がつきました。
「何だろう?」
近づくにつれ、私ははっとしました。
「子どもの焼死体? 子どもじゃない、子どもはこんなに大きくはない。でも、おとなは……こんなに小さくはない。」
しばしの戸惑いと驚きの後、私はようやく理解することができました。
しばらく歩き、私は橋の近くにたどりつきました。私は、自分の目を疑い、目をこすって立ち止まりました。何を見たのでしょう。橋の上一面に、うず高く重なり合った黒い山でした。それはみな、人の焼死体でした。男女の区別どころか、どうしてこのように人びとが積み重なってしまったのでしょうか。私は、驚きの声も上げられませんでした。周囲を見渡しました。前方には歩く空間はまったくありませんでした。
赤ちゃんをしっかり抱いて路上に座ったまま窒息死したおかあさん、小さな指先だけ黒くこげ眠るように死んでいる幼い子、内臓がそのままの形で飛びだし木炭化してしまった人、たれ下がった電線の下にもがき苦しんだそのままの形で真黒になった人。橋の下には、やはり火のためか、行き場を失った人びとが、ぎっしりと水面も見えぬように動かずに折り重なって浮かんでいました。私は息を飲んだまま、時のたつのも忘れ茫然とその光景の中に立ちつくしていました。
無理に足をしっかりと地面につけて、私は歩いてきた道を夢中で公園へと引き返しました。
また私は公園の木の下に朝と同じように腰をおろし、今見てきたばかりの信じ難い、そしてあまりにも無惨な光景を、うつろな気持ちで頭の中にたどっていました。
ふと、大分離れたまばらな人影にいる小さな男の子の姿が目にうつりました。瞬間、私は立ちあがるのももどかしく、夢中で走り寄りました。はぐれた弟でした。名を呼んだまま、しばらくしゃべることができませんでした。運よく父のセッツルメントにいた方ふたりといっしょになり、きょうはとても家の方向には戻れないからということで、公園の防空壕で一夜を明かすことにきめました。
その日は、せっかく親切な人たちから戴いた乾パンも、おにぎりも、水も、何も欲しくありませんでした。何も口に入れず、冷たい防空壕の片隅に、弟と肩をよせて、セッツルメントの方たちに見守られ、ウトウトと夜を明かし、遠く鳴る空襲警報のサイレンの音に、いく度か不安な心をかき立てられました。
つぎの日、どうやら橋が渡れそうだ、という話を聞いて、私たち四人は壕を後にしました。公園の近くにはトラックが止まっていました。あちこちと無惨な姿でころがっている黒いマネキン人形のような人たちを、ザクッ、ザクッと音をさせスコップで黙もくとトラックに積んでいる人の姿を、私は何の感動もなく見て通り過ぎました。
「早く家に帰りたい。そして、早くおとうさんたちに会いたい。」
私の頭もそのことだけでいっぱいでした。私はまた、弟と手をつなぎ、なるべく周囲を見ないようにして歩みを早めました。死体の数は菊川橋に近づくほど、おびただしくなりました。ふっと、
「もしかすると先生と奥様は……」
私と弟の歩く後でセッツルメントの人たちの小声の話が耳にはいり、私は、はっとしました。
「うそよ。あんなによい人たちを神様がお守りくださらないはずがあるものですか!」
私は心の中で強く打消しました。
やはり菊川橋は渡れませんでした。今、口をきいたらすべてが〈だめ〉になってしまいそうで、私はいよいよ弟と手をしっかりつなぎ、黙って他の橋へと迂回しました。ガレキを避けながらしばらく歩き、ほんの足の巾ほど焼死体の中から出ている橋を、私たちは渡り始めました。
一歩踏み込んだとたん、
「キャア! こわい!」
私は初めて恐怖の声を上げました。
「ああ、私は恐ろしかったんだ。今までどうしてこの惨酷な、すべてが恐ろしい光景の中にいて『恐ろしい』という感じがわからなかったのだろう。私は今ごろになって初めて『こわい』といった。なぜ……?」
鉄かぶとの中でまっ黒くドクロ化した顔、飛びかからんばかりのすべてまっ黒な形相の中を、夢中で通りぬけました。途中すれちがった人たちに、学校が奇蹟的に残った、ということを聞いて、家の方向をあきらめ、学校へ向かいました。
学校に着くと、私たちは夢中で三階までの校舎の中を両親たちを求めてさがしました。教室ではあちこちの隅から「水、水!」と叫ぶ声がします。顔中まっかに火傷した人たちが苦しそうに叫んでいました。顔から足の先まで、ぐるぐる巻の繃帯の人、取り乱してわめいている人、とてもさがすことは無理でした。空間を見つけて腰をおろして間もなく、私は声をかけられました。はっと顔を上げると、三年生まで担任だった懐かしい先生でした。
「どうした? おかあさんは?」
「はぐれたまま、まだ会えないんです。」
それだけ口にすると、もうのどがいっぱいにつまって何もいうことができませんでした。先生を呼ぶ傷ついた人の声に、目でうなずかれ、教室から出ていかれました。
私は、非常に不安でした。先生が学校で母たちに会っていないということが、いたたまれぬ思いでした。しばらくして、偶然学校でセッツルメントの責任者の方に会いました。私と弟は、この方に祖母の家に連れていって頂くことになりました。
「学校で会えなかった。でも、おばあさんの家に行けば、きっと待っていてくれるわ。こんなにおおぜいの人たちの中では見つかりっこないもの。きっとそうよ。」
私は、心の中にだんだんと大きさを増す不安を否定し続けました。
次の日、廃墟のようながれきの町を歩いてお茶の水に出、すすけた顔の人びとのひしめく電車に乗って祖母の家のある駅に降りました。のどかな風景は、まるでうそのようでした。何もかも夢の中のできごとのような気がしてぼうっとしたまま駅の改札を出ようとした時、私はふりしぼるような声で名を呼ばれました。はっとして振り向くと、叔母がまっかに目をはらして走りよって来ました。
祖母の家には、叔父叔母たちが集まっていて、私たちを優しく迎えてくれました。しばらくして、私たちを連れてきてくださった方が祖母たちに状況を話し始めました。みな、目を伏せて涙をにじませながら、じっとこらえているようすでした。
私の両親たちは、知らぬ間に防空壕からいなくなってしまった私と弟を、さがしながら逃げたため、逃げきれなかったらしい、ということを私たちはそこで初めて知らされました。この方はいっしょに逃げられ、川に落ちて助かったそうです。私は、涙がどうしても出ませんでした。悲しみを胸で痛いほどに感じながらも、頭の中で両親の死を否定し続けていました。
「もしかしたら、けがをしてどこかにいるんだわ。それとも、焼跡で、まだ私たちをさがしているのかもしれない。」
私は、無理に自分の心にそういいきかせました。
しかし、日は一日一日と過ぎて、ひぐらしの音が、また高く響くころになりました。でも、どうしても私は、自分で心の片隅に作ったほんの少しの残してある希望を、むしり取ることはできませんでした。
奇蹟は、とうとう起こりませんでした。橋の上に動かなくなった多くの人びとといっしょに、父は、長い間かかって書き上げた「これがほんとうの日本の歴史だよ」といっていた幼い子どもの背丈ほどもある大切な原稿といっしょに……。母は、「ぼうや、大きくなったらお菓子屋さんになって、幕をしめてみんな食べちゃうんだ」と、集団疎開先に手紙をくれた、くりくり目のかわいい弟を連れたまま、それっきり、懐かしい姿を私たちに見せてはくれませんでした。
元木さんは、この文書を書いて、書き終わった時になみだが溢れたそうです。ためていた感情がそのときに溢れ出たのだと思いました。
このようなおもいは、もう誰にもしてほしくありません、と元木さんは言います。
新しいものや未知なものにふれたときの感激を
「子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。」
「幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。
そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることのほうがどんなにたいせつであるかわかりません。」
これは、生物学者レイチェル・カーソンの著書『センス・オブ・ワンダー』より抜粋した文章の一部です。
子どもたちには、書物等だけでは得られない、実物を使った実体験を通して、「もっと知りたい」「学ぶことは楽しい」と思えるような感情が揺さぶられる経験をたくさん積んでほしいと思っています。
その経験により得られた学びや知識こそしっかりと心に刻まれ、この先子どもたちが成長していく過程のどこかできっと活きていくことと考えます。
今回ご紹介するのは、5・6年生の団活動についてです。
団活動とは、高学年の自治活動の一つで、子どもたち自身がつくりたい・やってみたい団の呼びかけを行い、人数や活動等を調整し、団を成立させて活動していくものです。
先日の”鉱物実験団”では、「魚のからだのしくみに迫りたい!」ということで、カタクチイワシの煮干しの解剖をしました。
「煮干しでしょ?それで何かわかるの?」
なんて最初は言っていた子どもたちも、思わず黙り込んでしまうほど集中して、解剖を進めます。水でふやかした煮干しからは、ピンセットで様々なからだの部位が取り出せます。
「この、くしみたいなものは何?」
最初に目にしたのは、鰓とさいは。
なぜこのような形態になっているのか…魚の命を支える鰓について、実物を通してその重要性を知ります。
「頭から出てきたのは脳みそ?」「心臓って、こんなに小さい三角形なんだ!」
その後も、興奮する声が理科室に響き渡っていました。
そして、本日のスぺシャルチャレンジとして、生のアジとイワシが登場します。
魚屋で仕入れたものですが、ぜひやってみたいと言った人が、なんと多いこと…。
少しのレクチャーを受けただけで、専用の解剖ばさみなどを使いながら、臆することなく解剖を進めていく姿に、もはや頼もしさすら感じます。
同じ臓器でも、煮干しとはまた違う形や状態に感動しながら、あっという間に時間が過ぎていきました。
最後は、学びのための題材となった生命に感謝して。
タイムアウトのためできませんでしたが、ある子のつぶやきの中に…
「胃の中身を調べたら、その魚の食べている物がわかるんじゃない?」
「もしかしたら、(今海洋の環境問題にもなっている)マイクロプラスチックが出てくるとか?」
これこそ、「もっと知りたい」気持ちが芽生えた瞬間であり、また新たな課題へと繋がっていきます。
今度は、胃内容物を顕微鏡で見てみたい!と子どもたちと一緒になって大人も思わず、興奮してしまいました。
”学ぶことは、やっぱり楽しい!”
5年生 中学進学についての説明会 [Ⅱー371]
桐朋学園には、推薦制度があります。子どもたちがその発達段階に相応しい保育、教育を受ける大事な条件になっており、大きな意味を持っています。特に、幼児期、児童期の教育にとって、ゆっくり、じっくりと発達していくこと(「理解されている喜びや実感を得る」「自分への肯定感が生まれる」「新しいことに挑戦するときの安心感が生まれる」「安心して感情を開放する。感情表現が豊かになる」など)は、その後の発達の基礎をつくる時期ということからも大切にしなければならないことです。
昨日、5年生の保護者の皆様に、中学進学について説明会を行いました。推薦制度の意味をあらためて理解していただいて、家庭と学校とで足並みをそろえて、お子さんのよりよい成長のために取り組んでいこう、少し長い見通しで進学について取り組んでいこう、という願いがあります。
5年生の作品
説明会では、桐朋中学校、桐朋女子中学校について、お話をさせていただきました。参考にしたのは、PTA機関誌『わかぎり』と、高校卒業文集です。
桐朋中学校 校長 原口大介先生より
[桐朋中学校の教育方針や特色] 自ら考え、行動する姿勢を身につけてほしい。教育目標として第一に上がるのは、自主的精神を養うことです。自主的な取り組みにおいて最も大切なのが、個性を自分の力で伸ばしていくこと。やりたいことに打ち込める環境があり、周りも理解を示し応援してくれる。その大切さを生徒が自覚し、校風ともなっているので、個性豊かな生徒が多くいるのだと思います。また、他人を敬愛する、を掲げています。友人の持つ良い点に目を向け、お互いを応援し支えあうという発想を持ってほしい。これらの校風によって、自分から取り組んだほうがおもしろいな、自分にも何か力を発揮する場所があるのではないかという思いを、生徒一人ひとりが抱くようになると感じています。
[授業の特色]略
[桐朋小の子どもたちの印象] 個性的で発想がユニークでのびのびしている。既成の枠にとらわれすぎない、豊かな視点を持っていて本校の起爆剤になっています。受験を経験してきた生徒とは、勉強の練習量に違いはあります。教員としては、育ってきた環境が違うので練習量の差は問題ではなく、中学に入ったらこれから頑張ろうという前向きな気持ちでスタートを切ってくれたらと思っています。桐朋小の生活の中で、自分から取り組もうという意欲や豊かな発想力は身についていると思いますので、そこを活かして前向きな気持ちで取り組んでほしいです。
[小学生のうちに身につけてほしいこと] 一生懸命になれるもの、没入できる力、のめりこめる力が将来の成長や飛躍のための大きな力になります。自分はやればできる、努力すればいい方向に進めるという経験を持っていると苦手なものにも向き合えるようになります。好きなことを見つけて、試行錯誤しながら熱中し探求する体験は大きな財産ですし、与えられた時間を自分にとって魅力的な時間に変えられるような経験を持っている子はたくましいです。
[桐朋中学校の良さ] 昨年度、今年度と、陸上の全国大会で2連覇を果たした生徒がいます。陸上部の生徒たちの話を聞く機会がありました。仲間と工夫しながら、自分たちの力で頑張りたいという思いがあるので、生徒同士で話し合い、全体の雰囲気を高めていくことができる。お互い良い刺激をうけて、それぞれの良さを認めることができる雰囲気がこの優勝につながったと話をしてくれました。仲間や先輩たちと過ごす学校生活の中で、自主的に取り組む体験をし、自分も頑張りたいという気持ちに自然になっていく、そのような良さが桐朋中学にはあると思います。
桐朋女子中学校 校長 今野淳一先生より
[中学校の教育方針や特色] Learning by Doingー。為すことによって学ぶ。アメリカの教育学者ジョン・デューイ氏によって提唱された教育の概念。我々の先輩教員はこの考え方を桐朋女子の教育の中にとり入れ、生徒自らが主体的に学び行動する場面を数多く作ろうと、いろいろ工夫してきました。その結果、実習や実験等、主体的に学び本物にふれる教育が、どの教科でも数多く取り入れられています。例えば、レポートです。予めテーマが与えられるものもあれば、自分でテーマを探すものもあります。いずれも、自分で調べ、観察し、考えることが、主体的に働くことにつながります。中1からレポートの書き方を系統立てて学び、書くことを数多く経験します。教員の細かい指導により、スキルを段階的に身につけていくことが出来ます。在学中は大変ですが、レポートの書き方やフォームを身につけることは、大学生になっても社会人になっても基盤となります。また、理科の実験室は7部屋あります。教科書を使って学びだけでなく、イワシやハマグリの解剖等、自分の手を動かし本物にふれることを大切にしています。その他にも体育祭や文化祭、ミュージックフェスティバルなど学校行事は生徒たちで運営し、教員はサポート役にまわります。
[先生との個人面談]略
[小学生のうちに身につけてほしいこと] 基礎的な学力はしっかり身につけてきてほしいです。苦手な部分があってもいいんです。頑張ってやる姿勢を身につけてほしい。桐朋小には図書の時間がありますね。物語や伝記などを読んでその情景を自分の中で想像したり、この人はどんな苦労をしたのかなどと想像したりする場面を、たくさん持ってほしいと思います。また、学校行事や遊びなどいろいろな経験をして、どんなことも一生懸命、積極的に取り組んでほしいです。桐朋小にはそれらの力が身につく環境があると思います。初等部出身の生徒たちは中学に上がっても、くらいついてくると感じる場面が多々あります。
[桐朋女子中学校の良さ] 多くの学校行事を生徒たちで仕切るため、力仕事も生徒たちでこなし、仲間と工夫してどんどん動く姿が見られます。リーダーシップや積極性、コミュニケーション力を養う経験を多く積めるのも、桐朋女子の良いところです。誰かの目を意識することなく、自由にのびのびとしている雰囲気があります。この冬に導入した制服のスラックス購入者は、メーカーさんが驚くほどでした。高校から入学したある生徒は、中学からの子はみんな自分を持っていて、いつも自然体で素の自分でいるので、私たちも構えることなく素の自分でいられると言っていましたが、私も同感です。こういったところも、桐朋女子の良いところです。
秋の遠足~多摩動物公園~
2年生は、秋の遠足で多摩動物公園に行きました。
「キリンは高いところのものも、かんたんにとどくからさすがだな!」
「コアラがうごいているところをはじめてみた!」
動物園に入るなり、多くの動物たちとの出会いに、大喜びの子どもたち。
クラスみんなで一ばん高い丘の上まで登りきると、3クラスが混ざった班でお弁当の時間。
今回の遠足は、事前に3つのクラスの子どもたちが6人の班をつくり、午後まわりたいところを自分たちで決めて計画をしました。
事前の話し合いでは、班の目標をつくり、時間内にどうやったらみんなのまわりたいところに行けるのかを真剣に話し合いました。
さあ、お昼を食べ終わった班から出発です。
「どうやったらいけるかな?」
「ここからいけばいけそうだよ!」
「やっぱりこの動物をみにきてよかった!」
など、各班で協力している様子が見られました。
どの班も時間をまもりながら、楽しく探検、大成功!!です。
ふだんはなかなか交流がない友達とも繋がりながら楽しむ動物園。
帰るときの子どもたちの顔は、ちょっぴり得意気でした。
11月の本だな[Ⅱー370]
3~6年生の校舎に入ると、すぐに図書室があります。図書室前の掲示板には毎月たくさんの本が紹介され、桐朋小の人たちはよく見ています。【11月の本だな】この本よんで! より
『三つの願い パレスチナとイスラエルの子どもたち』
デボラ・エリス作/もりうちすみこ訳/さ・え・ら書房
イマーン・ハミード・ヒジョー4か月、イェフダ・ショハム5か月、ヤマコヴ・アヴラハム7か月、シャルへベット・パス10か月、…。イスラエルの占領に対し、パレスチナの抵抗運動(2000年~2003年)で亡くなった429人の子どもの名前がはじめに書かれています。生きたいと願う尊い命が奪われました。
作者エリスさんは、2002年、イスラエルとパレスチナ人地区で出会った子どもたちに、毎日の生活や願いをたずねました。
「…爆弾のことが、一番こわい。だって、いつどこで爆発するかわかんないもの。お店で靴買ってるときかもしれないし、バスに乗ってるときかもしれない。なんにも悪いことしてなくても、爆弾に吹きとばされるんだから。…」ダニエルさん/八歳/イスラエル人
「…紛争については、みんながいつも話してる。わたし、自分のガスマスクも持ってる。学校に行ってる子はみんな持ってるわ。そのマスクをつけてれば、だれかがガス弾を落としても、息ができるの。…」ギリさん/八歳/イスラエル人
「…銃撃戦は、いつも突然はじまるんだ。いつおこるかぜんぜんわからないから、ものすごくあわてる。だから、四六時中、身がまえていなくちゃいけない。それに、いったんはじまったら、いつ終わるかもわからない。ぼくら、ほっとするときがまったくないんだよ。…」マハムードさん/十一歳/パレスチナ人
「…母さんは、もう長いあいだぐあいがよくなくて、今じゃ、まったく口をきかなくなってしまった。家がこわされるたびに、母さん、ものすごく悲しんで、とうとうしゃべれなくなったの。わたしは家がなくなったことより、母さんの声が聞けなくなったことのほうが何倍もつらい。母さん、わたしに怒りをぶつければよかったのに。…」ワファーさん/十二歳/パレスチナ人
戦争が、子どもたちの心、生活にどんなことを起こしているのか、子どもたちの声からとらえたい。
『カイト パレスチナの風に希望をのせて』
マイケル・モーバー作/ローラ・カーリン絵/杉田七重訳/あかね書房
紛争のヨルダン川西岸地区。同じ土地をめぐって、パレスチナとイスラエルが対立し、敵と味方を隔てる壁がはりめぐらされています。パレスチナの少年サイードは、大好きな兄をイスラエルの占領軍に殺されました。壁のむこうには、パレスチナ勢力に母を殺された少女がいます。
兄を殺されたサイードは話すことができなくなりました。敵を憎むかわりに、オリーブの木の下でカイトをつくり、ちょうどいい風がふいてくるのを待って、壁のむこうへ飛ばします。それを受けとる少女。
ある時、空に数えきれない数のカイトが浮かびます。そして壁を越えて飛んできます。「むこうの連中、カイトになんと書いてきたと思う? 『シャローム』だぞ。やつら、『シャローム』と書いてきおった。信じられるか? 平和って意味だよ。それに、こいつをごらん! ほら!」「カイトのもういっぽうの側には、はとが1羽えがかれていた。」この様子を捉えた記者が、「ここの壁はきっと、子どもたちの笑い声がくずすにちがいない。」と、希望を語ります。
『六号室のなかまたち』
ダニエラ・カルミ作/樋口範子訳/さ・え・ら書房
イスラエル兵に弟を殺された少年サミールは、パレスチナ・アラブ人の一人として、生まれた時からイスラエルへの憎悪と敵対心の中で育てられてきました。膝の手術を受けるため、イスラエルの病院に入ります。不安と孤独で、押し潰されそうになる病院での日々を、毛布の中でおまじないを唱えたり、思い出をたどったりすることで、サミールは乗り越えていきます。イスラエル兵士を兄にもつツァヒの無視にも耐えます。ある日、同じ病室の一人ひとりが粘土で自由に作品をつくり、サミールがつくった作品をルッドミラーは大切にします。また同じ病室のイスラエル人ヨナタンらと言葉を交わし、火星仮想体験で、自由と解放感を味わうなど、友情を育みます。サミールは最後に、「ぼくは、ユダヤ人でイスラエル人のヨナタンと、撃ちあうことなくこうやって、新しい世界にふみこむことができた。」と語ります。そうしたい、そうしていきたい。
3年
秋のお休みに・・・
11月に入ったというのに「夏日の気温」が戻ってくるのだとか。
驚きはもちろんのこと、温暖化の影響を感じずにはおられません。
先日、PTA公費助成セクションのみなさんと教職員が協力して、仙川駅前で署名活動を行いました。
コロナ禍での中断があったため、久しぶりの街頭活動。
桐朋学園の幟を立てて、ひとりひとりの言葉で署名の協力を呼びかけました。
帰宅をいそぐ忙しい時間帯でしたが
「教育の充実のためなら、協力しましょう」
「子どもが小さいころに書きました。久しぶりに署名します」
などの会話がうまれて、駅前ならではの交流ができました。
高校生と思われる若い方も足をとめてくれました。
外で署名をするのは勇気がいることだと思います。
全国を見回すと、経済的な理由で通学や進学をあきらめる生徒も増えていると聞きます。
若い世代が「自分ごと」として行動してくれたことに、一同大変感激しました。
(5年生の夢!友だちとの語らい・バスケット選手・野原で心ゆくまでの読書!)
さて、各ご家庭にも黄色い署名封筒が届いていることと思います。
「全ての子どもたちにとって、よりよい教育環境を!」
そんな願いを、一筆一筆にこめて請願していきたいものです。
秋休み期間を利用して、ぜひご協力をお願いします。
★休校期間中は、忘れ物などを取りに来ることはできません。
★卒業生などの来校も、ご遠慮ください。
★登校再開日、上履きなどを忘れないようにしましょう。
桐朋小学校 教務
なんとかして戦争や紛争を終わらせたい [Ⅱー369]
10月、6年生と広島へ行き、戦争の被害と加害の歴史を学びました。平和資料館では、ぼろぼろの衣服や持ち物、炭化したご飯、ひしゃげたビンや時計、あまりに酷い状況でシャッターを切ることができなかったという写真などを見ました。「助けて」「水をちょうだい」「苦しい」などの呻き、「助けてあげられなくてごめんなさい」などの悲しみを受けとめました。爆心地すぐ側のお寺では、お墓の石のすべすべしたところとざらざらしたところに触れました。ざらざらは、高熱で一瞬にして溶け、固まったものでした。現地で、戦争の悲惨さをあらためて感じました。
すべてを破壊し、生命を奪い、不幸にする戦争はしてはいけないと思います。
13歳(中学1年)で被爆し、ご両親を亡くした笠岡貞江さんより、当時の様子を聞きました。大久野島で、山内正之さんより、国際条約違反の毒ガスを製造し、使用した加害の歴史を聞きました。お2人は、戦争の事実とその悲惨さから「2度と戦争をしてはいけない」と語りました。笠岡さんは、亡くなったお母さんの子ども(自身やごきょうだいのこと)を思う気持ちを思い出すと話が止まってしまうと言っていました。こうした苦しみを、もう誰にも味わせたくない、と。
10月、「ガザで少なくとも2千人の子どもが死亡した。負傷者も多数に上る」、「空爆にあっても身元が分かるよう、自分や子どもの手に全員の名前を書いた」などの新聞記事。泣き叫ぶ子どもの姿、子どもの遺体を抱く家族の姿、破壊された町が何度も映されます。それでもイスラエル、ガザ地区で命が奪われ続けています。このような〈世界〉は間違っています。おかしい。ヒロシマで戦争による被害と加害を学び、2度と戦争をしてはいけないと学んでいる私たちは、この現実を生きています。
9月22日、ウクライナから絵本作家のロマナさん、アンドリーさんが桐朋小に来て、なぜ絵本をつくったのか、現在のウクライナについて話をしてくれました(*)。2人は、ウクライナでの戦争を体験し、親子で戦争を考え話し合える本『戦争が町にやってくる』をつくりました。絵本を6年生と読みました。「心に残ったことは『残念ですが、すべてがなおるわけではありません』という文です。戦争が終わって町の風景がよみがえっても、心の傷は治らないという事なんだな」など、感想を共有し、さらに戦争を考えています。
お2人から直接話を聞いて、6年生はいろいろなことを感じ、考えました。「作品をかくとき辛くなかったですか」と聞くと、「悲しかったり、心が痛くなったことはよくありました。友だちもこの戦争で命を落としました」「命はもとに戻せない」と話してくれ た。お2人との出あいから、さらに考えます。
*授業は、読売、朝日、東京、毎日小学生新聞などに掲載されました。
私たちは、平和を願う声を交わし合い、どうすればいいのかを話し合いましょう。この事態をおかしいと思い、その解決を考え、声をあげましょう。間違っていることに対して、声をあげ、いろいろな人と話し合っていきましょう。命を、平和な〈世界〉を取り戻すために。
最後に、平和な〈世界〉をつくろうと声をあげる高校生、大学生のことを。長野の高校教員の小川幸司は、高校生について「危機のなかで生きることに慣れてしまい、危機をとらえる感性が擦り減っている大人よりも、危機の克服のための歴史認識(「出来事のメシア的停止」)をとらえる鋭敏さがある」と言います。高校生や大学生が声をあげて平和をつくる、その取り組みに励まされます。私たち大人はどうすべきかを問われています。
しぜんひろばの「柿」が大豊作
桐朋小学校のしぜんひろばには、実のなる多くの樹木が育っています。
ビワやナツミカンなど、食べられる実を子どもたちが採って味わうことが醍醐味です。
今の時期は、カキが大豊作です。
大きな2本のカキの木には、綺麗なオレンジ色の実がたくさんなっています。
「赤くて熟した実は、鳥に食べられちゃっている!」
「学校のみんなで柿とりをしてみたい。」
そんな全校の子どもたちの声が届き、まずはしぜんひろば委員会の5、6年生が偵察に行きました。
「ためしに、一つ二つ採ってみようよ。」
すると、高いところまで届く、長い竹の先を二股に割って作った、お手製の”柿採り棒”が登場!
「根本をはさみこんだら、ぐるっと回して、柿の実を採るよ。」
「なかなかうまくいかない・・・せーの、よいしょ!」
6年生が三人がかりで、重くて長い棒を操ります。
そして、ついに実をとらえて、下で待ち構えていたバケツでキャッチ!
「やったー!!ナイス!」
その間も、委員会の他の子どもたちは、しぜんひろばで全校のみんなが安全に遊べるように、築山に土を盛ったり、池の掃除をしたり、環境整備に大忙しです。
そして、仕事がひと段落したところで、一足早くカキの実をみんなで味わいました。
「すっごく甘い!」
「おいしい~!」
「一仕事した後の、柿は最高!」
大喜びで自治の時間を終えた、しぜんひろば委員会の子どもたちでした。
この豊作のカキは、もちろんこの後、小学校のそれぞれのクラスで採ったり味わったりします。
さあ、お楽しみに!
物質の「三態」に迫る
5年生の理科では、『三態変化』という学習を進めています。
日常生活で見られる物の変化に目を向けつつ、理科室でしかできない実験を通して、さまざまな物質が「どんな状態へと変化するのか」じっくり観察していきます。
今回は、子どもたちが、ストロー状のガラスをガスバーナーで熱する実験です。
以前に、金属のスズをガスバーナーで熱して、固体から液体(液体から固体)になる様子を確認しているので、
「ガラスは液体になる?ならない?」意見は2つに割れます。
では、実際にやってみよう!
「ぐにゃんと柔らかくなった!」
「常温に置いておくと、また硬くなる。」
「これは、液体の状態ではないね。」
安全面に留意した上で、ガラスをのばしてスポイトを作ったり、先を閉じてマドラーにしたり・・・
ガラスの不思議な魅力にすっかりはまってしまう5年生でした。
~追記~
昨今、小学校の理科の授業では、アルコールランプやガスバーナーが消え、カセットコンロなどを使うことが増えてきました。
確かに、現在の生活では、マッチを擦る機会はほとんどない。
家庭の台所と同様、つまみを回せば簡単に火をつけることができる。
しかし、桐朋小学校の理科では、子どもたち一人ひとりがガスバーナーを扱えるようになり、それを使用して実験することを大事にしています。
「どのように点火し、どうしたら燃焼し続ける炎をつくりだすことができるのか?」
子どもたちが自ら体験することで、その原理を理解し、本質を捉えることができるのだと考えています。
構造を理解するために、ガスバーナーを分解し、仕組みを学ぶことから始めます。
元栓を開け、ガス調節ねじを回して点火する。
火の大きさを調整する。
不完全燃焼の状態から、空気調節ねじを回して空気を送り込み、持続して燃焼する青い炎をつくりだす。
「だから、空気(酸素)がないと、火は消えてしまうのだね。」
「実験で何か異常があったとき、音で気づくことができる。だから、ガスバーナーを使った実験中はしーんと静かに集中しよう。」
元栓係、マッチ係、ガスバーナー係…と役割分担し、何度も練習することで、一人ひとりが、使い方をしっかりと習得していくのです。
危険だから遠ざける、むやみに怖がるのではなく、時間をかけ根本を理解した上で操作することで、炎というものに向き合い、安全に取り扱うことに繋がるのではないでしょうか。
これからも、子どもたちの追究は続きます。