投稿者: tohoblog
「最高の一日!」
6年生は広島への修学旅行、1~3年生は遠足へ出かけた本日、
初等部は幼稚園生と4年生と5年生のみです。
職員室も廊下も静かで、少しさみしいなぁと大人は思うのですが、
残っている子ども達曰く「めっちゃ最高」「神の一日」なのだそうです。
なぜかって?
それは、校庭も体育館も使いたい放題だから!
休み時間は「貸し切り」で野球やサッカーに興じていました。
心なしか、ボールの勢いが良く見えます。
4年生は、両クラス合同で体を動かすことにしたようです。
いろいろな組み合わせでドッチボールに興じていました。
5年生は、音楽室いっぱいに様々な楽器をひろげていました。
桐朋学園大学のホールにオーケストラの演奏を聴くチャンスがあるかもしれないので、
様々な楽器を手に取って確かめているのだとか。
いつもの場所でのちょっと特別な時間を、お留守番チームも目いっぱいエンジョイしました。
週明けに、遠足チームのお土産話を聴くのが楽しみです。
(幼稚園の子ども達は、昨日掘ったお芋をならべて、どんどん筆を走らせていました!
おいしそうな絵がいっぱいです。)
修学旅行3 広島平和記念資料館、原爆ドーム [Ⅱー407]
2日目、朝8時30分より、広島平和記念資料館の見学を始めました。10時過ぎまで見学時間を設定しましたが、イヤホンガイドを聞きながらじっくり展示物に向き合うと、時間が足りなくなりました。写真、展示物と解説、イヤホンガイドの吉永小百合さんの詳しい説明やご遺族のことばが心に響き、当時のことを思い出して描いた絵とことばに立ち止まり、何度も涙がこぼれました。
資料館入口にある地球平和監視時計は、10月24日、広島への原爆投下から28934日、最後の核実験からの日数 163日を示していました。
-原爆をうけた三輪車(広島平和資料館 学習ハンドブック表紙写真)。当時3歳11カ月の銕谷伸一(てつたにしんいち)ちゃんは、この三輪車に乗るのが大好きな子。8月6日の朝、伸一ちゃんは、家の前でこの三輪車に乗って遊んでいる時に被爆しました。体中に大けが、大やけどを負った伸一ちゃんは「水、水……」とうめきながら、その夜、亡くなりました。伸一ちゃんのお父さんは、たった3歳の子がひとりぼっちでお墓に入るのはさびしいだろうと思い、亡くなった伸一ちゃんと三輪車を一緒に庭にうめました。
-それから40年たって、お父さんは伸一ちゃんの骨を掘り出してお墓に入れ、三輪車を広島平和資料館にあずけることにしました。(広島平和記念資料館学習ハンドブックより引用)
*掘り起こした時、鉄かぶとの中には伸一ちゃんの丸い頭の骨が残っていました。/伸一ちゃんのほか、倒れた家の下敷きとなった長女の路子さん(当時7歳)と次女の洋子ちゃん(当時1歳)も亡くしました。
イヤホンガイドから流れる、泣きながら語っている父親のことばに涙がこぼれました。
私は、展示物を見て、解説を読み、イヤホンガイドのことばを聞いています。そして、展示物からの声を感じました。伸一ちゃんの三輪車ならば …(三輪車から、)ぼくを 好きで たくさん乗ってくれたね。ぼくに乗ってくれた 伸一ちゃんが また乗ってくれるのを ずっとずっと待っている。一緒に あそびたい …などと。
何回も、アーサー・ビナードさんの「声なき『ものたち』の声」の本『さがしています』(アーサー・ビナード・作 岡倉禎志・写真)を読んできました。私も「声なき『ものたち』の声」を聞きたいと思います。
『さがしています』には、広島平和記念資料館所蔵の「カタリベ」たちの「声なき『ものたち』の声」が表現されています。アーサー・ビナードさん曰く「『もの』がカタリベとなり、読者にはっきりきこえる言葉を発するためには、さまざまな力添えが必要」で、それがされていて、「それぞれの息づかいと、豊かな表情がつたわる写真」が迫ってきます。本書の中身を少し紹介させていただきます。
<岡原政太郎さん> 当日、爆心地から300mの歯科医師会館で仕事をされていたそうです。文と政太郎さんの義歯の写真があります。
アーサー・ビナードさんは、「おもいのと あついのと くやしいのと みんな いっぺんに くずれおちてきて ぐっぐっぐーーっと マサタロウさんの 口が まるごと きえちゃった。(1行あき)ぼくらはさがしているんだ。」と表現しています。
<平柿保さん> 爆心地から500mで被爆されたそうです。文と保さんのメガネの写真があります。
「ぼくが いつも とまっていた おじさんの 鼻が きえてしまった。」
「ウランの 核分裂を はじめたら どうやって おわりに できるか……さがしているけど 見えないんだ。」
アーサー・ビナードさんは、「声なき『ものたち』の声」をたくさん聞いて表現されています。私も、もっともっと聞きたい。
原爆ドームについて
1日目の碑めぐりやスケッチで、2日目は平和資料館2階から、何回も原爆ドームを見ました。帰ってから、国語教科書の「平和のとりでを築く」(大牟田 稔)を読みました。原爆ドーム保存について書いてあったことを思い出しました。教科書には、
-原爆ドームを保存するか、それとも取りこわしてしまうか、戦後まもないころの広島では議論が続いた。保存反対論の中には、「原爆ドームを見ていると、原爆がもたらしたむごたらしいありさまを思い出すので、一刻も早く取りこわしてほしい。」という意見もあった。
-市民の意見が原爆ドーム保存へと固まったのは、一九六〇年(昭和三十五年)の春、急性白血病でなくなった一少女の日記がきっかけであった。赤ちゃんだったころに原爆の放射線を浴びたその少女は、十数年たって、突然、被爆が原因とみられる病にたおれたのだった。残された日記には、あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世にうったえかけてくれるだろう--、と書かれていた。この日記に後おしされて、市民も役所も「原爆ドーム永久保存」に立ち上がったのである。
-痛ましい姿の原爆ドームは、原子爆弾が人間や都市にどんな惨害をもたらすかを私たちに無言で告げている。未来の世界で核兵器を二度と使ってはいけない。いや、核兵器はむしろ不必要だと、世界の人々に警告する記念碑なのである。
*楮山さんは当時1歳で、1・3キロほどはなれた平塚町(現、中区)の自宅で被爆しました。日記には、「あの痛々しい産業奨励館(原爆ドームのこと)だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」と書かれていました。楮山さんが16歳に白血病で亡くなる前の年につづった日記の一部だそうです。保存か壊すかの結論が出ない中、地元の子どもたちの団体「広島折鶴の会」はこの言葉に大きな刺激を受け、原爆ドームの保存運動のための活動を始めました。保存への機運は高まり、広島市議会は66年に永久保存を決定しました。(中国新聞 広島メディアセンター参照)
見るたびに惨状を思い出し、辛いおもいをする人がいると思います。見るたびに、2度とこうしたことを起こさないと誓う人がいます。
修学旅行2 本川小学校平和資料館見学 [Ⅱー406]
本川小学校は、爆心地から410メートルの場所にあります。当時、児童218人が即死(「広島原爆戦災誌」)するなどたくさんの方が犠牲になりました。奇跡的に助かったのが、居森清子さんと和子さんでした。
「本川国民学校でたった一人生き残った」居森さんについて、パネル展示(上の写真)されていました。「私たち(居森さんたちー中村)は火の粉が飛んできてどんどん熱さがせまってくるので、頭から水をかぶりながら(本川でー中村)長い時間じっと水につかっていました。」「私たちはいかだにつかまり、『友達の分までがんばろう』と言い聞かせました。死体がすぐそばを次々と流れていきましたが、必死だったので怖さは感じませんでした。午後3時すぎ、火の手が少しおさまったころ、和子さんと2人で校庭にあがりました。そこに黒い雨がふってきました。」「一週間ほどそこにいた(避難所ー中村)のですが、何も食べることができず、吐いてばかりいました。熱も高かったように思います。後から考えると、原爆の影響だったと思います。和子さんはお父様が連れて帰られましたが、まもなく亡くなったということを大人になってから知りました。和子さんは生きていると思っていたので、それを知ったとき、とてもショックでした。」などと書かれていました。*中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター「連載被爆70年」に、「居森清子さん(80) 本川国民学校で被爆」の記事があります。
ガイドのお一人が、『いわたくんちのおばあちゃん』の作者である天野夏美さんでした。資料室やパノラマ(平和資料館に展示していた被爆直後の広島市街地を再現した2代目のパノラマ(69年製作)ー上の写真左)の前で、当時の様子、居森さんの話をたいへんていねいにしてくださり、心に響きました。
資料館で天野さんが書いた『いわたくんちのおばあちゃん』(天野夏美/作、はまのゆか/絵、主婦の友社)を購入し、帰りの新幹線で読みました。
いわたくんのおばあちゃんは、絶対に家族と一緒に写真を撮らない。なんで撮らないのか「ぼく」は知っている。
1945年8月初め、いわたくんのおばあちゃん(ちづこさん)の家族は疎開する前に、家族全員の写真を撮った。
8月6日午前8時15分、「世界で初めて人の上に原子爆弾が投下された」。いわたくんのおばあちゃん(ちづこさん)は、「ひとりぼっち」になった。大切な家族を失った。
戦争が終わって何カ月かたった頃、写真館のおじさんがちづこさんに家族で撮った写真をくれた。「家族みんなで 写真をとった あの日。/でも、写真を 見ることが できたのは/ちづこさん ただひとり だったのです」
いわたくんちのおばあちゃんは、「いっしょに写った家族が/みーんな 死んでしまった/あの八月が 忘られへんで、」「ずーっと 家族と いっしょに いたくて、/ずーっと 家族の笑顔を 見ていたくて、」「だから いっしょに写真を とらんのよ。」
「ぼく、戦争/せんけえね。」「ぼく、おとなになっても 戦争せんよ。/ほんとよ。」
あとがきで、天野さんは、「いわたくんのお母さんは、/子どもたちに原爆の話を伝えるとき、/こんなふうに結びます。」「『戦争なんてずっとむかしの話』、なんて思わんでね。/ひょっとしたら、『未来の話』になるかもしれんのよ。/『未来』、それは、君たちみんながつくっていくものだからね。」と書いています。
広島修学旅行1 [Ⅱ-405]
広島へ修学旅行に行ってきました。
新幹線の中や路面電車に乗る前、車内などで、子どもたちは年配の方から声をかけられました。「どこから来たの?」「どこに行くん?」と聞かれてこたえたり、「広島をたのしんで来てね。」「天気が良くてよかったねえ。」などとあたたかいことばをいただきました。声をかけられた方の周りにいらした方が、やりとりをニコニコしながら聞いていました。
現地でいろいろな方にたいへんお世話になりました。ありがとうございました。
修学旅行について数回に分けて書いてみたいと思います。今回は概要です。
[1日目] 路面電車で「原爆ドーム前」に到着。爆心地に一番近い本川小学校を見学(写真は、本川小学校平和資料館・被爆建物)。
平和記念公園で写生
笠岡貞江さん(当時12歳)から被爆証言を聞きました。下の写真は、笠岡さんの当時の記憶を絵にしたもの。
[2日目] 広島平和記念資料館の見学
平和記念公園、爆心地など碑めぐり
宮島 厳島神社
「お好み物語」で夕食
[3日目] 大久野島
「大久野島から平和と環境を考える会」の山内正之さんからお話を聞く。
大久野島毒ガス資料館の見学、島内めぐり
アクティビティ(登頂ハイキング・遺跡めぐり サイクリング・ディスクゴルフ・つりー写真・浜辺散策 貝がらアートから選択する)
[4日目] 島内で少しゆっくりしてから帰省
修学旅行中に、広島で選挙ポスターを見ていて、選挙について話をしている子どもたち。
子どもたちの様子から、弁護士の楾大樹さん(『檻を壊すライオン』の著者)が、「家族と政治のニュースを話題にしてみる」という身近なところから、「選挙でちゃんとした投票行動をできる」、「政治の話がちゃんとできる大人に育つ」ことの大切さを述べていることを思い出しました。そして、「大人が、主権者の先輩として、後輩主権者を育てていかなければなりません」ということも。
委員会のお仕事
「自治」という高学年の授業があります。
5,6年生の全員が委員会に所属し、委員会ではその5・6年生の子どもたちと担当の先生とが、お互いに意見を交わしながら、あそびのきまりの見直しや新しいルールを作っていきます。
全クラスから出された意見を基に各委員会で話し合い、実際の状況を確認します。
そして、全クラスからの意見を吸い上げながら学校のみんなが過ごしやすい環境にするにはどうしたらいいか?と考え合います。
体育委員会でいうと、グラウンドや体育館の使い方とルールの見直しをします。毎日、下校前には遊び場の見回りを行い、忘れ物を届けたり片付けをしたり、管理を行います。
時には新しいバットやボールを用意したり、砂場に砂を搬入する作業も行っています。みんなが使うあそび場の環境を整えることをがんばっています。
管理ばかりではなく、時には全校児童が楽しめるような遊びの企画を考えたりもします。
写真は、前期委員会活動の最終日にこれまでの活動をふり返って感想を共有しているところです。
前期、グラウンドと体育館の使い方や決まりが見直されました。
これまで以上に過ごしやすい環境を作りあげた体育委員会の子どもたちです。
自治の授業の中で、様々な委員会が管轄する場所の決まりを常に見直し、一歩ずつ子どもたちで作って、運用しています。
どの国も核兵器なしにならないのかな?
前回の続きです。
平和教育を進めていく際、「平和学習を単調な道徳の刷り込み授業としないこと、そのためには、まず多角的に事実を捉えさせること」を意識しています。また伝承者の高齢化に伴い、子どもたちが未来の担い手として、史実を伝承していくことも大事にしています。
以前、東京大空襲の伝承を語り継ぐプロジェクトに関わっている方のお話をきいて、伝承者として大切にすべきことを教わりました。一つは、忠実さ。直接体験した方の体験や思いを省略せず、丁寧に伝えること。二つ目に、直接体験した方の思いと伝承者である自分の思いを混同させないこと。三つ目に、平和は正しいこととして押し付けるのではなく、未だに平和を実現できていない自分自身の罪深さを自覚すること、だと話してくれました。三つ目に関しては大人が意識すべきことだと思いますが、ほかの二つは、子どもたちにも伝え続けています。
だからこそ、学んだあとは情報を共有し、整理し、そして自分の考えを伝える時間も確保しています。また自分の考えだけではなく他者の考えを受け止め、学びを深めていくことも大事にしています。
桐朋小学校の平和教育については、『桐朋教育』第56号にて紹介されておりますので、関心のある方はご一読ください。
・今日話を聞いて思ったのは展示品が思ったより大事なんだなってことです。東京大空襲の資料館へ行ったときは展示品より資料を見ていたので、広島では展示品もしっかり見ようと思います。ほかには「核兵器禁止条約」で核兵器をもっている国は条約に参加していないと言っていて、それなら、その条約は意味がないんじゃないかと思った。かんじんの核兵器をもつ国が使えるってことだから。どの国も核兵器なしにはならないのかな?
・あんな3メートルの1つの爆弾で14万人死んでしまった。そこにいたか、いないかで生きた人と死んだ人がいるっていうのがこわいです。核兵器禁止条約は別に参加しなくてもいいわけで、あまり意味がないと思った。それに核兵器を強い国が捨てたら、ほかの国に攻められるかもしれないし、「核兵器を捨てました」とアメリカが言ったとしても実はもっているかもしれない。だからそんなに意味がない気がした。全部の国が捨てるということはすごくむずかしいと思った。でもみんな核兵器をもっていたら、手が出せなくなって安全になるのかな?
戦争のこわさをみんなが忘れてしまったら
先月、被爆二世の山岡美知子さんが広島から桐朋小学校に来てくださいました。山岡さんはピースボランティアとして平和記念資料館や平和公園をガイドし、被爆体験伝承者1期生として国内外の人たちに被爆の実相を伝え続けている方です。
山岡さんは両親被爆後、5年後に生まれました。被爆した母から話を聞いた経験はあったものの、さほど関心はなかったようです。ボランティア活動を始めてから被爆の実相について勉強すればするほど、詳しい情報が知りたいと思うようになり、また後世に伝えたいという気持ちが強くなり、被爆の実相を冷静に、正確に伝えていく活動を続けています。
・今日、山岡さんのお話をきいた。原爆の話はきいたことがなかったから、きけてよかった。放射線は見えないけれど、放射線にあたって病気で亡くなっちゃう人がいる。熱線は3000℃~4000℃、あたったらすごく痛いと思う。助けてといわれて、助けてあげられなくて生き残った人は、とても悔しい思いをしたんだということを、山岡さんのお話をきいてよくわかった。山岡さんは英語が苦手だけれど勉強して、外国人の学生に伝えていってる。今日、山岡さんのお話をきいて、いろいろな人に伝えようと思った。広島の修学旅行でたくさん学ぼうと思った。
・私が印象に残ったのは、原爆によって負うキズ。体に負うのは、ケロイド、がん、白血病、ぶらぶら病。その場で亡くなった人たちも。それに心のキズ。たとえば友達や家族、知り合いを見殺しにしたり、目の前で亡くなったり。きっといろんな人が苦しんだと思う。ひふや肉がたれたり、キズの中にウジ虫がいたりして。私は、毎日友達と会えて、ありがたい生活だと思う。どうすれば戦争を起こさずに、核兵器を使わなくして、一人でも苦しまない生活ができれば、と思う。
・35万人もいたのに14万人も死んだなんて。しかもたった4ヶ月で!そのあともきっと死んでいるから、戦争っておそろしいと思った。でも実際、戦争の場にいないから、本当のおそろしさは、ほとんどわかっていないと思う。昨日、校長先生が平和公園で広島のガイドをしている子のYouTubeを見た。しかも、英語。そうやって世界に戦争のこわさを伝えていていいなって思った。みんなに伝えていかないで、戦争のこわさをみんなが忘れてしまったら…。
修学旅行先で、なにを見て、どんなことを学ぶのか。山岡さんのお話をきいて、少しずつイメージができてきました。亡くなった人だけではなく生き残った人の辛さ、心のキズにも焦点を当て、学んだことを、またこれから学びたいことを整理していました。
本日の運動会について
本日の運動会は、予定通り実施の方向で準備を進めます。
開門は8時です。早すぎる来校は禁止します。
保護者の開場予定時刻は8時半ですが、グラウンドの状況で少し遅らせる可能性があります。
受付の指示に従ってください。
IDなどお忘れなきようお持ちください。
子ども達への温かいご声援をお願いいたします。
桐朋小学校 教務
やりたい! 楽しい! 気持ちいい! 好き! 格好いい![Ⅱー404]
桐朋小学校では、民舞に取り組んでいます。子どもたちと、民舞を学び、身体を耕し、しなやかな身体をつくろう。身体いっぱい表現し、その楽しさを味わおう。みんなで一つのことをつくる喜びを味わえたら嬉しい。そうした願いを持ちながらすすめています。
民舞は、日本各地で地域の祭りや盆踊り、神楽の奉納などで踊り継がれてきた芸能です。それらの多くは、日常生活の労働の中で培われてきた身体の使い方が、踊りの元になっています。地域の中で世代を超えて人と人を繋ぐ大切な共有財産、かけがえのない文化です。踊りを通して、繋がり合い、連帯し、生きる喜び、祈りや願いなどの感情を共有してきました。桐朋小でも、みんなの文化として民舞を大切にしています。
1年生は、【荒馬】を
元気いっぱい跳ねる馬。大太鼓の音に合わせて、元気な馬がグランドいっぱいに駆けまわります。
青森県今別町のねぶたのお祭りで踊られる、荒馬を基にしています。跳んだり、跳ねたり、元気いっぱい声を出し、表現します。「ラッセラー ラッセラー / ラッセ、ラッセ、ラッセラー」
4~6年生が、会場づくりも大切にすすめています。
2年生は、【花笠踊り】を
踊りに親しみ、笠を使いながら表現を楽しんでいます。
桐朋小学校では、踊りだけではなく、笠の飾りつけも自分たちでやります。今年は、これまで踊られてきた尾花沢系の花笠踊りと、現地山形でよく踊られている正調踊りに挑戦! 「ヤッショウ マカショ トウホウショウ!」
3年生は、【桐朋みかぐら】を
この踊りは、岩手県大森部落に伝わる神楽舞が基になっています。それを3年生の子どもたちに合った動きやリズムに変えて構成しました。
左手には自分で選んだ色の扇、右手には自分たちでつくった錫杖を持ち、太鼓のリズムに乗って元気よく踊ります。扇返しや足の動きなど、難しいところがたくさんありますが、一生懸命練習をしています。「ソーレ」
4年生は、【ソーラン節】を
ゆったりとしたソーラン節のリズムと、速いテンポの南中ソーランの歌に合わせ、足腰を中心に全身を使ってニシン漁を表現しながら、動きをたのしみます。
ソーラン節は北海道の民謡で、ニシン漁で歌われた歌です。振付は、押す、引く、担ぐ、放る、掬うなど、ニシン漁におけるさまざまな作業の動きがあります。「ヤ―レン ソーラン ソーラン ソーラン ソーラン…」
5年生は、【エイサー】を
沖縄本島や近隣の島々で旧盆に踊られる盆踊り「エイサー」。三線、太鼓、手踊りの踊り手が行列をつくり、村々の通りや各家庭をまわります。先祖の霊を供養し、太鼓やパーランクの音で村々を清めます。
沖縄市 園田青年会のエイサーに学び、全身を思い切り使って、周りと太鼓の音を合わせ、三線の音に動きを合わせながら踊ります。
『南ダキ節』『仲順流り』『海ヤカラ節』『いちゅび小節』『固み節』『唐船ドーイ』の6曲を歌に合わせて踊ります。
6年生は、【中野七頭舞】を
七つの道具を使い、七種類の踊りを踊ることから「七頭舞」と呼ばれています。
岩手県岩泉町、中野、小本で、約百八十年も前から踊られている「中野七頭舞」。荒地を開拓し、獣を追い払い、畑を耕して、豊作を祝い、仕事の苦労を癒すというストーリーで表現します。大地に向かい太鼓等の音にリズムに合わせ、全身を作って思い切り体を動かします。
「桐朋小学校運動会 表現運動 年譜」によれば、荒馬は1981年「1年荒馬遊び」から、花笠踊りは2015年から、みかぐらは1978年から、ソーラン節は2020年から、エイサーは1995年から、七頭舞は1983年から踊りつがれています。他には、アイヌの踊り、はねこ踊り、沖縄の踊り、身体表現、器械運動などにも取り組んできました。
本物に学ぶ~運動会高学年民舞~
いよいよ運動会本番です。
5年生は1学期から沖縄市の園田青年会の踊りを練習してきました。手踊りからはじめ、締め太鼓、大太鼓、旗頭をクラスで決めて、本番を迎えます。
運動会前日の土曜日、沖縄から駆けつけてくれた青年会みなさんから学ぶ時間があります。これに先駆けて、金曜日、大太鼓役の子たちと青年会の方と顔合わせをすることが叶いました。大変ありがたいことに、短い時間でしたが練習することも出来ました。
本場の踊りと三線の音と歌声をきいた子どもたちは、一気に引き込まれ、そして一気に動きが変わります。そして、自分たちの変化を身体で感じ、生き生きとした姿で練習を終えました。
6年生は岩手県中野の小本に伝わる中野七頭舞を踊ります。みんなで1つの踊りをおぼえてから、7つある踊りから1つを自分で選択して練習してきました。 七頭舞保存会の方と踊り手の方々に今年は3回お越しいただいて、各道具の練習を実際に踊っていただきながら学ぶ時間を持ちました。
授業でも集中力高く学んできていましたが、本場の踊りとご指導から一気にアップデートしていく様子は圧巻です。子どもたちの学びとる力と踊り手の皆さんの声掛けや踊る姿に引き込まれます。
授業のみではなくこうして本場の方から学ぶ時間は、大きな刺激になるだけでなく、日々の授業の成果から一皮むける機会にもなります。表面的に学び踊るのではなく、踊り込んで深めていくことで、その踊りの魅力を感じ、自然に身体が動いてしまう「はまる」状態になります。ぎこちなかった動きが滑らかになり、自分流の間の取り方で気持ちよく踊る姿はとても素敵です。
この時期、電車の中で踊ってしまったり、ふと太鼓のリズム音を口ずさんでしまったり、ちょっと長めの棒などがあると思わず踊り出してしまったり・・・そんな6年生の姿や、誰かがふっと手をたたき始めると次から次へと手で太鼓の真似をして踊り出して笑い出したり、歌を歌い踊りながら歩いている5年生の姿などが頻出します。
「運動会終わったら、踊りも終わっちゃうんだよね。」
と言っていた6年生がいました。楽しみだけどさみしくもある。素敵な言葉です。
ぜひ、悔いのない運動会にしてほしいです!